| ■ 2004/01/19 サカマリと谷中安規と個性と泡沫と |
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毎週それとなくチェックしている10代の討論番組に「真剣10代しゃべり場」(NHK教育/金曜23:30〜翌00:30 ※「しゃべり場ホームページ」のコーナーを含む)というのがあり、それについては本コーナーでも何度か取り上げてきたと思いますが、早いもので、その13期生の放送がこの1月からスタートしました。 私はこの番組をスタート時から飽きずに観ているわけですが、開始当初は確か土曜日の午後9時スタートだったはずです。それで、リアルタイムで観ていましたが、それが何期の頃からかスタート時刻が遅くなり、ついには現在のように、放送日も放送開始時刻も変わりました。 そんなこんなで、今現在はHDD(ハード・ディスク・ドライヴ)に録画したものを、あくる日かそのあくる日頃に観るようにしています。 そのようにして、スタートしたばかりの「13期」の第2回の放送を昨日観たわけで、その感想でも書いてみようと思うわけです。 今回の提案者は兵庫県在住の高校生・坂本真梨さん(17歳)で、テーマは「どうしたら個性的になれるの?」です。 提案者の坂本さん(ニックネームは「サカマリ」)は、自分を消極的な性格だと認知(?)しており、これまでの学校生活では一貫して「影の薄い存在だった」と“自己申告”しています。確かに、画面に映る彼女の表情は自信なげで、見るからに頼りなさそうに思えます。 そんな彼女には、周りに流されずに自分の意見を主張できる人間が光り輝いて見え、「自分もあのように自由に振る舞いたい」と強く願っていることが窺えます。ただ、こういっては元も子もありませんが、人の性格というのはそれこそ好みと同様に十人十色(人の好む所・思う所・なりふりが一人一人みんなちがうこと=広辞苑)で、嫌われるほど積極的な人間(?)もいれば、消極的、よくいえば控えめな性格であるために愛される人間がいるものです。 それこそが人間の“個性”というものであって、これは本人が好むと好まざるとに拘わらず、自然にその人に備わっているもので、それを人為的に「私はこれこれ、こういう“個性”が理想なので、今日からこの“個性”でいきます」と選択することができないものであるように思います。 もちろん外見は今日からでも変えられるでしょうが、内面はそういうわけにもいかないでしょう。 そんなことを考えるに、提案者の坂本さんがいっている「どうしたら個性的になれるの?」というのは、実は、「どうしたら積極的な人間になれるの?」なのではないか、と途中で気付きました。 ただ、これもね。今も書いたばかりですが、人それぞれに備わっている性格は、それこそその人自身そのものであり、その性格があるからこそその人なのだという面があり、それをガラリと別のものに変えることができるのか。それより何より、そもそも、変えることが果たして好ましいことなのかという問題があります。 ただ、遥か昔に読んだ本には、「性格は変えることができなくても、行動を変えることはできる」というようなことが書かれていました。具体的には、消極的な人間がいたとします。その人は、自分というものに自信が持てないため、普段の行動はといえば、どうしても伏目がちになり、道路を歩くときでもなるべく端の方を歩く傾向があるそうです。そこで、まずは、その行動を変えたらどうか、と提案します。 自分の消極的な性格はそのままにしておいて、とにかく、伏目がちから、しっかりと前を見つめる視線を意識して採ります。誰かと話をするときにも、相手の視線をじっと見つめることに気が引けるのであれば、それよりも少し視線をずらし、それでも相手が見つめられていると錯覚するような視線を相手に投げかけるようにします。そうして、外を歩くときにも、なるべく真ん中を歩くように心がけます。一歩一歩を確実に、ゆったりと歩くのです。 そうしたことを日常的に自分に課すことで、知らず知らずのうちにそうした行動が自分の身に付き、気が付けばそれが自分にとっての自然な振る舞いとして感じられるようになります。そうなれば、自分の性格は消極的なままでも、日常生活を送る上では別段それを引け目に感じることは少なくなるのではないか、という内容ではなかったかと記憶しています。 その是非はここでは論じませんが、全く無駄なことでもなさそうな気がしないではありません。 ここで私の考え方を書けば、そうした行動の変化を自分に無理に求める必要もないような気がします。積極的と消極的を比較したら消極的な方が分が悪いように思われるでしょうが、人間が生きていく以上、分がいいも悪いもないと考えるからです。 それでは逆に、分のいい生きかたというのはどんな生きかたでしょうか? 何事においても積極的で、他人から常に羨望のまなざしを集めるような生き方でしょうか? もちろん、そうしたことに価値を置く人もいるでしょうが、それこそ考え方は人それぞれで、価値観も一人一人違います。少なくとも、私はそうした生きかたは望んだこともありません。そんなことはどうでもいいことです。 「しゃべり場」に話を戻せば、13期の1回目のテーマは「みんな『夢』という言葉に踊らされていない?」で、提案者の小寺君は福井県の進学校に通う勉強優等生です。 彼の提案自体は悪くはないとは思うのですが、その彼の言葉の端々から感じられるエリート志向がどうにも鼻についてしまって、私は素直に彼の意見には賛同できない気分にさせられました。参加者の10代のメンバーもいっていたように、今のこの時代、「いい学校を出て、いい企業に就職することがイコールいい人生」につながるとは到底思えません。 そもそもが、安定した生活を送ることが「いい人生」だと私は考えたことがありません。 話が飛んでしまいますが、昨日の「新日曜美術館」(NHK教育/日曜09:00〜10:00 再放送20:00〜21:00)では、生前に「風船画伯」と愛称をつけられた谷中安規(たになか・やすのり)(東京・渋谷の「松涛美術館」において彼の企画展「谷中安規の夢」を2004年2月1日まで開催中)を特集していました。 彼は関東大震災(1923年/大正12年9月1日午前11時58分に発生した、相模トラフ沿いの断層を震源とする関東地震【マグニチュード7.9】による災害。南関東で震度6。被害は、死者9万9千人、行方不明4万3千人、負傷者10万人をこえ、被害世帯は69万に及び、京浜地帯は壊滅的打撃をうけた。また震災の混乱に際し、朝鮮人虐殺事件・亀戸事件・甘粕事件が発生=広辞苑)のすぐあとぐらいだったかの東京に、大きな夢を抱いて奈良から上京してきます。谷中は、急激に変貌を遂げる帝都東京の片隅に身を置き、その中で、初期には自分の内面のドロドロとした部分を表現した版画作品などを発表していくことになります。 谷中は生涯を通して裕福な生活とは無縁で、自分の住居といったものを持たず、当時名を馳せた佐藤春夫や内田 これは、以前本コーナーで秋山 といって、決して自分の生き方を卑下することではありません。むしろ、そうした生き方をすることに誰よりも決然とした誇りを持っている一群の人々です。 彼らの生き方の中心にあるのは、「どうしたら日々を安泰に過ごせるか」ではあるはずもありません。そんなものを遥かに飛び越えて、「自分は何を成すべきか」ということを自分の一番の中心核に強烈に持つ生き方です。価値基準の置き方が全く逆なのです。 だからこそ、それを実現させるためには、たとえ今現在が“泡沫”的な扱われ方であっても、決してそれを卑下することにはつながらないのです。 フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh/1883-1890:後期印象派の画家。オランダ生まれ。晩年はフランスで活動。強烈な色彩と激情的な筆致の絵を描く。作「ひまわり」「アルルの寝室」など=広辞苑)を見なさい。彼は生涯、これまでの話の流れでいえばまさに“泡沫”的な一生を送った男です。今の価値観でいえば数十億円、数百億円単位で取引される彼の絵は当時見向きもされず、ガラクタのようにリヤカーに山積みにして、彼は自分の絵を運んだといいます。 一方、谷中安規は内田百閧ゥら風船画伯の“称号”を受けたように、風船のように自由気ままに東京中を飛び回り、誰に束縛されることもなく、作品を生み出し、50の声を待たずにこの世を去りました。しかし、彼の一生を誰が不幸な一生だった、と決めつけることができるでしょうか。 全ては、その人間の中の価値観で決まります。 エリートコースを歩むことだけが「いい生き方」だと信じている限り、それ以外の世界に目は向きません。それが結果的に幸福なことか不幸なことかは別にして。 話が全く関係ない方向へと向ってしまったかもしれません。私がいいたかったことは、人にはそれぞれに与えられた分というものがあり、それに逆らうことはできないということです。 ついでに書いてしまえば、タレントの向井亜紀さんが、代理母出産によって双子の赤ちゃんを授かったというニュースがありましたが、私はかねてより彼女の“選択”には否定的な考えを持っています。 端的にいって、彼女がそこまでして我が子を授かったというのは「傲慢」以外の何物でもないと考えるからです。なぜなら、今も書いたように、神から与えられた(←比喩)自分の運命を受け入れる謙虚さを欠いています。全てが、己の欲求を満たすために行われています。 向井さんが採るべきだったのは、子供を授かることができない自分というものをそのまま受け入れ、その中でどうしたら幸せと感じられる人生を送れるのかを模索することだったように思うのです。 それなのに、彼女は無いものねだりで、現代医学の極限まで求め、不可能を可能に換えてしまいました。これは「傲慢」以外の何物でもありません。神(←比喩)がせっかく彼女に「忍耐」という「試練」を与えたというのにです。 話を「しゃべり場」の坂本さんに戻しましょう。 坂本さんは今現在、頼りなげな自分を好きにはなれないのかもしれませんが、今ここに存在するあなた自身は紛れもない現実で、それをそのまま受け入れる以外に方法はありません。好き嫌いは関係なく、です。 他人からみっともなく見えたっていいではないですか。「これが私という人間なのよ!」と突っぱねてやればいいではないですか。あ、そか。そういう風に強気に振る舞えないから悩んでいるんでしたよね。 ならば、仕方がありません。内心では「これが私という人間なの」と強く反発しつつ、表面上はヘラヘラとその場の雰囲気に合わせることも十分「あり」です。そうした選択をすることも含めてあなたという人間なのですから。 討論のあと、その日の提案者の日常生活を垣間見せてくれる「しゃべり場の人たち」というコーナーがあり、そこに映る彼女は十分に魅力的に観えたことを書き添えておきます。 おそらくは、積極的な彼女のお姉さんへのコンプレックスが問題の根本部分にあるのだと思いますが、それは置いておいて、彼女の動物に対する優しいまなざしは、それだけで十分に賞賛に値する資質であると思います。 みんながみんなとはいいませんが、自分に自信を持っている人は往々にして、他人に厳しく、それは動物に対しても優しく接することができない行動となって表れます。私個人は、人にも動物にも優しい人が好きです。 動物と接するのが好きで農業高校を進学先に選んだ坂本さんは、幼い頃から昆虫などを飼い育て、現在は、学校から帰ったあとに愛猫のレオ君と遊ぶのが何より楽しい時間であるといいます。そんな優しい性格は、外ではたとえ積極的でなくてもとても魅力的だと思うのです。 結局のところ何をいいたいのかといえば、人それぞれでいきましょう、ということです。他人をものさしにする必要は全くありません。器用な生き方をする必要もありません。 たとえ一生棒に振るような生き方をしてしまったところで、たかだか80年ぐらいのものです。大したことではありません(?)。 私は昔も今も、“泡沫”的な人生を歩んでいる人にどうしても惹かれてしまうところがあります(^_^; |