| ■ 2003/12/19 映画『過去のない男』 |
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他のことを書いたりしてすっかり遅くなってしまいましたが、先日(14日)はまた、映画を2本観てきました。観た場所は、私にとってはすっかり「例の場所」になってしまっている東京・池袋にあります新文芸坐(→ 本サイト内関連ページ)です。 この劇場は、封切館ではなく、封切られてから少し経った作品を、週替わりで観客が喜びそうなプログラムに組み、上映してくれています。しかも、当館の友の会に入会することで、毎回千円ぽっきりで2本楽しむことができるという、至れり尽くせりぶりです。 で、今年も残り少なくなってきたということで、12月12日から26日までの2週間は、「傑作・感動作を集めて シネマ・カーテンコール2003」と題するプログラムが組まれています。その最初のプログラムとして上映された(12月12日〜14日)『トーク・トゥ・ハー』(スペイン)と『過去のない男』(フィンランド)の2本を観てきました。 なお、この『トーク・トゥ・ハー』につきましては、本コーナーでも既に取り上げ(本サイト内関連ページ →1・2)、さらにNHK-FMのリクエスト番組「サンセット・パーク」宛てのリクエスト・カードでも触れていますので、その内容については今更書く必要はないでしょう。 そこで、今回はもう1本の方の『過去のない男』(2002年フィンランド/アキ・カウリスマキ監督/97分)(→ ちらし)について書いてみたいと思います。 この作品を、私は今回の特別プログラムで初めて観たわけですが、予告編だけは劇場内で何度となく観ていました。 その予告編で何といっても印象に残るのが、バックに日本のクレイジー・ケン・バンドの『ハワイの夜』が流れることです。私は最近、日本の昔のムード歌謡のようなものに新鮮さを感じていたりするのですが、この『ハワイの夜』にも、現代の曲でありながらそんなムードが感じられます。 【本日の豆お気に入りソング】:私がいつも聴いていますNHK-FMのリクエスト番組「サンセット・パーク」の木曜日には名物の「しりとりリクエスト」のコーナーがあるのですが、昨日(18日)の当コーナー1曲目で、そのムード歌謡がかかりました。松尾和子/和田弘とマヒナスターズの『誰よりも君を愛す』(→ 試聴 ※なお、お聴きいただくためには、 RealPlayer が必要です)という昭和34年12月に発売された古〜い曲です。何でもこの曲は、昭和35年に開かれた「第2回 レコード大賞」で見事大賞を受賞しているそうです。それでなくても名曲には違いなく、今の流行歌からとんと失せてしまっている大人の魅力が満ち溢れています。こんな曲が並ぶのであれば、「レコード大賞」にも関心は向きそうですが、、、。 ともかくも、予告編での印象が強かったため、本編では主要な部分に使われているのかと思っていましたが、そうでもなく、主人公の男が列車内で独り、酒を飲みながら鮨を食べるシーンにのみ流れました。 ストーリーとしては、地味そのものといってもいいでしょう。最近の映画界の傾向であるCG(コンピュータ・グラフィックス)を駆使したような特殊撮影はいうまでもなく1カットもなく、また、登場人物にしても魅力的な若い男女が出てくるわけでもありません。画面はひたすらオーソドックスなカメラ・アングルで、中年の男女を中心とする人々の暮らしを淡々と描いていきます。 そしてその話の筋より何よりまず初めに注目すべきなのは、この作品はフィンランド(Finland:北ヨーロッパ、スカンディナヴィア半島の頸部を占める共和国。12世紀以来スウェーデンの治下、1809年以後ロシアの大公国、1917年独立。面積33万8千平方キロメートル。人口510万〔1995年時点〕。全土の1割は氷食湖で、3分の1は泥炭の沼沢地。林業・牧畜業が盛ん。住民はフィン族で、多くは新教を信奉。首都ヘルシンキ。フィンランド語名スオミ=広辞苑)の映画だということです。私の記憶では、これまでフィンランドの映画はほとんど観る機会がなかったと思います。しかし、実際に観ている最中は、不思議なほど、それがフィンランド映画であることを意識していませんでした。 現代はネットがあり、自分で観たばかりの映画についてあとで調べることができます。しかし、もしもネットがなかったらどうでしょう。私は劇場でプログラムも買わないたちなので、自分で実際に観ながら、その作品の舞台がどこであったのかもわからないままだったかもしれません。 主人公の中年男(=マルック・ペルトラ)は独り、列車に揺られています。そして、夜、とある駅に到着します。それはフィンランドの首都ヘルシンキの駅のようです。見るからに労働者風の風袋(ふうたい:うわべ。みかけ。概観=広辞苑)です。 彼は新しい職を求めてこの街にやってきたのでしょうか。ともかくも、駅近くの公園のベンチで身体を休めます。そこへ、3人組の若いチンピラがやってきます。奴らは、日本でいえば“オヤジ狩り”をするような悪党どもで、手にしたバットなどで無抵抗の男を一方的に叩きのめしてしまいます。 そして、荷物のバッグをこじ開け、中から金品を探し出し、持ち去ります。ただ、その男の所持品の中にはそれほどの金目の物はないようです。代わりに彼の職業を証明する道具が一つ出てきます。それは、溶接工が、溶接の際の強烈な光から自分の眼を守るためのマスクです。このことから、恐らく男は溶接工であるに違いないことがわかります。 男は悪党どもに頭といわず身体といわず、バットで殴られ、夜の公園に置き去りにされます。その後どれくらいの時間が経ったのでしょう。男は気がつき、駅の構内の方へよろよろと歩き出します。血だらけの男を見た人々は、驚き、慌てて身をかわします。男は意識がもうろうとしたまま歩き続け、ついに駅構内のトイレに辿り着いたところで崩れ落ちます。 男は、倒れているところを発見され、病院に担ぎ込まれます。意識が戻ったのは病院のベッドの上で、顔と身体はまるでミイラ男のように包帯でぐるぐる巻きにされています。本来であれば、この病院ですっかりよくなるまで治療してもらえばいいものを、男は“ミイラ男”のまま、独り病院を抜け出します。 別に行き先があるわけでもありません。それより何より、自分で自分が何者であるかさえもわからなくなっていることに初めて気づきます。悪党どもに散々殴られたことで脳に障害が残り、過去の記憶を全く無くしていたのです。 その次に倒れていた男を発見するのは、街外れの水辺近くで貧しい生活をしている家族の子供たちです。彼らは二人して水を汲みに行く途中のようです。彼らは驚いて家族を呼びに帰ります。結局、男はその家族の下で看護を受けることになり、すっかり元の身体に戻ることができました。 彼らは不要になった貨車のコンテナを改造した家に住んでいます。電気も水道もない生活です。しかし、それなりに、その日をたくましく生き抜いています。 男の命の恩人の家族の主が「今日は金曜日だ。“ディナー”に一緒に行こう」と男を誘います。どんな立派なレストランにでも行くのかと思っていると、向かった先は、救世軍(Salvation Army:キリスト教プロテスタントの一派。1978年イギリス人ブースが創始し、軍隊的組織のもとに民衆伝道と社会事業を行う。明治28年に日本にも支部が設けられた=広辞苑)が炊き出しをしている空き地でした。 そういえば、一昨日(17日)、東京のアメ横(「上野アメ横公式ホームページ」)に近い その救世軍の炊き出しに通ううちに、男はイルマという名の中年女性(=カティ・オウティネン)を特別の存在として意識するようになります。イルマは無表情な女性で、いつも軍服のようなものをきちんを着こなし、男を見ても二コリともしません。しかし、どうやらイルマも男を憎くは思っていないようです。 イルマは救世軍の寮に寝泊りする独り者です。仕事もあり、最低限のお金もあり、生きていくだけの生活には困っていないようです。が、彼女の現実生活はそれだけしかないともいえ、現在という一点の時間の中だけで生きているように見えます。今日は昨日の延長で、明日は今日の延長でしかないような延々と同じことの繰り返しの毎日です。 やがて、男はイルマに自分の好意の感情を示し、イルマもそれを受け入れます。つましい(倹約である。また、生活ぶりが地味である=広辞苑)ながらも、二人に訪れたそれなりの幸せの日々です。 しかし、そんな二人に突如“災難”が降りかかります。ある事件をきっかけに、記憶を無くしていた男の素性(すじょう:生まれ育った境遇。また、本来の性質。生まれつき=広辞苑)が明らかになるのです。名前は何といい、どこに暮らし、どんな家族を持っていたのか_。 男は、自分の人生に“決着”をつけるため、自分の本来の居場所(?)へと向かいます。イルマは彼を静かに見送り、また一人ぼっちの生活に戻ります。イルマはこれまでも、そのようにして自分の宿命を静かに受け入れて生きてきたのでしょう。その後、二人はどんな人生を送ることになるのかは、実際にあなたの眼で作品をご覧になって確認していただきたいと思います。 作品全体がまさに「つましく」、底抜けの明るさとは無縁です。それでいて、いや、それだからこそ、人と人とがわかり合うことの大切さを静かに気づかせてくれるような作品に仕上がっています。 もしも今自分が、名前も素性も仕事も財産も何もかも失い、たった一人の人間として見知らぬ街の路頭に放り出されたらどうでしょうか。それでも懸命に、自分の幸せを見つけ出すことはできるでしょうか? |