■ 2004/03/10 押井守の『イノセンス』を観て

今日の朝日新聞「ひと」欄には、平成15年度の芸術選奨を受賞された鈴木文夫さん(67歳)という方が紹介されています。

朝日のこのコーナーには、各界で活躍されている様々な方々が紹介されるわけですが、今回の鈴木さんは「移動映写技師」をされているそうです。あまり聞きなれない職業ですが、要するに、映画の映写技師で、長年にわたり、学校や公民館など特設の上映会場へ出向き16ミリや35ミリの映画を上映することを主な仕事にされてきたようです。

その鈴木さんが今年度の芸術選奨を受賞されたわけですが、受賞の一報を聞いた鈴木さんの第一声は「(受賞に)ふさわしい人はほかにいるんじゃないですか」だったそうです。

しかしこれは謙遜というもので、映写条件がまちまちな環境で、その都度、適切なスクリーンの選択や映写機の光源の強弱調整に苦心するなど、作品が持つ本来の“味”を最大限表現しようという鈴木さんの映画に対する熱意は高い評価を得、かの山田洋次監督や大林宣彦監督からも強い信頼を得るほどだそうです。

その鈴木さんは、1985年からの「東京国際映画祭」などの大きな仕事を手がける一方、学校やホールなどでの出張上映もおろそかにせず、鈴木さんが経営をする「鈴木映画」のスタッフ8人で、月100カ所での上映をこなすといいます。

そのバイタリティの素は、何といっても鈴木さんご自身が映画をこよなく愛しているということに尽きるでしょう。

鈴木さんが映画と出会ったのは4歳のときだそうで、鈴木さんの叔父(あるいは伯父)さんの映写会社の試写室でチャップリン(Charles Chaplin/1889-1977:映画俳優・監督。ロンドン生まれ。哀調をたたえた滑稽味をもつ独特のしぐさと扮装で、弱者・貧者の悲哀と現代西欧社会の不平等への怒りを表現。作「黄金狂時代」「街の灯」「モダン・タイムス」「ライムライト」など=広辞苑)の『キッド』を観たのが始まりだといいます。

「三つ子の魂百まで(幼い時の性質は老年まで変わらない=広辞苑)」を地でいくようなエピソードですね。そしてここが大きなポイントだと私は思うのですが、記事には「フィルムの酸っぱいにおいが好きだった」と書かれています。

つまりは、表現された作品に対する愛着もさることながら、上映されるフィルムそのモノへも並々ならぬ“愛着”を幼くして抱いてしまったということになります。

このように書いてしまっていいものかどうかわかりませんが、それは「フィルムという物質へのフェティシズム」といい換えることも可能であるように思えます。そして、そうしたへきを実は私も持っているのです(→ 本サイト内関連ページ)。あるいは私の場合、スクリーンなどに上映された映像そのものへの愛着というべきかもしれません。

今これを書きながら子供の頃のことを一つ思い出しました。私が好きだったオモチャのことです。それはピストルの形をした“簡易スライド映写機”とでもいうべき物で、銃口の部分に小さな映写ランプとレンズがついており、引き金を引くと中にセットされた映写フィルムが一コマずつ映し出される仕組みになっていました。

そのピストル型映写機を持っては押入れの中に一人こもり、自分のためだけの“上映会”を開いて遊ぶのが好きでした。それがのちになって高じ、8ミリ・ムービーやスライド・フィルムでの撮影が趣味へとつながりました。

しかし、現代はこの分野でもデジタル化が急速に進み、かつてのフィルム式カメラはデジカメ(デジタル・カメラ)に取って代わられようとしています。映像を記録するということでいえばデジカメが有利な立場にありますが、私はどうしてもそれを積極的に好きになれず、デジカメが幅を利かせば利かすほど、写真への関心は薄れつつあります。ま、無駄な抵抗(?)ではありましょうが。

とここまで映写技師の鈴木さんに絡めて映画の話題を書いてきましたが、昨日は、気になっていた映画を一本観てきました。押井守監督の新作『イノセンス』というアニメーション作品です(「YouTube>イノセンス: 攻殻機動 Ghost in the Shell - Innocence Trailer」)。

私自身はアニメ、中でも日本の商業アニメには全くといっていいほど関心がないため、これまでにも劇場で観た経験はほとんどありません。しかし今回の場合、その直前に現在開催中の「球体関節人形展」(2004年2月7日〜3月21日)(→ 本サイト内関連ページ)を観たことによって押井アニメににわかに興味を覚え、昨日、上映館の一つである日比谷映画へと足を運んだというわけです。

で、チケットを買う段になって改めて感じたのは料金の高さです。このところ、私は新文芸坐を利用することが多いのですが、ここの場合、友の会に入会することで、2本立て上映を【1000円】で楽しむことができます。さらには、毎月1日の「映画サービスデイ」を利用することも多く、その場合も料金は【1000円】です。

そのように、私にとっては「映画を観るなら1000円」の感覚が馴染みつつあったため、たった800円高いだけですが、昨日の【1800円】という料金を実際の値段以上に高く感じてしまったというわけです。

ともかくも、チケットを購入し、前回の上映が終わるまでロビーで待つことになりました。待っている人はと見回せば、昨日の場合は男性が多かったように思います。

この作品で描かれているのは2032年の日本です。ただ、そこに映る街の風景には、中国語のような漢字だけの看板ばかりが目に入ります。ですから、何の予備知識も持たずに観ていると、日本ではなく中国のある街が物語の舞台かと勘違いしてしまうことでしょう。加えて、ラスト近くでは、緊急警告の音声アラームに韓国語が用いられています。

物語の主人公は、バトー(声:大塚明夫)という名の内務省公安九課の刑事です。彼は見かけ上は生身の人間そのものですが、実はわずかに脳だけが人間で(?)、残りの身体は全て機械化されたサイボーグ(cyborg〔cybernetic organismから〕:異常な環境への順応などのため、動物、特に人間の生命機能の重要な部分を電子機器などに代行させたもの=広辞苑)という設定です。

そのバトーとコンビを組んで事件捜査に当たるのはトグサ(声:山寺宏一)という公安九課の若手隊員です。彼は、全身のほぼ全てが生身の人間という彼が所属する部署では“異色の存在”です。

映画の冒頭、“少女型愛玩用ロボット”が予期せぬ暴走行為を働き、その持ち主を惨殺するという事件が発生し、その事件現場にバトーとトグサが急遽きゅうきょ駆け付ける場面がスクリーンに映し出されます。2032年の東京はビルの高層化が進み、その街を上空からバトーたちの乗り込んだ垂直離発着型小型飛行体で向います。

私はそれを観ながら、大好きな映画『ブレード・ランナー』のファースト・シーンを重ね合わせていました。この場合も、シド・ミードのデザインによる近未来都市の中空を、主人公(=ハリソン・フォード)が乗り込んだ飛行体で向うシーンが映し出されます。

それにしても、押井監督の本作ですが、初めて彼の作品に接したこともあってか、私にはやたら難解に思えました。ちなみに、私の右側の方の席で観ていたサラリーマン風の男性は、途中でいびきをかいて熟睡していました。私と同じように押井作品の難解さについていけず、睡魔に襲われてしまったのでしょうか。上映が始まる前は弁当を食べて腹ごしらえをし、準備万端整えていたにも拘らずです(^_^;

作品のクライマックス近くで、バトーの助手のトグサが“敵”のキム(声:竹中直人)が仕掛けた電脳ジャックによって、幻想に支配されてしまうシーンがあります。敵のアジトに潜入する場面が同じように繰り返され、そのたびに違う結末が用意されているのです。

それを観せられている私も「何が何やら、、、」という状態になり、わけがわからなくなりました。つまりは、観客の私も電脳ジャックされた状態になっていたということでしょうか。

本コーナーで「球体関節人形展」について書いたとき(→ 本サイト内関連ページ)、その展覧会を企画した押井監督自身が、学生の頃に目にした球体関節人形の作品集の中の少女人形に恋をしたことが今回の作品が生まれる原点になっていると書きましたが、それを象徴するようなシーンがありました。

そこに、私も所有するハンス・ベルメールの作品集が映し出されたのです。作品の中では、少女型愛玩ロボットの製造工場で“彼女”たちが大挙してバトーたちに襲い掛かるシーンが私には印象的でした。

それにしても、私は押井監督の作品に、これまでにないアニメ作品を期待して本作を観たわけですが、映像的にはこれまでのアニメ作品の延長上に収まってしまう作品であったように思います。スケール感を持った都市や背景の描写はなかなかですが、肝心の人間(※サイボーグも含め)が類型化された人物表現から脱し切れていません。つまりは、顔にしろ体にしろ、アニメアニメしてしまっている(典型的な商業アニメの作画方法)ということです。

これが、現在の日本のアニメーションの限界でしょうか。ところどころ、サイボーグの目の部分などのクローズ・アップ表現の場面には、リアルな表現も見られましたが、それ以外は見慣れた(見飽きた?)人物表現です。

そんなこともあり、上映途中には何度となく、「もしもこれをアニメでなく、実写で制作していたらどうだっただろう?」と想像を働かせていました。もちろん予算の問題もあり、実現は難しいでしょうが、アニメ愛好者ではない私には、それが描かれた絵だと思うだけで正直いって感情移入を妨げられてしまいました。

それは別にして、バトーの発した「驢馬ろばが旅に出たところで、馬になって戻ってくるわけではない」という台詞せりふが妙に頭に残りました。

「所詮、ロボットはロボットにすぎない」というような意味合いを含んでいるのでしょうか。それとも逆に、そこには「高度に進化したロボットには、もはや生身の人間はかなうはずもない」というようなメッセージが込められているのでしょうか?

ともかくも、生身の人間と寸分たがわぬ人型ロボットが私たち人類と共存する社会が実現されたとき、人間が生身であるということがどれほどの意味を持つことになるのでしょう。そんなことをちょっと“哲学的”(?)に考えてみたりしました。

信じられない生身の人間を相手にするよりも、自分のいうことを聞いてくれるサイボーグと接している方が心が休まるのか。それとも、葛藤があってもあくまでも生身の人間を相手にする方がいいのか。

今現在であれば、絶対多数の人が間違いなく「そんなの、生身の人間の方がいいに決まってんじゃん!」と全くの疑いもなく答えるでしょうが、そう遠くない将来、その答えに自信を持てなくなる日が来ないとも限りません。

そのときでも、あなたには「生身の人間」を迷うことなく選択できるだけの自信はありますか?