■ 2004/07/03 マーロン・ブランド死すとも『ゴッドファーザー』は永遠なり

本日は、気分転換のため、映画を1本観てきました。というより、今日観た映画は上映時間が長い(178分)ため、1本で2本分観たような感覚です(^_^;

で、今日観た映画は、現在、東京・東銀座の東劇とうげきで公開中の『ゴッドファーザー』1972年)です。

そしてこれは全くの偶然ですが、昨夜、突然のように名優マーロン・ブランドの訃報(ふほう:死亡のしらせ。訃音。訃=広辞苑)が伝えられました(「Yahoo!ニュース>訃報 マーロン・ブランドさん80歳=米俳優」)。

『ゴッドファーザー』という作品については今更説明するまでもないと思いますが、フランシス・フォード・コッポラ監督の大作で、都合3作品作られたうちの最初の作品です。そして、その作品の中で、マフィア一家の“ゴッドファーザー(名付親)”を演じていたのがマーロン・ブランドその人なのでした。

私自身は、この作品をこれまで劇場で観たことはなく、テレビ放映で何度か観た記憶があるのですが、ストーリーそのものはよく憶えていません。というよりも、「パート2」や「パート3」がごっちゃになって、どれがどの作品でのエピソードだったのか判然としなくなっています。

それでも、今日その作品をスクリーンで初めて観ることで、ところどころのシーンが思い出され、その記憶の断片をつなぎ合わせることで、ようやく作品の全体像がかすかに浮かび上がってくるように感じられました。

作品の内容を一言でいってしまえば、20世紀中期のアメリカのマフィア一家を描いた作品のわけですが、コッポラ監督が本当に描きたかったのはマフィアの実態ではなく、「家族というものの不可解さ」を描きたいがためにマフィアという世界を持ち出したのではないか、というような気がしないでもありません。

それともう一つは、アメリカという“異郷の地”で暮らすイタリア系移民の血の団結意識が根底に色濃くあり、コッポラ監督自身をも含めた「ルーツ探し」の一大テーマの存在も見逃すことはできません。

映画の冒頭はある一人の男の懇願こんがんから始まります。

その男の訴えによれば、自分の生きがいである娘が、ある日突然、卑劣な男どもに強姦され、さらに瀕死の重傷を負わされてしまったというのです。そうであるのに、警察も裁判所も全く頼りにならず、犬畜生以下の男どもは執行猶予のついた軽い刑で済んでしまったといいます。

男は訴えている相手に、奴らに手ひどい仕打ちをして欲しいと願い出ます。

この時点でも、カメラは、訴え出られている相手の男の姿を捉えていません。すると、暗がりの向こうからしゃがれ声で次のような問いかけが聞こえてきます。

「それで、私にどうして欲しいというのだね?」

その問いに対し、男は「私の代わりに、自分の命よりも大事な娘の一生を台無しにした男どもを殺して欲しいのです」と答えます。カメラが引くと、そこは薄暗い部屋の中で、深々とした椅子に腰を下ろす老人の姿が初めてスクリーンに現れます。

彼こそがマフィア一家・コルレオーネ一族のドン・コルレオーネことヴィトー・アンドリーニ(=マーロン・ブランド)です。

彼には3人の息子と1人の娘(?)がおり、ゆくゆくは長男のソニー(=ジェームズ・カーン)がドンの後を継ぐことになっているようです。しかし、この長男は、見るからに血の気の多い人物で、一族を見事に取り仕切っている父親の後釜に納まるには、少々無理があるように見えます。

そんな一族に、第2次大戦から無事の生還を果たした三男のマイケル(=アル・パチーノ)が帰ってきます。彼は、兄弟の中で一人異色の存在らしく、“家業”のマフィアという職業を嫌い、一線を引いた関わり方をしています。また、彼は大学も出ているインテリでもあります。

そんな、最も縁遠いと思われたマイケルが、一族の次代ドンの座へ収まっていくことになるわけで、人生の皮肉を感じないわけにはいきません。

ともかくも、コルレオーネ一族は、敵対するマフィア一族と麻薬取り引き売買の話を巡っていさかいとなり、それが基で、地域のマフィア一族を巻き込んでの血で血を洗うような一大権力抗争へと発展していきます。

ところで、この作品の中で私が最も印象に残ったのは、マフィア的なものから一番遠いところに位置していたはずのマイケルに、一族を守るための強い使命感が芽生え、要注意人物2人の暗殺を決意・実行する場面です。

要するに、敵方はマイケルがマフィア的なものに染まっていないと考え、油断を見せるに違いない。そここそが狙い目で、安心しきっている2人を自分の手で射殺してみせる、というのです。

それを聞かされた長男のソニーと一族の幹部は一笑に付そうとしますが、マイケルの決意が本気であることに気がつき、その重大任務を彼に託します。

そして、いよいよその瞬間が訪れました。

場所は、小さなイタリアン・レストランです。マイケルはターゲットの2人をテーブルに残し、トイレへ行くと称して席を外します。そうしておいて、トイレにあらかじめ隠しておいた拳銃を手にし、席へと戻ります。

今まさに、生まれて初めて銃の引き金を引き、生きた人間を撃ち殺さねばなりません。今更後には引けません。席の2人の男は何事かとマイケルの方に顔を向けます。マイケルの緊張感は頂点に達し、弾けます。気がつけば、マイケルによって引かれた銃の引き金によって、男たちの額は撃ち抜かれていきます。

この瞬間がマイケルにとっての人生の分岐点で、それまでの“一般人”としての人生には幕が引かれ、マフィアのドンとしての階段を上り始めた瞬間でもありました。

額を打ち抜かれた大男たちは、驚きの声を上げる暇もなく、床へ崩れ落ちていきます。

映画というものは、ドキュメンタリーでない限り、所詮は俳優の演技による“作り物”にしか過ぎないわけですが、不思議なことに、年月を経ることでそれがドキュメンタリー映画と同じだけの記録性が作品に宿っていることに気づかせてくれます。

そして、この厳然たる“事実”は、その作品が作られている最中さなかに意識されることはないのです。

この作品が作られて30年ほど経った今、再び上映されることでその記録性の意味は強調され、一つ一つのシーンがまるでドキュメンタリー映画そのもののようにして私の目には映ったのでした。

いい方を換えれば、時間の経過が、フィクションとノンフィクションの垣根を取り払ってしまった、ということになるのでしょうか。

ともかくも、1970年代の空気を濃密に凝縮したフィクションはノンフィクション然と化し、その中で、このたび鬼籍に入られた(きせきにはいる:死んで亡者の籍に記入される。死亡する=広辞苑)マーロン・ブランドの生き姿も“ノンフィクション”としてフィルムに収められ、永遠に貴重な記録となって今後も残り続けることになります。