| ■ 2007/07/11 絵画表現を深める要素とは? |
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本日は絵の話をすることにします。 はじめは別のことを書こうと思いました。候補のひとつは、各地で予選が始まっている高校野球について。 特待生問題(→ 本サイト内関連ページ)があってからというもの、私の高校野球熱(※高校野球における私の関心は地方大会止まりです(^m^) 全国大会は関心が薄いです)は冷めつつあります。この問題について書こう、とそもそもの発端となったプロ野球・西武ライオンズの「裏金問題」(「Yahoo!ニュース>西武ライオンズ裏金問題」)を報じた新聞記事をスクラップの山からかき集めました。 この問題で味噌をつけたハズの早稲田大学・野球部が、ハンカチ王子(=斎藤佑樹 ←恥ずかしいネーミング)だか何だかの入部を契機に、(※早大出身者がマスコミ関係者に多いから?)ブームを盛り上げ、その部の監督の責任が全く問われていないのは実におかしな話です。ただ、それらをひっくるめて書き、しかも、特待生問題についてまで論じることになると、かなりの労力となりそうなので、本日のところはパスしておきます(´ω`) ほかにも、アメリカの下院で可決された従軍慰安婦問題のおかしさや防衛論議など取り上げたいことは山ほどあります。が、今日のところは頭を休ませ、自分のフィールドである絵について書くことにします。 絵の話となると、いつもにも増して個人的な話にならざるを得ません。ここ最近、私は自分の“画力”が一段ステップアップしたことを実感しています。もっとも、自分が描いている絵を誰にも見せないで、自分ひとりでそう感じているだけで、客観的評価とは無縁の自己判断ですけれど( ;^ω^) 私が描きたい対象は人間です。それも、実際に自分の眼で視て描きたいため、勢い、私のモデルを務めるのはσ(^_^)自分です。例によって回りくどい書き方ですね。世間ではそれを『自画像』といいます。 興味のない人にこんな話をしたなら、「自分の顔だけ描いていて飽きないの?」と不思議がられるかもしれません。私がそちら側にいたとしたら、自分が思ったままを口にしてしまう性質の私のことです。あけすけに「飽きないの(°Д°)∩?」といってしまいそうです。 こちら側にいる私は、「飽きません」と答えるしかありません。正直な答えです。 私は、書店で偶然見つけた千住博さんの『千住博の美術の授業 絵を描く悦び』(光文社)という文庫本を買いました。私は馬鹿正直(→ 本サイト内関連ページ)ですから書いてしまいますが、買っただけで、まだほとんど読んでいません。読んでいる時間がないからです。 でも、ほんのさわりの部分だけは見ました。そこに、千住さんはこんなことをお書きになっています。
これは絵画表現に留まらず、人は得てして、自分の中にないものを求めがちです。絵を描くという行為に引き戻して考えれば、本来自分が持っている以上のものを描こう、という欲求ということになりましょうか。 自分のことを考えてみると、私は何かを想像して、絵物語にすることは苦手です。そうはいっても、絵であれば、どんな空想でも絵にできます。そして、それこそが絵を描く楽しさと思わないでもありません。 ただ、それを私が真似ると、長続きしません。人がフワッと空に舞い上がったような、たとえばシャガールのような絵も描けないでもありません。が、 ならば、自分の中にあるものが何かとなります。私の場合はもっぱらの関心が人間であるという事実。私は風景にも静物にも関心が持てません。子供の頃からノートに描いていたのも人間ばかりです。あ゛、小学校の頃は、今も大好きな、ヘリコプター(「YouTube>Helicopter video」)(→ 本サイト内関連ページ)の絵を描いていました。今も同じようなヘリの絵だったら描けるかな(^m^)? 少し前。『自画像』ばかり描いていても進展がないように思え、空想で何か描けないか試しました。で、ちょっと描いたりしたのですが、どうも上手くいきません。そこでも私は人間を描こうとしましたが、描いていて楽しくありません。肌の色を作るにしても、決まったような色になってしまいます。 すぐに元のスタイルに戻しました。自分自身を鏡に映し、それを描くという実にシンプルなスタイルに。 筧さんの絵のモチーフの大半(?)は、昔から一貫して自分自身を描いた『自画像』です。そんなところに共感し、繰り返し観ているのだと思います。放送された当時既にご高齢で、それでも意気盛んな筧さんは、鏡に映る自分に向かう毎日を送っています。取材した時奥様は病院に入院中とかで、愛猫との暮らし。朝食のパンを食べるのももどかしげに、自分と対峙する時間へと戻っていきます。 おそらくは筧さんの場合も、「自分にあるもの」は己を描きたいという欲求なのだと思います。筧さんはそれに忠実に従い、毎日を生き、制作を続けていることになります。放送から随分年月が過ぎましたが、今もお元気なのでしょうか。 私が絵を描く上でお手本にするのは、今も昔もレンブラント(本サイト内関連ページ→ 1・2・3)です。3年前、脳神経外科に入院したときもレンブラントの画集を一冊持参しました(→ 本サイト内関連ページ)。 小さな疑問でも生じると、レンブラントの画集を開き、視ながら何かしらの答えを見つけようという習慣があります。 そのようにして何年も何年も画集を眺めることを続けてきても解明できなかったレンブラントの技法が、ここへ来て理解できてきた、ように感じています。いや、これも私が得意とする早とちりに違いありません(?)。 レンブラントというひとりの人間ですが、画集を視ていると、歳とともにその技法が大きく変化しているのがわかります。そして、私のもっぱらの関心は晩年の技法です。 一般的に、写真のように緻密に描かれた絵は感心されますが、晩年のレンブラントはそれとは逆の表現に向かいます。その頂点といえるのが有名な『ユダヤの花嫁』であり、そして、私も大好きな『 レンブラントの専売特許であった(?)『自画像』(「YouTube>Rembrandt Himself」)も、晩年に向かうほど表現に無限の深みが増していきます。 最近私が実感していることは、「絵は技術だけで描けるものではない」ということです。これを上手く説明できる自信はないのですが、最低限の技術が必要なのはいうまでもありません。職人の 思えば、レンブラントは大変な人生を送っています。若くして名声を得、名門の出の娘との結婚を果たします。しかし、愛する妻サスキアには早くに去られ、後生の伴侶となった心優しきヘンドリッキェも、愛息ティトゥスもレンブラントを残して世から去っていき、財産を没収されたレンブラントは破産状態で屋根裏部屋のようなアトリエに追い込まれます。それでも、作品を描き続けました。 その境遇がレンブラントの作品世界を深めていったことは間違いないでしょう。そのことを私が実感でき、また、実際の描画で手応えを得られるまでに長い年月がかかった、ということかもしれません。 今日の関東南部は梅雨模様。私は「晴耕雨読」という生活態度が好きです。太陽の陽射しのない日には、自然に逆らわず、独り静かな時間を過ごす。絵を描くのには最適な空模様といえそうです。 【本日の豆指摘】:今日の産経新聞・スポーツ欄に「石川参戦」の記事があります。ここでいわれている「石川」というのは、高校1年生で男子プロゴルフツアーに優勝した石川遼選手を指していることは断るまでもないと思います。その石川選手が、フジサンケイグループ主催の大会への出場が決まった、というニュースです。しかし、主催者側の出場要請が「(石川選手を)高く評価して」というのが笑えます。そうではないでしょう。ハッキリいわなきゃ( ゚∀。) フジサンケイが非常に高い“評価”をしたのは、“視聴率を稼げる実力”(=金儲け)でしょおぉ? 先頃行われたアマチュアの大会を、フジテレビは予選ラウンドから異例の放送を組みました。石川選手は結局予選落ちしました。それを知って私は「ざまぁみろ!」と思いました。石川選手に対してではありません。視聴率を目論んだフジに対してです。金になると思えば、恥も外聞も捨て、「ハニカミ王子」(←悪趣味もここに極まれり!)と祭り上げます。祭り上げられている選手のことを考えてあげてください。金儲けに熱心なテレビ局さん♪ |