■ 2007/07/07 ネットの「祭り」考

夏祭りの季節ですね。昨日から、東京台東たいとう入谷いりやでは季節を感じさせる「朝顔市」が始まったそうです。

関東地方の梅雨が明ける頃には学校が夏休みに入り、各地では花火大会も催され、祭り気分は一気に盛り上がっていくことでしょう。

ということで、本日の本コーナーでは、「祭り」について書いてみようと思います。そんな私はといえば、最近は祭りに出かけることもめっきり減りました。

小学校低学年までは人並みに祭りを楽しみにする子供でした。もっとも、私のもっぱらの楽しみは、出店に並ぶおもちゃを買ってもらうことでした。目にする物を次々に欲しがり、さぞや親を困らせたことでしょう。祭りの場面でも“問題児”でしたかね( ;^ω^)

さて、その「祭り」ですが、本日ここで取り上げたいのは、祭りは祭りでも、最近とみに問題にされがちな「ネットの祭り」です。この「祭り」を、あるページでは「巨大掲示板『2ちゃんねる』内で、あるスレッドが爆発的に盛り上がっている状態」と解説しています。

この「2ちゃんねる」は、何かというと既存メディアの攻撃対象にされ、5月22日付け朝日新聞でも、「『2ちゃんねる』高まる批判」という記事を載せています。このような決めつけは、逆の見方をすれば、旧来のマスメディアの心理的焦りの証明、になりはしませんか。

たとえば、「今の若者に高まる批判」という見出しの記事が載った場面を想像してみてください。必ずや、次のような非難が起こるでしょう。「『今の若者』といったって、10人いたら10人違う。何でもかんでも一緒くたにして批判すればいいってもんじゃない!」。それと同じ理屈で、「2ちゃんねる」と十把一絡じゅっぱひとからげげで批判しようとすれば、細部を見落とすことにつながりかねません。

あの『麗子像』で知られる画家の岸田劉生りゅうせいも、「真実は細部に宿る」とか何とか申したではありませんか。大雑把な物の見方は、大切なことが隠されているかもしれない細部を見落とすことになりかねません。

「2ちゃんねる」(「ウィキペディア>2ちゃんねるの歴史」「YouTube>麻生、2ちゃんねる発言」)を日常的に利用されない方は、新聞やテレビで批判の的にされることの多いこの掲示板にあまりいいイメージを持たれないかもしれません。が、この掲示板は巨大で、ありとあらゆるジャンルのスレッドがあり、中には「メンタルヘルス」に関心を持つ者がつどうものもあるんですよ。車が人の命を奪う乗り物だからといって、世の中から排除できないように、凝り固まったイメージだけで「2ちゃんねる」を排除しようというのは乱暴です。要は付き合い方です。

今日、「ネットの祭り」について書こうと思ったのは、昨夜、NHK総合で放送された「特報首都圏」(金曜/19:30〜19:55)を観て思うところがあるからです。昨夜の放送では、「ネットの“祭り”が暴走する!」と「2ちゃんねる」掲示板で起こる「祭り」に焦点を当て、それを問題視していました。

起こった「祭り」の一例に挙げられたのは、1999年に山口県光市で起こった「母子殺害事件」の裁判に関わっている弁護団の手法への不満を“マグマ”とする「祭り」です。

弁護士とは、それが凶悪事件を起こした被告であっても弁護しなければならない宿命にあるのでしょうが、弁護となれば、被告が犯したかもしれないことを「なかった」と主張しなければならないのだとしたら、何と危険で虚しい職業でありましょう。

これは、先日の本コーナーで書いたこと(→ 本サイト内関連ページ)の繰り返しになってしまうかもしれませんが、この事件の被告の弁護団は、被告は「母恋しさ」の感情から引き起こされた行為の結果起きてしまった(?)「傷害致死」なのであり、被告にいわれているような「凶悪性はない」と死刑の回避を求める弁護を展開しています。

問題は「事件の真相」で、それを見極めるために、差し戻してまで裁判を開いているというのに。

弁護団が主張しているのが事件の真相であるのだとしたら、被告の刑はそれなりのものに落ちつくでしょう。しかし万が一、弁護団が主張していることが、被告の刑を軽くするために弁護団と被告が一緒に「作り上げたもの」であるとしたら、弁護団と被告は厳しい指弾(しだん:つまはじきすること。転じて、非難すること=広辞苑)を受けても仕方ないでしょう。

母親を自殺で失っている被告が、母恋しさで被害女性に甘える気持ちで抱きつき、勢い余って殺してしまった(?)。死んでしまった女性に性行為に及んだのは「生き返らせるため」で、生後11カ月の娘は、あやそうと思ってつかんだら床に落ちてしまった。首に紐を巻いて絞め殺した、のではなく、蝶々結びにしただけ。娘の死体を押し入れに押し込めたのも、ドラえもんが何とかしてくれると思ったから。これが事件の真相、と弁護団に加わった21人の弁護士全員が心の底から信じている、とは私個人は信じがたいです。

もし仮に、その21人の方々の中の誰かおひとりの奥様が、何者かの身勝手な性欲で無惨に殺されたとしましょう。その被告の弁護に当たった弁護士も同じような弁護をします。それを聞かされた21人の誰かひとりである弁護士さんも、「なぁるほど!(膝をポンと打つ) そういうことだったのかぁー。これで綺麗さっぱり疑問が解けました。そうだよな。フムフム。わっかりました! 100%了解(*´ω`)ノ」といえる自信はありますか? ということです。社会常識で考えてみて、この事件の弁護団の手法が突飛すぎて理解が得られず、その結果「祭り」状態になったとしても、理解に苦しむほどのことではないように私にも思えるのすが。

昨日の番組が伝えることには、「祭り」に参加した人を中心に(?)、日本弁護士連合会には、この事件の弁護を担当する弁護士に対し、1000通を超える「懲戒請求書」が届いているといいます。

ここでお断りですが、私は「2ちゃんねる」はもとより、ネット上では、本サイト以外の場所で自分の考えを書くをことはしていません。「2ちゃんねる」は関心のあるスレッドを読んで情報を得るだけです。書き込んで参加したことは1度もありません。

そもそもが、私は他人ひとと関わることを極力避けています。それはネットでも同じで、基本的に、他者とのメールのやり取りもどうしても必要がある場合(※本サイトへの問い合わせなど)以外はしません。ましてや、掲示板での交流は進んでするハズがありません。

あれは父を亡くした2000年(→ 本サイト内関連ページ)だったと思いますが、数カ月だけ掲示板で交流らしきことをした時期があります。本サイトでもたびたび取り上げていますNHK−FMのリクエスト番組「サンセット・パーク」リスナー(※超常連リスナー&リクエスター)のために設けられた掲示板での話で、あるリスナーから誘いを受けた私は、正味2、3カ月でしたか、毎日のように書き込みをしました(やる時はやるし、やらないとなったら全くやらない。この極端さが私の持ち味( ^ω^))。

しかし、そこでも私のコミュニケーション能力のなさが災いし(?)、私が掲示板を“占拠”していると新規に書き込もうとしている人の妨げになる、というような趣旨のことを書き込まれ、それが基で喧嘩になって私はそこを去りました(→ 本サイト内関連ページ)。掲示板での交流は、その時が最初で最後です。

そんなわけで私は、現実世界にまでつながるような行動には出ませんが、光市の事件弁護団に疑問を感じ、彼らに「懲戒請求書」を送付する人が多数現れても別に構わないと思います。それを受け取った弁護士の方々は、そうした行為自体を問題視するのではなく、自分たちが採っている手法が果たして事件の真相に基づくものなのか、それとも、被告の刑を軽くするための手段に過ぎないのか、自分たちを客観的に見直すためのきっかけにして欲しい、と個人的には考えるだけです。

ここで、昨夜の番組にも通じるような別の番組についても書いておくことにします。

同じNHKで、今年5月8日に放送されたクローズアップ現代(月曜〜木曜/19:30〜19:56)です。その回では、「“カリスマ”続々登場!ブログ新時代」が取り上げられました。放送はPC録画して残っているため、これを書くに当たり、観返しました。

番組が伝えるには、昨年の段階で、日本語による全ブログ数は800万を超えたといい、全世界にあるブログの実に3分の1を日本のブログが占めるという話でした。なんか、凄いことになっていますね。で、この中からは、多くの人に影響力を持つ「アルファブロガー」も登場している、といいます。

番組では幾人かのアルファブロガーに取材しています。その内のひとりの男性(32歳)の場合は、外資系投資銀行に勤務した経験を活かしたブログを開設したところ、評判を呼んでいるといいます。男性は勤めを辞めてブログを中心とした生活に切り替え(?)、今では、本を出版したり、テレビにコメンテーターとして出演するなど、活動の場を着実に広げているようです。

また別の男性(36歳)は、男性の趣味である読書をブログで活かし、連日読んだ本の書評をし、多くのブログ読者を持つそうです。今では出版社から毎週2冊ほどの新刊本が贈られてくるといいますが、ご本人は至ってマイペース(?)。今後も「ライフワーク」として、ネットを通じた書評を続けていく意向のようです。

この日のゲストだったジャーナリストの佐々木俊尚さんの考えは、5月20日の産経新聞に載った記事「時評 論壇 6月号 ネット言論の行方」の中でも、数人のひとりの見方として紹介されています。

これは、朝日新聞社発行の月刊誌『論座』(「匿名言論は卑怯」か)で披露された考えのようで、その中で佐々木さんは、「無責任」「品のなさ」がネット言論の本来的な性質とは見ていないといいます。

キーワードとなりそうなのは、「取材の可視化」です。

頭の出来がよくないσ(^_^)私にはこうした物言いはなかなか真似ができませんが、意味するところは、従来のマスメディアが取材した対象を一方的にしか捉えられない(捉えたくない?)のに対し、ネットの発信者が組織に属さない全くの個人である場合、個人の裁量で感じたままを何の制約も受けずに伝えられ、その結果、「力が平準化・透明化」されることを指す、というような意味(←という風に私は理解しましたf(^_^))らしいです。

これにも通じる話で、テレビ番組の中でキャスターの国谷裕子くにやひろこさんから佐々木さんは、「ブログを書く個人(=素人)の方自身が一次取材をするわけではありませんよね?」というような質問をされました。

そりゃそうです。組織にも属さず、また、ブログなりサイトなりで文章を書く個人のほとんど全ては、それを職業にしているわけではなく、興味を持ったことに取材できる手段もありません。私なども、一次取材の新聞やテレビなどを基に、好き勝手なことを書くのがもっぱらです(´ω`)

では、そのように、自分では取材せずに、取材された記事などを基にして書かれた文章に全く意味がないか、といえば、そうとも言い切れない、と佐々木さんは答えます。

それが、『論座』で語り、産経の記事で紹介された「取材の可視化」で、何物の束縛も受けない生の考えとしてネットの誰かに届けることができるのであれば、意味はなくないということです。そこに各人が持つ専門性が加われば、力はより大きくなる、とも付け加えています。

問題は「匿名性ゆえの無責任」ですが、これについても、佐々木さんは次のように好意的に見ています。

匿名性ゆえの無責任性は確かに負の特質ではあるが、ネット空間が生まれて日も浅いがゆえの一時的な欠落と見て、やがてマスコミ空間並みの公共性(いっていいことと悪いことを区別する倫理)が自ずから生まれてくることを確信して、ネット言論自体の芽を摘んではならない。

佐々木さんのように見てくれている人もいることを知り、私は大いに勇気づけられたものです。

昨夜の「特報首都圏」では、ネットがあったからこそ誕生した一冊の漫画本が紹介されました。ご存じかどうか知りませんが、『マンガ嫌韓流』という本です。

番組のインタビューでも答えていますが、作者が出版社にこの原稿を持ち込むと、どの社もまともに取り合ってくれず、ある社ではあからさまに嫌な顔をされたそうです。そこで、作者が苦肉の策でネット公開すると、人づてにそれが知られるようになり、ついにはそれを聞きつけた編集者が現れたのでした。

「2ちゃんねる」ではこの本が評判となり、「アマゾンの売り上げナンバー1にしよう!」という気運が盛り上がり、実際に出版されるや、その機運は現実のものとなり、今では街の書店に普通に平積みされています。同漫画本の総売上は65万分を突破したそうです。

光と影ということでいえば、これは「光の祭り」ともいえ、“ネット言論”がこれまでの常識を打ち砕き、ネットから現実世界に躍り出た好例のひとつといえましょう。

今後、こうしたネット言論は、力を増すことはあっても、弱体化することはないだろう、と私は信じています。気がかりは、匿名ゆえの無責任体質ですが、これも佐々木さんもおっしゃってくれているように、時間が解決してくれるのだろう、と楽観的に構えています。

本日の締めとして、「現実世界の祭り」のひとつを指摘しておきたいと思います。

参院選を前に、大がかりな「祭り」が、朝日など反体制勢力が音頭を取って繰り広げられたことにお気づきですか。久間章生きゅうまふみお前大臣の発言を恣意(しい:自分勝手な考え=広辞苑)的に曲解した「『しょうがない』なんて発言する大臣はしょうがない祭り」です(本サイト内関連ページ→ )。

祭りの期間は正味4日。始まったと思ったら、終わるという呆気なさでした。

それはそうと、2014年の冬季オリンピック開催地が、ロシアのソチに決定しましたね。で、これがもし、韓国の平昌ピョンチャンにでも決まっていようものなら、そりゃもう、NHKあたりは「大・大・大祭り」を展開しただろうと思います。なんたって、この平昌というのは「冬のどなた?」とか「ソナタ」とかいうドラマのロケ地だったらしいですから。それもあってか、開催地決定日のNHKは、衛星第1で1時間ほどの生特番を組んでいました。

さて、ここで気になるのが、東京も立候補している2016年オリンピック開催地決定日のNHKの対応です。NHKはどんな素晴らしい「祭り」を準備しているのでしょう。期待していてもいいんですよね。NHKさん?