| ■ 2003/01/09 ウディ・アレン「スコルピオンの恋まじない」 |
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昨日はまた映画を1本観てきました。新年に入って最初の1本です。 当初の予定では、何かと評判の『8人の女たち』を観る予定でしたが、昨日はいつもの半額近い1000円(通常は1800円)で観ることのできる水曜日ということもあってか、劇場へ着くと入り口付近には既に長い列ができていました。しかし、私はそれを『ウェスト・サイド物語』を観る人の列だと勝手に勘違いしてしまいました。 そして、目指すチケット売り場のある5階へとエレベーターで向かいました。ところが係員によれば「チケットは1階で販売しております」とのこと。なんと、今見てきたばかりの列こそが『8人の女たち』を観る人たちの列なのでした。 で、私もこの列に並ばないといけないのかと憂鬱になりかけたとき、劇場の係員が「今から並ばれるお客様は立ってのご鑑賞になります」旨のことを伝えました。私はせっかくの映画を観るのに立ったまま鑑賞させられるのは堪らない、と結局昨日はその映画を観ることを断念しました。予定変更です。 次に向かった先は、東京・ その話に入る前に、私はこの恵比寿ガーデンプレイスへはこれまで行く機会がなく今回初めて行ったわけですが、事前のイメージとは少々違って戸惑いました。 まず、改札を出た後目的の場所までは遠く、“動く通路”(←「恵比寿スカイウォーク」というらしいです)に延々と乗ることにまず驚かされました。東京駅でJR京葉線(※東京ディズニーランド沿線を走る線)から山手線などの在来線に乗り換える際も相当の距離の移動を強いられますが、それに匹敵するのではと思えるほどの距離がありそうです(約400メートルだそうですが、実際はもっとありそうな感じ)。 もう一つ私が見当違いをしていたのは、私は大きなビルの中にいろいろな施設が入っているものとばかり思っていたのですがそれは間違いで、それぞれの施設が別個の建物として独立し、それが一つの“街”のようになっていることでした。で、長い動く通路(といってもほとんどの人はその上を歩いています)を降りた後、さらにまた少し歩いてようやく目的の劇場に到着しました。 劇場内はシンプルで趣があり、個人的には気に入りました。こちらの作品は『8人の女たち』ほどには知られていないのか客の入りは今一つという感じでしたが、私は空いている方が好きですので、内心得した気分になりました。例によって席は前の方の真ん中の席です。 映画の舞台は1941年のニューヨークです。これは映画には直接関係のない話ですが、1941年を昭和の元号に直せば昭和16年になります。そうです。その年の12月8日に日本軍は真珠湾攻撃を行い日本とアメリカは戦争状態に入ったことになります。その時代を描いたにしてはアメリカの都市は戦時色も全く感じられず、至って平時の状態で、人々はいつも通りの生活をしています。アメリカ 本土はこんなにも余裕があったんですね。日本はかなわないはずです。 それはともかく、ウディ・アレン演じるC・W・ブリッグスという中年男は一流保険会社の腕利き保険調査官をしています。とはいえ、見かけはいたって風采(ふうさい:人のみかけのすがた。ふうてい=広辞苑)の上がらない男で、その見かけとは裏腹に女性はすこぶるお好きと見えて、社内で可愛い女性社員を見つけては得意の話術で(?)デートに誘ったりしています。 そこへ、やり手の女性新入社員ベティ=アン・フィッツジェラルド(=ヘレン・ハント)が送り込まれてきます。彼女は業績の落ち込んでいる当社を立て直す使命(?)を受けているようで、ウディ・アレン演じるC・Wとはウマが合わず、顔を合わせる度に言い合いになってしまいます。 言葉の応酬はさながら機関銃のようで、その字幕を追うのはいささか大変です。こんな時は決まって「字幕なしで英語が理解できたらいいのに、、、」と思ってしまいます。ただ、字幕付きでも言葉の面白さは十分に楽しめます。 そのC・Wやベティ・アンの会社で、同僚の誕生日を祝うパーティが開かれました。その宴の半ば、インド風のターバンを頭に巻いた大柄な魔術師が登場し、マジックを一つ披露することになり、催眠術の実験台(?)としてC・Wとベティ・アンの二人が指名されました。 その 二人はたちまち深い催眠状態に入り、マジシャンからキメの言葉である「コンスタンチノープル」と「マダガスカル」が発せられると、信じられないことに犬猿の仲であった二人は恋においちてしまします。しかし、マジックはそこで終わり(?)、催眠術が解かれると元の二人に戻ってしまいます。 そんなことがあったすぐあと、C・Wの保険会社が管轄する邸宅で連続して2件の宝石盗難事件が発生します。手口は内部の情報に通じている者の仕業であることを伺わせます。そこで早速自称腕利き調査官であるC・Wも事件の内部調査を開始するわけですが、、、。 あとは実際の作品をご覧になってその顛末はご自身でご確認ください。 私はウディ・アレンの作品をちゃんとした形で観たのは今回が初めてですが、事前に想像していた以上に楽しめました。上映時間が1時間40分ほどとちょうどよい長さということもありますが、はじめから終わりまで話がギューッと詰まっていて、少しも退屈な思いはさせられません。 また、台詞の多さも観始めた時には懸念(けねん:気にかかって不安に思うこと。心配=広辞苑)されましたが(特に字幕に頼らざるを得ないに日本人にとって)、それも観ていく内に話に夢中になり気になりません。 私個人としては、ローラという脇役を演じたシャリーズ・セロンというブロンドのロング・ヘアでスタイル抜群の肉感的な女優に ここから先は映画の話からは外れてしまいますが、先日の朝日新聞に載っていた「恋愛は誰にでもできるのか・好きになるのも能力のうち」と見出しがふられた面白そうな記事について少し書いてみることにします。誰もが同じように恋愛をしているように思いがちで、実は恋愛するのにも向き不向きがあるのではないか、という疑問について“考察”する内容の特集記事です。 実際問題、世の中の男女のほとんどは生涯のうちに結婚を経験するわけですが、結婚ができたからといって「イコール恋愛に向いていた」とはいえないのが実情です。 比較文学者の で、その小谷野さんは、世の中の4割ぐらいが実は心の中で「自分は恋愛できないかも」と思っているのでは、と分析しています。 一方、京都大学助教授の 「交際相手がいても、本当に相手を好きなのか、と悩む。相手を唯一の存在として『好きだ』と感覚するには、自分が何を欲するのか、鋭く対象を切り分けられる感受性と資質が必要になる」と説きます。 私個人がこの問題に対して別の角度から感想をいいますと、仮に、恋愛するのにも「能力」が必要だとして、さて、それが結婚という形を採っている現代というものは恋愛するのに好都合なのかという気がしてしまいます。 端的にいえば、結婚後は結婚相手以外の異性に対しては恋愛してはいけないとされています。これは恋愛の可能性を自ら放棄し、人間を不自由にしているのではないでしょうか、、、と別に大まじめにいうつもりはありませんが、独身の私はついそんなことを考えてしまいます。 第一、一度はたとえ恋の炎を燃え上がらせた相手であったとしても、そのままずっと何十年も愛し続けるという結婚の前提はあまりにも無理がありすぎます。となったらあとは義理、いや、義務ですか? 結婚後にもっと素敵な異性と出会ったらどうします? 私は一生涯独身を通し、いくつもの恋をしたい、、、これは願望(^_^;< ちなみに先ほどの大澤さんは次のようにも述べています。 「世の中にはロマンス中毒というほど何度も『恋におちる』タイプがいるが、むしろこういうタイプは、自己確認や自己愛、アイデンティティのための物語を自分で作って相手に反映しているだけで、恋愛能力が高いとはいえない」 たかが恋愛、されど恋愛といった感じではありますね。 話を『スコルピオンの恋まじない』に戻しますと、全編をおとぎ話と捉えることもでき、それに呼応するように最後は全てが丸く収まったハッピーエンドとして幕を閉じます。さすがはウディ・アレン、というべきでしょうか。 ともあれ、現在意中の相手がいらっしゃる方は、男性であればその相手に対して「マダガスカル」、女性の方でしたら同じように相手に対して「コンスタンチノープル」と“恋のおまじない”をかけてみてください。それでたちまちのうちに恋におちることができる! かどうかは保障の限りではありませんが、、、(^-^; |