| ■ 2005/04/24 晴れた日は写真“不”日和? |
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今日は全国的に天気もいいことですし、思いつくままにいろいろと書いてみたいと思います(←何じゃ、そりゃ?)。 そういえば、「いい天気」でいえば、今日の日経新聞に面白いコラムが載っています。ライターの この指摘に対して、特に写真初心者の方々は、「え? 晴れた日の方が綺麗に写るんじゃないの?」と疑問に思われる方が少なくないと思います。確かにね、雨がザーザー降っている中で写真を撮るのは しかし、です。ベテラン写真愛好者、あるいはプロの写真家の間では「写真はピーカンで撮るもんじゃない」と当たり前のように信じられているほどです。で、その「なぜか?」と「対処法」がいくつか書かれています。 まず、「なぜか?」ですが、端的にいって、できた写真が「汚くなりやすい」からです。その原因ですが、よく晴れた日の陽射しの下で撮影すると、どうしても陽の当たった部分と陰の部分とが同じフレームの中に納まってしまいます。これが、画を汚くするのです。 なぜなら、写真が表現できる明暗の許容量が人間の目に比べて極端に狭いからです。つまりは、ラチチュードの範囲を超えた明部と暗部が同一画面上に存在することになってしまいます。特に、女性のポートレイトを撮影しようとした場合、そんな強烈な陽射しの下で撮影するのは厳禁である、といわれています。 それでは、そんな晴れた日における「対処法」ですが、以下の3つが挙げられています。
(1)は、構図の問題でもありますね。構図といいますと、対象物をどう切り取るかということばかり考えがちですが、それは同時に、対象物の明暗の扱いであることにもなります。具体的には、太陽を背にした人物(※逆光状態)を写したら、後ろの強烈な光に絞りが持っていかれて、手前の肝心な人物は陰になってしまいますね。ですから、そういう構図の仕方は避けるということです。と同時に、順光(モデルに陽射しが真正面から射した状態)もポートレイトでは用いません。眩しい顔つきになったり、顔に汚い陰ができるからです。 (2)は少々専門知識の要る事柄ですが、日中シンクロというテクニックを用いて、背景と対象物との両方に適切な光量を与えようというものです。具体的には、上で書いていますケースの場合、手前の陰になる人物にストロボをたいてあげます。 そういえばこれを書きながら思い出しましたが、よくテレビで屋内スポーツの中継を観ていますと、館内のあちらこちらで観客のカメラから発せられるフラッシュの光を目にすることがあります。しかし、あれは全く意味のない行為です。なぜなら、フラッシュの光が届く範囲はせいぜい数メートル、あるいは数十センチしかなく、目標とするスポーツ選手までは届くわけがないのですから。 (3)は読んで字の如くとしかいいようがありません。とにかく「ひたすら待つこと」が綺麗な写真を撮ることにつながるというわけです。快晴で、雲が太陽にかかる可能性が全くない場合には有効ではありませんが、そうでなければ、雲が太陽にうっすらとかかって天然の“デヒューズ”効果を発揮してくれる瞬間を待ってシャッターを切るのが得策というわけです。 そういえば、これも書きながら思い出しましたが、写真を写す側が自然のリズムに合わせるということでいえば、本コーナーで以前書きました動物写真家のジム・ブランデンバーグさん("The Photography of Jim Brandenburg")などはその代表例で、陽射しの強い時間帯は草原などに寝転んで時間の経つのをじっと待ち、日没の時間帯の「マジックアワー」になると俄然対象物に向かう、という制作姿勢でした(→ 本サイト内関連ページ)。 とここまで、「より綺麗な写真の撮り方」について書いてきましたが、今回のコラムでも最後の最後で書かれていますように、何も写真は綺麗に撮るばかりが全てではない、といういい方もできます。つまりは、写真の欠点ともいえるラチチュードの狭さを逆に利用して、コントラストを高め、作品に力強さを加えることもできます。その方法は、上でご紹介している(1)(2)(3)の逆をすることになります。 あとは、写真を撮る人の感性の問題で、何をその写真に込めたいか、ということになります。 ということで、ここから話を先に展開しますと、私は昨日、先週に引き続いて東京・上野にあります東京都美術館へ団体展を観に行ってきました。春の季節というのは、秋と同じくらい、主要な絵画団体の展覧会があるんですよね。「美術(団体展)の春」といってもいいのでは、と思うほどにです。で、私が昨日観た団体は国画会(「国画公式ホームページ」)です。 この国画会には、「絵画部」はもちろんのこと、「写真部」もあります。ただ、どうなんでしょう。絵画を観たあとに、写真作品の飾られたコーナーに来るとホッとした気持ちにもなるのですが、写真によって何かを表現するのは難しいように思いました。写真は絵画とは違い、シャッターを押しさえすれば映ってしまう媒体であったりするのですから。それを「芸術」にまで高めるのは難しいでしょう。 それはともかく、絵画から彫刻、写真までの作品が展示されている広い会場を歩きつつ、いつも考えてしまうのが、人はなぜ何かを表現するのだろうか、ということです。 絵画に限っていいますと、昨日観た国画会は特にその傾向が強いのですが、素直に表現した作品は少なく、ある意味奇を衒った(きをてらう:風変わったことをしてみせる=広辞苑)作品が壁を飾っています。それはそれで、実験的な精神の表れでいいとは思うのですが、そうした作品ばかりをこれでもかと見せ付けられるといい加減飽きてしまうことも事実です。 そんな私の気持ちを昨日、安らかな気持ちにしてくれたのは、絵画ではなくある彫刻作品でした。作者の名前は忘れてしまいましたが、その作品では、ベンチにポツンと座る一人の少女を表現していました。彼女の顔を見るとどこか不安げです。彼女の力になってあげたい、思わせるほどに。私は、そんな、観る者の心に迫ってくるような作品を絵画部門でも観たかったのです。 先週に観た光風会展(「社団法人 光風会」)も含め、私を釘付けにするような人物画は皆無でした。逆にいえば、今、そのように観る人を釘付けにするような人物画を描くことは、大きな可能性があるように思いました。といっても、決して小奇麗にまとめられた人物画ではありません。レンブラント("WebMuseum: Rembrandt")(→ 本サイト内関連ページ)が描いた人物画のように、とまではいいませんが、その足元に少しでも、少しでも近づけるような人物画をです。 それやこれやで、昨日も帰路の途中に考え続けました。自分はそんな人物画を描いてみたい、と。いや、描ける自信は全くありませんが、、、f(^_^;) 実は本日はもう一つ、先日の新聞に載っていた“アラーキー”こと写真家の |