| ■ 2008/7/02 『2001年宇宙の旅』を観て |
|
今日は7月2日です。ということは、昨日は7月1日です。「当たり前のことをなぜわざわざ」と訝しく(いぶかしい:不審に思われる。うたがわしい=広辞苑)お思いの人もいるでしょう。 今日になれば昨日の1日は、毎月映画が【1000円】で観られるサービス・デイです。このところはそのサービスを利用しない、といいますか、映画鑑賞から離れていましたが、昨日の1日はそれを久しぶりに利用して映画を1本堪能してきました。 その日を前にして、何にするか探したわけでもありません。人生はいつでも出会い頭といいますか、おとといか、 昨日私が出かけた先は、東京・東銀座(「ウィキペディア>東銀座駅」)にあります 【1000円】札1枚でチケットを購入し(・∀・)イイ!!、長いエスカレーターに乗って劇場を目指します。その右手の窓の外を何気なく眺めていると、向こうのビルの壁面に「時事通信社」とあります。で、「そうか。時事通信はここにあったのか」と気がついたわけです。だからといって、何も得することもありませんが、昨日の場合は通常料金よりも【800円】お得だったので良しとしましょう。 その東劇で、SF映画の傑作(問題作?)『2001年宇宙の旅』(「YouTube>Official 2001: A Space Odyssey Trailer」)の公開が始まりました。私は同作品のLD(=レーザー・ディスク)は当然のように持っていますし、テレビで放映されたときも観ています(→ 本サイト内自作DVD画像)。が、大きなスクリーンで観たのは今回が初めてでした。どうしても劇場の大スクリーンで観たい、という願望が今回ようやく果たされたことになります。 この作品の監督は、いわずと知れたスタンリー・キューブリック。私は彼が生み出した作品とともに、実はキューブリック自身にも関心があったりします(→ 本サイト内関連ページ)。その辺りにつきましては、本日分でもできたら触れてみたいと思います(→ 本サイト内関連画像)。 映画は劇場の大きなスクリーンで観てこそと思います。たとえば、昨日の本作でも、冒頭で早くもそれを実感させられます。 上映が始まりました。が、スクリーンは真っ暗です。何も映っていません。音楽だけが館内に鳴り響いています。映写事故ではなく、キューブリックが意図を持った仕掛けです。時間にして2、3分。観客は何も映っていないスクリーンを見続けます。 これが家庭のモニターにDVDやビデオなどで再生しているなら、“退屈”なだけの場面はさっさと先送りしてしまうかもしれません。そうして、監督が意図したことに触れる機会を自分で放棄してしまいます。 『2001年宇宙の旅』はわかりやすいSF作品ではありません。受け取りようによっては実に難解です。それもあって、初公開された当時は、専門家の批評も 難しいことに深入りせずに作品に接していますと、まず気がつくのは、ヨハン・シュトラウスをはじめとするクラシック音楽がふんだんに使われていることです。 人類が誕生する以前の地球には、智恵を持ち始めた類人猿(?)が群れを作って生活しています。群れの周りには、死に絶えた動物の骨だけになった ある日ある時、群れが生活をしているところに磨き抜かれた黒い石柱(「ウィキペディア>モノリス」)が出現します。その石柱に啓示を受けたのかどうかわかりませんが、群れの一頭が、周りに散乱する動物の死骸から1本の大きな骨を手にします。 はじめは、何の気なしにその骨で死骸をポンポンと叩き始めます。同じ動作を繰り返すうちに、その個体の脳が回転を始め、1本の骨が道具へ、武器へと進化していきます。その決定的な場面にシュトラウスはシュトラウスでもリヒャルト・シュトラウスの『ツァラトゥストラはかく語りき』(「YouTube>RICHARD STRAUSS - ALSO SPRACH ZARATHUSTRA」)が高らかに鳴り響きます。 そして、原始の空高くに放り投げられた動物の白い骨が、未来の宇宙空間に浮かぶ真っ白な宇宙船へと変わります。転換された場面にはヨハン・シュトラウスの『美しく青きドナウ』が さて、『2001年宇宙の旅』の原作者のアーサー・C・クラークはこの作品で何を書き、何を訴えているのでしょうか。そして、それを映像化したキューブリックは、原作をどのように解釈したのでしょうか。キューブリックの中で明確に解釈できたのであろう“哲学”を、作品を観る観客が確実に受け取れる保証はありません。私も、自分なりに 物語は木星を目指す宇宙船内へと移ります。その宇宙空間の中の密室で会話を繰り返すのは、ボーマン船長と乗組員のブール、そして、宇宙船の機能を一手に任されている超高性能コンピュータ「 HALは、遥か地球から送られてくる乗組員からのビデオレターを取り次ぐこともすれば、乗組員が横になるベッドの傾斜の調節に応えるなど、知能を持ったロボットとして、人間に仕えます。 これ以上頼りになる相棒はいません。HALは人間のように考え、話している、かのように思えます。声は男性の声。船長とブール乗組員は、HALを「彼」として、対話を繰り返します。 木星到着まではまだ間があります。ある時、船長と対話するHALが「自分たちの任務に疑問を感じないか?」と船長に謎を問いかけます。上層部は何か重要なことを隠したまま、自分たちをいまの任務に就かせているのではないか、というような疑念です。 人間が作り上げた機械でしかないはずのHALが、人間の船長たちが考えもしなかったようなことに“頭と心”を痛めていたのでしょうか。それに気がついたとき、船長たちの心には、ある種の深い不安が芽生えたかもしれません。 HALが、宇宙船の船外に取り付けられているパラボナ・アンテナ(?)状の機器が、72時間後に故障すると船長たちに知らせます。船長は地球の司令部と通信し、部品を取り替えることにします。 そのためには、危険な宇宙空間に出て作業しなければなりません。船長が主要回路を外し、船内に持ち込みました。それを丹念に調べますが、どこにも故障の兆候は見つかりません。船長と乗組員はその事実でHALを問い詰めます。 人間とHALの間に生じた疑念の溝は大きく、深くなっていきます。一体、何のためにHALは人間に ラストは光の洪水(「YouTube>Pink Floyd "2001: A Floyd Odyssey"」)と年老いた自分(「YouTube>Pink Floyd Echoes/2001 a space odyssey」)、それに類人猿の群れが暮らすところに出現し、月面からも発見された磨き抜かれた黒い石柱、やがて、胎児です(「YouTube>2001: A Space Odyssey Ending」)。 これに関係あるのかどうかわかりませんが、私個人は2004年の秋以降、同じ光の洪水のシーンを観ても、受け止め方に変化がありました。 その年の夏の終わりに脳を損傷した私は、2度の手術を受けました(→ 本サイト内関連ページ)。その2度目が終わって記憶が戻ってからしばらく、目を閉じると ほどなくして、その光に悩まされることはなくなりましたが、『2001年宇宙の旅』であの光の洪水に接することで、その時の記憶が呼び覚まされました。 救いを求めるようにタヒチに渡って絵を描いた画家・ゴーギャンが今生(こんじょう:この世に生きている間。この世=広辞苑)の別れとして残した(?)のが『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』です(→ 本サイト内自作DVD画像)。 劇場を出て、銀座の街を歩きながら、私はゴーギャンのその作品名を頭に浮かべました。街を往く1人ひとりは、己が何者なのかなど考えもせず、その日一日を面白おかしく暮らしているだけのように見えます。 それでまったく問題ありません。が、同時に、人間の力ではどうしようもない激流の中に紛れもなく自分もいるのだという現実が厳然とあるのだということです。 意識する、しないに拘わらず_。 |