| ■ 2009/01/30 三國連太郎が語る白い道 |
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何というのでしょうか。人間も日頃、文明だ何だと、エラそうに生きていますが、突き詰めればこの地球上に生かしてもらっている小さな、小さな生命のひとつにしか過ぎません。 何やら大げさな書き出しになっている(?)ような気もしないではありませんが、今、関東南部の当地では雨降りの天気です。何でも人間の身体の何割かは水分でできているのだそうでして、その身体の中の水と雨となって落ちてくる自然界の水がうまい具合に共鳴し、その結果としてσ(^_^)私のような馬鹿者をも詩的な気分にさせている、と自分で納得してみました。 本日はまた、動画をひとつ作成しましたので、それを紹介がてら、その動画に登場される人物について書いてみようと思います。動画はもう少しあとで紹介するとして、その人物とは、超ベテラン俳優の三國連太郎さん(本サイト内関連ページ→ 1・2)です。 私も三國さんが俳優として一番活躍されていた時代はよく存じ上げていませんのでエラそうなことはいえないのですが、今の若い人には、佐藤浩市さんのお父さんと書いた方が通りがいいかもしれません。また、このところは『釣りバカ日誌』のシリーズで、西田敏行さん(→ 本サイト内関連リクエスト・カード)と軽妙な演技を披露されているようです。私はこのシリーズはまだ一度も観たことありませんいので、それがどの程度の“軽妙”さなのかは把握していないのですが。 何でまた三國さんの動画を作成してまで紹介する気になったのかですが、新年最初の月、私が注意してチェックしています教養番組(→ 本サイト内関連ページ)「知るを楽しむ」の火曜日「人生の歩き方」(本サイト内関連ページ→ 1・2)で三國さんが取り上げられたからです。題して「三國連太郎 虚と実を生きる」。 1月は特別な番組編成が組まれた関係で、通常は4回ほどのところ3回とやや物足りない内容でした。その3回目の放送がこの水曜日(28日)にあり、私は放送された翌日の昨日、早速自作DVDに変換し、永久保存としたばかりです(→ 本サイト内自作DVD画像)。 私が三國連太郎という俳優に特別関心を持つきっかけがあります。その“核心部分”に今回の番組でどれぐらい踏み込めるか個人的に注目していましたが、その期待は、最終回となった3回目の終盤にほんの少し叶えられた程度で終わりました。その部分を今回動画にして紹介しようというわけです。 今回、三國さんにインタビューを試みられているのは、NHKの古屋和雄アナウンサーです。古屋アナといいますと、私が反射的に思い出しますのは、1995年に阪神地方を襲った阪神・淡路大震災の報道番組の中で思わず見せてしまった涙です。 その優しさが邪魔をしたのか、今回の取材でも三國さんにもう一段踏み込むべきところ、手加減をしてしまった印象です。まあ、同じことを私にやれといわれても、ここで書いているほどのことが自分でできるかどうか自信はありませんがf(^_^) また、古屋アナでもうひとつ思い出しますのは、同じ番組で作家の宮本輝さん(本サイト内関連ページ→ 1・2)に取材された回です。宮本さんも波瀾万丈な人生を歩まれ、また、そのお話が実に面白く、感動的で強く印象に残っています(→ 本サイト内関連ページ)。 話を三國さんに戻しましょう。 三國さんにつきましては、実は前々から紹介したい対談がありました。今からすれば2年前の12月に発売された『週刊現代』紙上で組まれた三國さんと若手歌舞伎役者・中村 ついでまでに中村獅童という役者について触れておきますが、父親は初代の中村獅童という歌舞伎役者をしていた人で、弟さんは故・ 父親である初代中村獅童は、歌舞伎役者を廃業し、本名の小川三樹雄で東映のプロデューサーをしている時に三國さんとも交流があったそうです。その父親も、昨年の10月に亡くなっていますが、週刊誌で対談したのはまだ亡くなる前です。 この対談では三國さんの生い立ちに詳しく触れていませんが、NHK教育の番組でそれなりに詳しく伝えていました。その第1回目の放送を観ましたが、私はすっかり拍子抜けしました。もっと突っ込んだ話を聞けるものと勝手に期待を寄せていたからです。 三國さんが歩んでこられた人生というのが、これまた何本もの映画になりそうなほど波瀾万丈です。番組を一度観ただけでは、その全貌が頭の中に入ってきません。お生まれになったのは、静岡県の下田だそうです。下田といえば、前に本コーナーで取り上げたことのある 番組では、三國さんの父親の職業を「電気工事の職人」としていましたが、週間誌上の対談で、三國さんご本人は「桶屋」といっています。この桶屋というのが、私には具体的にイメージしにくいのですが、それに続けて「 ただ、少年時代の三國さんはそれほど貧しい暮らしをしていたのではなかったように、私は番組を観ながら感じました。といいますのも、小学校4年の時にたくさんの学友と一緒に撮った記念写真が残っているのですが、他の学友が皆着物を着て写真に収まっている中、三國少年はきちんと学生服を着、帽子をかぶっているからです。なるほど、将来役者になっただけあり、その頃から端正な顔立ちをされています。 三國少年は大変な腕白だったそうですが、反面、学業も優秀で、下田一といわれた旧制中学への進学を果たしています。進学しただけでなく、1年の2学期までは同学年で1、2位の優秀な成績だったそうです。両親の期待も大きかったことでしょう。 ところが、持って生まれた反発精神がその後の三國さんの人生を狂わせます。それが中学時代に早くも現れ、1年の3学期になると学校も休みがちになり、成績も急降下してしまったそうです。 旧制中学の生徒は寮生活を強いられたそうですが、それが窮屈に感じたのか、上からの命令が苦痛に感じられ、それが行動になって現れます。決定的となったのは、当時の学校には当たり前のようにあった(?)、天皇皇后両陛下のお写真「 何が三國少年にそんな行動を採らせてしまったのか。もしかしたら、当時から三國さんは気づいていた、かもしれません。この一件は、三國さんの将来を大いに期待していた父親を怒らせ、焼け そうしたこともあり、三國さんは家を飛び出してしまいます。行動力があるといいますか、14歳の三國さんは、下田港に停泊していた貨物船に忍び込み、中国大陸へ渡ってしまったといいます。その後、皿洗いなどの仕事で食いつなぎ、1年足らずでしたか、日本に戻ってきます。 その後、生まれたうちには戻らず、各地を転々とし、昭和25(1950)年、食うあてもなく銀座の街をふらついているところを松竹の人間にスカウトされ、翌年には木下恵介監督の『善魔』に早速起用されたというのですから、まあ、絵に描いたようなとんとん拍子ですね。しかも、その時の演技が評価され、第2回「ブルーリボン賞」で新人賞を受賞するというのですから驚きです。 そして、もっと驚きなのが、そのように俳優として大いなる展望が開けたというのに、当の三國さんはといえば俳優という仕事にちっとものめり込むことができず、「いつ辞めてもいい」と考えていたことです。ちなみに、三國連太郎という芸名は、その作品の役名だそうです。また、デビューにあたり(?)、大阪大学卒と学歴詐称したことも、長いこと三國さんを苦しめたようです。 その後、三國さんは独立プロの作品に出演したことがきっかけとなり、一転、役者という仕事に夢中になっていきます。しかし、その振幅が大きすぎるといいますか、一旦役者業にのめり込むと今度は家族をほったらかしでそれに熱中してしまいます。 今村昌平が監督した『神々の深き欲望』に出演した折、撮影期間が延びに延び、ついには2年間も撮影が続いたそうです。延びた理由のひとつは、今村監督が三國さんの演技に妥協しなかったこともあるでしょう。 長年の役者経験の中で、三國さんにも役者の癖のようなものがついていたのでしょう。それを今村監督はとことん嫌ったそうです。「 製作日程が大幅に狂い、製作費は底をつきました。撮影地は日本に返還される前の沖縄です。ついには日給が当時の1ドル(←当時は【300円】程度か?)になり、東京で待つ妻と小学校へ上がったばかりの息子(=佐藤浩市)への仕送りもできなくなってしまったそうです。 当時、三國さんは東京の 人生の皮肉といいますか、少年の頃の三國さんは厳しい父親に反発し、家を飛び出しました。その三國さんが、自分の息子に似たような思いをさせてしまったことになります。三國さんは有り金すべてを妻子に渡し、独り暮らしを始めます。 住まいに選んだのは、東京・ では、その後、三國さんはどのようにご自分の道を歩き出したかにつきまして、作成しました動画をご覧いただければと思います。なお、下のリンクから本サイト内「私の動画アーカイブス」へ飛び、あなたの目で確認してみてください。
ご覧になった感想はいかがでしょうか。私はこの場面を観ていてハラハラしました。なぜなら、番組の終盤になり、インタビューする古屋アナが三國さんの核心部分に手をかけたように感じられたからです。 昔、外国の生態学者(?)が、人間の仕草から心理状態を読み取る研究をし、その研究成果を本に著し、ベストセラーになったことがあります。私もその本を買い求めた記憶があります。たとえば、人が胸の前で腕を組む仕草をする時、その人間は相手に対して「警戒」する心理状態にあるといいます。 動画を視ますと、三國さんの核心に迫ろうとする古屋アナも思わず腕組みをし、自分自身を守ろうとする心理状態を 自分の寺を持たず、仏の道を民衆に説いて回った鎌倉時代のひとりの僧・ 古屋アナは、「どうしてそこまで、三國さんは親鸞に心惹かれるのですか?」というようなことを尋ねました。この質問のあと、ふたりの間に沈黙の時間が流れました。おそらくは、三國さんは心の中で、自分の思いをどこまで語っていいものか、逡巡(しゅんじゅん:ためらうこと=広辞苑)したのでありましょう。 やがて、意を決したように、「(これから話すことは編集で)切っていただいても結構ですけれど」と断ったあと、語り出しました。やはり、差別の無意味さを説いた親鸞に、三國さんは希望をかけていたのでした。世の中にある歪みの根底には差別があり、それこそが人類の悲劇ではないのか、と三國さんは理解したということでしょう(「Yahoo!知恵袋>被差別部落問題」)。 三國さんが子供の頃から実感していた差別は、いわゆる部落差別(「ウィキペディア>部落問題」|→ 本サイト内関連ページ)です。中村獅童との対談の中で、三國さんは次のように述べています。 これは私自身の話ですが、祖父の出身地が伊豆半島の被差別部落のひとつでした。また、父は桶屋をしていましたが、死穢にかかわる職種ということで、 若いときの三國さんがどうだったかは存じませんが、インタビューに答える三國さんはとても正直な方だと思いました。尋ねられたことに対し、綺麗な言葉を選んで並べるのではなく、自分の中の本心を自分で確認しながら言葉を選び、それを言葉に発している印象といったらいいでしょうか。それもこれも、親鸞という偉大な僧侶の生き方に共鳴し、それに学んだことが多いのかもしれません。 以上、本日は、三國さんが出演された番組の一部を動画にして紹介しながら、ひとりの人間の生き様を見つめてみました。 |