| ■ 2004/10/24 写真家・浅井康弘氏とフィルム・カメラへの憧憬 |
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昨日の朝日新聞・土曜版「be on Saturday - entertainment」の1コーナー「こだわり会館」(→ 本サイト内関連ページ)には、巨大建造物としてのダムに魅せられ、それを写真に収めることを半ばライフワークとされている男性が紹介されていました。 そういえば先週の同コーナーでも、同じようにして、巨大建造物としての送電鉄塔に魅力を感じ、同じように写真に撮り続けている一人の男性が紹介されていましたっけ。 いずれの場合も男性で、趣味の範疇(はんちゅう:同じ種類のものの所属する部類・部門の意=広辞苑)にはとても収まりきれないようなのめり込みようですよね。しかも、この場合のお二人に共通しているのが、その巨大建造物をただ下から眺めているだけでは済まず、それらを写真に収めているということです。 ただ、注意しなければいけないのは、ここでいう写真というのは、昨今よく見受けられるカメラ付き携帯電話(あるいは、携帯電話付きカメラ?)で撮るのとは、行為の動機が全く違うのではないか、ということです。 つまりは、両者の間で、「写真を撮る」という一見同じ行為が全く異なる動機の基に行われているのではないか、ということです。 しかし、本人たちに確認したのでないため、これはあくまでも私の想像でしかないのですが、「こだわり会館」で紹介されているお二人の男性は、1枚の絵画作品を描くような心構えで被写体であるダムなり送電鉄塔に向かっているように思えるのです。で、これは、 それにしてもと思うのですが、デジカメ(デジタル・カメラ)が普及してからというもの、私がそれまで注いでいた写真という表現手段への情熱が急速に奪われてしまったように思います。 現代のデジカメは確かに便利ではあります。光のことなど全く考えなくても、ただ、カメラを被写体に向け、シャッターを押しさえすれば、絞りもシャッター・スピードもピントさえも勝手にカメラが合わせてくれ、写真が写ってしまうのですから。その上、写した写真は現像する必要がなく、直ちにその場で確認でき、それをPCに取り込むのも容易に行えます。 このように、いいこと尽くめのデジカメのように思われがちです。が、それなのになぜ、私の写真への情熱を失わせたのでしょうか。 それは、一般消費者向けのデジカメの多くが、フル・オートマチックになってしまっているからです。ですから、カメラを被写体に向けさえすれば、対象物は簡単に写し撮れてしまいます。 しかし、このことが撮る側と対象物との関係を希薄にしてしまっているように思えて仕方がありません。いい方を替えれば、対象物に対する“愛”が薄れてしまっているような気がするのです。 今、これを書きながら、私の脳裏をある1冊の本がかすめました。写真の技法書です。そこで今、その本を探し出してきました。 それは、『カラー撮影マニュアル』(玄光社MOOK)(→ 表紙画像)という技法書です。いつものことで、それを購入した日付が書いてあり、裏表紙近くのページには「1997.9.3」とありました。ということで、今から7年ほど前に買ったものになり、当時はまだデジカメ旋風はなく、写真といえばフィルム・カメラの時代だったことを連想させます。 それにしても、なぜ私の脳裏にこの技法書が浮かんだのかといえば、ある一人の写真家の作品と、その撮影過程が懐かしく思い出されたからです。 その写真家は浅井康弘さんという方で、広告のための静物(=商品)撮影をされている方です。その浅井さんの作品を1枚ご紹介しましょう。これが同技法書に掲載されている1枚です。 ここで浅井さんが任された撮影対象はグランド・ピアノですが、写真に添えられたデータを見ますと、次のように記されています。
以上の機材を用い、「グランド・ピアノのイメージを出すための造形的な美しさとピアノ内部の色を強調することを狙う」意図を持って撮影されたのだそうですが、そのためのライティングとしては、窓からの自然光に加え、1キロワットのフラッド・ランプ(色温度3200K)によってピアノの内部に光を与えているということです。 確か、別のもう1冊にも浅井さんの仕事ぶりを伝える紹介記事が載っていたと思いますが、それらを読み、見ることで、「できるものなら、浅井さんの弟子になってこんな写真を写してみたい」と思った時期もありました。 私がどこに惹かれたのかといえば、被写体を浮かび上がらせる光の扱いとフィルムの選択であったと思います。 そして、それらを絶妙に調節するのがシャッター・スピードと絞りの調節であり、それらが上手く噛み合って初めて写真という表現芸術は結実するのだと思うのです。 ところが、コンパクト・デジカメときたらどうでしょう。それらが全てオートマチック化されてしまっており、表現のしようがありません。しかも、私にデジカメを嫌わせるのがファインダー代わりとなる液晶画面です。あれを見るたびに私はデジカメを投げ捨てたくなります。 デジカメ以前、写真を撮るといった時、必ず付きまとったのがファインダーを覗くという行為でしたが、一定レベル以上の一眼レフ・カメラのファインダーには撮影者を夢中にさせる何かが存在しました。 ですから、私などは、別に写真を写さない時でも、暇さえあればカメラ(→ わが愛器)を取り出し、ファインダーを覗いたりしたものです。で、そこに映し出される画像は、現実の風景でありながら、とても魅力的に見えるのです。 そうやって、撮影者は対象物と対話をすることになるわけですが、とりわけ撮影者が対象物に要求するのは光と陰の表情です。そして、少しでも対象物を自分のイメージ通りに切り取ろうとした場合、シャッター・スピードと絞りには神経を集中しなければなりません。それによって、仕上がりに雲泥の差が出てしまうのですから。 こんなことに想像を巡らせるほど、現代のコンパクト・デジカメには絶望せざるを得ません。被写体にカメラを向け、ただシャッターを切っただけでは、何か大切な行為が失われていると思うのです。 「それも現代の写真の在り方というものさ」といわれてしまえばそれまでですが。
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