■ 2008/10/10 「ノーベル賞化学賞」受賞の下村修さんに寄せて

秋という季節は、「○○の秋」といったように形容されますが、そうか、「ノーベル賞決定の秋」でもあったのか、と思わせてくれるような今年の秋です。

一昔前までは、日本人のノーベル賞受賞者はごく限られ、欧米人のための賞(?)という印象もなくはありませんでした。それが、今では毎年のようにこの賞を贈られる日本人が現れるようになりました。

それにしても今年は“実りの秋”といってもいいでしょうね。3人同時の受賞決定にも驚かされましたが、そのあとすぐにもうひとりの受賞も決まり、受賞ラッシュの趣さえあります。

私個人としては、単なる偉人(?)よりも、偉人でありながら変人であることを好みます。そして、その変人ぶりの度合いが強いほど、より関心を持ってしまいます。ひとつにはσ(^_^)私自身が変人っぽいせいもあるかもしれません。私の場合は偉人とは正反対の人間ですけれど(→ 本サイト内関連ページ)。

そのような観点からここまで決まった受賞者4名の顔ぶれを見た場合、私の関心を一番引きつけるのは、最後に受賞が決まった下村修しもむらおさむさん(80歳)になります。ということで、本日は途中歯科医院行きを挟み、下村さんについて書いていくことにします(※参考:2008年10月9日付け産経新聞記事)。

なぜ下村さんが私の関心を引きつけるのかといえば、まずは氏の経歴です。今回同賞の受賞が決まった4名の研究成果につきましては、ど素人ですのでまったくわかりません。ただ、ノーベル賞をもらうぐらいですから、凄いんだろうなといった程度の理解です(^m^)

で、どうせわからないのであれば、その賞を受賞するまでの過程がドラマチックであるほど世の普通の人の関心も引くでしょうし、私の関心もグイグイ引くということです。端的にいえば、受験勉強の結果上の大学へ進み、そのまま研究の道まっしぐらでもいいのですが、その過程に「対称性の破れ」でも不注意にしゃがんでズボンの股の部分が破れた「またかい(゜Д゜)?」でもいいのですが、人生の行程における“破れ”があることでその人間の一生が味わい深いものになると私は考えるからです(本サイト内関連ページ→ )。

これまで下村修さんの存在を私はまったく知らずに過ごしてまいりましたが、初めて下村さんのお顔を拝見したとき、「日本人離れしている」と直感しました。その昔に聞いた漫才での面白おかしいやり取りに「お前は外国人(=白人)離れした顔してるな」というのがあったりします。「外国人離れ=こてこての日本人顔」といった意味合いで笑いを取っているわけですが、下村さんは身長が180センチ以上あるということと白人のような顔の造りで、「日本人離れしている」と私は素直に感じたのでした。

それがため、子供の頃は外国人のような顔をした下村さんは、悪ガキたちにいじめられたこともあったやに聞いています。

その下村さんが生まれたのは京都府福知山ふくちやまで、お父さんが陸軍の将校をされていたことで、満州や大阪で幼年時代を過ごし、旧制中学校のときに九州の長崎へ疎開(そかい:空襲・火災などの被害を少なくするため、集中している人口や建造物を分散すること。疎散=広辞苑)したということです。何でも、長崎の中学へ転校したその日に、学徒動員で早速軍需工場へ行かされたりもしたそうです。時は第2次世界大戦の直中ただなかです。

そして、下村さん16歳の8月9日、アメリカ軍は長崎の街に原爆を投下しました(本サイト内関連ページ→ )。戦争は当時の人々の夢や希望を打ち砕き、下村さんも中学校の卒業証書がないことで、旧制高校への進学もできず、途方に暮れたそうです。

私は自他共に認める極端な出不精(でぶしょう:外出をおっくうがること。また、そういう性分の人。でぎらい=広辞苑)で、旅行も学校の旅行以外は行ったことがありませんが、高校の修学旅行で九州一周の旅行に同行しました。最初の訪問地が長崎で、グラバー邸のある高台(「ウィキペディア>グラバー園」)から見た長崎の街並みは今も記憶に残っています。その眼下に、確かに造船所があったのかどうか。この辺は記憶があやふやですf(^_^)

ともあれ、そのように大型船とも馴染みが深い土地に暮らすためか、当時、下村さんは機械が好きだったこともあって、船の設計に興味を持っていたそうです。

そんな折、原爆によって破壊され尽くした長崎に、長崎医科大附属薬学専門学校(=現在の長崎大学薬学部)が移転してきます。同校ができたのが下村さんが住む家の近くだったそうで、薬のことには何の興味もなかった下村さんでしたが、ほかに選ぶ道もなく、本意でないまま同校へ入学したのだそうです。

持って生まれた優秀な頭脳で、下村さんは同専門部を主席で卒業後は、名古屋大学のある研究室に進むことになりますが、訪ねた日はその教授が出張していたために会うことができず、これも偶然の出会いですが、たまたま居合わせた故平田義正教授が中心となって進めていた研究チームに入ったのだそうです。

この平田研の研究テーマがウミホタルで、その中での研究成果が今回の「ノーベル化学賞」につながったわけですから、やはり人生というものは“出会いが命”で、計算して得られるものではありませんね。

下村さんが平田教授の下で研究していた当時、アメリカのプリンストン大学では発光物質の精製に取り組んでいたそうです。しかし、20年以上年月をかけた研究でもそれが実現できずにいたといいます。

アメリカから遠く離れた日本の研究チームで研究の日々を送っていた下村さんがある日のこと、これまた偶然のようですが、濃塩酸を混ぜたところ、結晶化に成功してしまった! のだそうです。この研究結果を携え、昭和35(1935)年、下村さんはアメリカのプリンストン大学へ留学することになるわけですが、当時はアメリカへの民間航空路はなかった(?)のか、横浜港から氷川丸ひかわまるという船で向かったといいます。

このときのアメリカ行きが氷川丸最後の航海となるわけですが、その氷川丸が今は役目を終え、横浜の山下公園前の埠頭ふとうで展示施設として公開されています(「YouTube>埠頭を渡る風」)。

個人的な思い出としましては、小学校の修学旅行で箱根へ向かう途中、この氷川丸の見学もコースに入っていました。中で映画を観た記憶がありますが、これも昔のことですので、どんな内容の映画だったかはさすがに憶えていません。

ここまで書きましたところで、今回も歯科医院行きの時間が迫って参りました。治療もあと2、3回で終了する模様です。本日、当地では朝のうちは快晴でしたが、この時間になり、雲が多くなってしまいました。ということで、陽射しよけの帽子はいらないかなぁ、などと考えています。

そだ! ついでに、NHK−FMのリクエスト番組「サンセット・パーク」宛てのリクエスト・カードを投函してくることにします(→ 本サイト内該当リクエスト・カード)。ここまで予約時間を見ながら更新していますので、誤字や脱字があると思いますが、それも含めて戻ってきてから修正や加筆をすることにします。それでは、再開するまで今しばらくお待ちください。行ってまいります|・∀・` )ノ(※ここで一度ブラウザの 更新をお願いします)

治療から戻ってまいりました(´Д`)ノ 出かける前までは「ちょっと曇りがちかなぁ」と思っていましたが、その時も空全体は曇ってはおらず、すぐに晴れ間が広がりました。そして、治療が終わって外へ出るといい天気でした。

治療といえば、支払いの段になってドキッ! とさせられました。請求額が【8400円】だったからです。聞いた瞬間、「所持金では足りないかも…。絶対に足りない!」と思いました。恐る恐る財布を開けると、5千円札1枚と千円札が2枚です。足して7000円。小銭を全部出すと、なんとなんと1390円。惜しい! 10円足りません。

すると受付の女性が、「これは1万円ですね」といいました。5千円札だと思ったお札は1万円札というオチです(^_^; 「足りなかったら次回で結構です」といってくれていましたが、足りて安心しました(*´ο`*)=3

さて、先ほどまでの続きですが、下村さんが最初に渡米した時からそんなに長く滞在するつもりだったのかどうかわかりませんが、初のアメリカ行きから3年後に一旦帰国して日本の大学に戻ったものの、2年後には再びアメリカへ渡り、以来、アメリカ暮らしは45年続いているといいます。それでいて、アメリカの国籍は取っていないそうで、今も国籍は日本だそうです。

途中でも書きましたように、私は極度の出不精ですから、国外はおろか国内でもどこかへ行くのは非常に億劫です。ですから、日本以外の国に移住することなど思いもしません。

移住つながりで思い出しましたが、先月の下旬、イタリアに暮らしてそれぞれが目指す道で腕を磨く若い人を取材したドキュメンタリー番組が放送になりました(「テレビ東京>イタリアで夢を追う!若き日本のTRY人」)。その番組をPCで録画し、自作DVDにしましたが(→ 本サイト内自作DVD画像)、本場の靴職人の下で修行する若い女性や絵の修行をする男性など、イタリアの古都で明るく生きる彼らが私にはとても眩しく映りました。

下村さんの奥様は薬学部の後輩だったそうですが、一緒にアメリカ暮らしをされ、“助手”として一緒にクラゲを採ったり実験の手伝いもされてきたようです。おふたりの間に誕生した子供たちも今は独立し、夫婦でマサチューセッツ州に暮らしているそうです。

下村さんがアメリカ行きを選んだのは、大戦が終わったすぐあとという時代のせいもあったかもしれません。それでも、当時の研究者がみな海外へ飛び出したわけでもありません。ですからそこには、保証された環境で研究を続けることへの抵抗感のようなものが下村さんの中には強くあったのかもしれません。

それを証明するように、「研究に専念するための自由と引き換えに、研究資金や給料を自分でまかなう厳しい道を選んだ」という当時の下村さんの思いが記事で紹介されています。

海外へ飛び出した研究者が功績を挙げたりしますと、「頭脳の流出」などといったいわれ方がされます。その根本には、そうした頭脳を日本国内で十分に活かせない環境があるように思います。

この話を亡くなった姉の夫(=義兄)としましたが、「結局は日本が、効率、効率で無駄をドンドン切り詰めていった結果なのではなかろうか」というような結論に達しました。考えてみれば、下村さんが今回受賞した成果は、戦後すぐぐらいに導き出したものが元になっているのでしょう。それが数十年経った今になって世界的な賞として認められたわけです。目先の効率だけ求めていたら、とても耐えられないことです。そうしたことから、今回のような世界的栄誉につながる研究を地道に支え続ける環境がこの日本でどれほど許されているのか、という問題になりそうです。

現代という時代は、日本に限らず、すぐに結論を得たがります。しかし、真に意味のあることは、一朝一夕いっちょういっせきには得られるものではないのだということです。成果を得るまでは、海のものとも山のものともつかないものです。それでも信じて、粘り強く待てるだけの度量が試されているのだと思います。

下村さんはちょうど1年前、母校である長崎大薬学部を訪れて講演をしたそうです。実に熱のこもった講演だったそうですが、下村さんは日本の若い研究者に向かって次のようなエールを送ったそうです。

研究をやり始めたら、できるまでやめるな。一度ギブアップすると、(諦めるのが)くせになる。

下村さんのこのエールは、どんな世界にも通じることだと思います。とりあえず、私は本サイトの更新を諦めず、いつまでも更新し続けようと思います(*`・ω・´*) もっとも、それを続けたからといって何か成果があることも、ましてやノーベル賞を授かるようなこともないわけですけれど…(´・ω・`) せめて「ネヴァー・ギブアップ精神」だけは受け継ごう、てことで_。