■ 2001/03/26 フィオナ・アップル|“素”である自分

気分が落ち込んでいるとき、私はあるアーティストのアルバムを聴くのをこのところの習慣にしています。ヘッドホンをかけ、ボリュームを目一杯上げて1時間でも2時間でも気が済むまで聴きます。

そのアーティストとは_フィオナ・アップルです。

それを聴き続けていると、いい意味で、自分の中の“凶暴さ”が呼び覚まされるようで、気持ちが少しだけハイになります。

彼女は、自身のアルバム『WHEN THE PAWN / 真実』(→アルバム・ジャケット写真)の中で、自分の作る曲について次のように振り返っています。

あるときふと気が付いたの、わたしの歌はどれも「あなたがこうした、あなたがああした」って詰め寄ってる、と。1対1で対峙する設定ばかりなのよ。で、確かボブ・ディランの歌をラジオで聴きながら、「なんでわたしには物語調の歌が作れないのかしら? 例えば“ある日わたしは * * をして、それから * * して・・・”って具合に書けたらいいのに」なんて思ったわけ。

いわれて彼女の歌詞を改めて読み直してみると、確かに彼女自身がいうような歌詞が並んでいます。

たとえば、『LIMP:腰抜け』「YouTube>Fiona Apple-Limp」)などはその典型のような曲です(歌詞は→こちら)。

この歌詞について、彼女は自分で次のような解説をしています。

これまでに大勢の人に出会ったけれど、みんながわたしに、自分が異常な人間だと信じこませようとしたわ。そうすれば彼ら自身が優越感を保てるから。自分の利益のためにわたしを犠牲にしたのよ。そういう類のシチュエイション全てに適合する歌が書きたかった。親も子供に対して同じようなことをするし、教師やボーイフレンドやガールフレンドも然り。それは卑劣な行為だと言っておきたかったの。他人をけなすことによって優位に立とうと企む人は、最終的には破滅するのよ。

なかなか強いメッセージです。日本のアーティストが作る曲でこれほどあからさまな歌詞はそうそうお目にかかれません。好き、好き、大好きという類の曲なら溢れていますが。

結局、アーティストによって作られた音楽というのは、そこにアーティストのいろいろな想いが込められているわけで、それを聴くことで力を分けてもらうことになり、それにより自分の中にちょっとだけ元気のようなものが生まれたりするのかもしれません。


先日の土曜日(24日)、いつも観ている『真剣10代しゃべり場』(NHK教育/土曜18:30〜19:10 / 新年度の4月からは、土曜21:00〜21:45に変更、らしい)をまた観てしまいました。

この番組については、このコーナーで何度も書いているわけですが、一般からの公募によって選ばれた10代の若者が、毎週一つのテーマに沿って“激論”を繰り広げるトーク番組です。

また、番組には10代を卒業した“大人”のゲストが必ず一人出演するのですが、この日のゲストは俳優の佐野史郎さんでした。

で、その佐野さんが番組の途中で次のような問題提起をしました。

実物の富士山を見ることと、写真で富士山を見ることは等価値ではないか?

つまり、本物の富士山を自分の目で実際に見ることは確かに大切なことなのだけれど、一方、素晴らしい富士山の写真を見て「ああ、素晴らしいなぁ!」と感動することは、自分の中の感覚としては価値が同じなのではないか? という趣旨の問いかけです。

それに対して、10代の若者は一斉に「エー!? 等価値のわけないよ。価値としては本物の富士山の方が絶対に上だよ!」といった反応を示しました。

結果、佐野さんはスタジオの若者たち誰からも賛同を得られない孤立無援の状態に陥り、まさに藪蛇状態(?)になってしまいました。

ただ、元10代の私としては、佐野さんの問いかけに頷けないこともなかったのでした。

確かに、絵画にしても他のどんなものでもそうですが、実物には実物にしかない迫力があります。それは否定できません。しかし、写真など、いわゆる実物の“コピー”自体に意味を見いだして感動し、結果的に実物を見たときと同じぐらいの印象を記憶の中に残すこともあるのではないか、と思ったりします。

話はずれてしまうかもしれませんが、ネットにおいての「オン」と「オフ」といういわれ方があります。

オンとはオンライン上であり、ネットを介したつき合いです。それに対してオフとは、ネットを離れた、といいますか、ネットを飛び出して現実的な交わりを持つことをいいます。

そして、こういった話題で必ずといっていいほどいわれるのが、オンとオフとでは相手に対する印象が変わる、といったいい方です。

一例を挙げますと_Aという人がいて、そのA氏がネット上でBという人から口汚くののしられたとしましょうか? その時点で、A氏は「Bは何てヤツだ!」という印象を持ちます。ところが、オフで“実物”のB氏に会ったところ、ネットでのことが信じられないくらい低姿勢のいいヤツだったのでした。

以上のようなことから、どんなことが考えられるでしょうか?

一般的には_ネットとは所詮バーチャルな世界でしかなく、その中で表現されている言葉は、本来(=オフ)のその人の言葉ではなく、ネットの中だけの“人格”でしかない、といったところかもしれません。

ただ私は、そうした考え方にも「ちょっと待てよ、、、」と疑問を持っていたりします。そんなに単純に考えてしまっていいの? と。

もしかして、オフで会った「いいヤツ」の方がより演技をしていて(※人はいつだって演技をしているものの、その演技の度合いがより強いという意味)、ネットの中の「嫌なヤツ」が当人の本当の姿により近い、ということだってないとはいい切れない、と考えるからです。

あるいは、“素”の自分というものがあってもそれを出すのは独りで自分の部屋にいるときだけで、そこから一歩でも外へ出たら、たとえ家族であっても本当の自分を出さないものかもしれません。

そうしたときに、目の前にPCという装置があり、それを介して見ず知らずの“素”の誰かにつながれるかもしれないと気づいたとき、彼、彼女たちは意識することなく自分本来の“素”をさらけ出す結果になる、といったこともないとはいい切れません。

話が大幅にずれてしまったかもしれません。

要するに、現代は、何が“素”(≒本物)であり、何が“素”でない(≒偽物)かがわからなくなっているかもしれない、ということです。

たとえばの話、本物だと思って感動したのに、あとで気がついたら実はそれは偽物だった、なんてことも珍しくはないでしょう。ただその場合でも、感動したことは事実なわけで、そこで「自分が感動したのは本物か? 偽物か?」と区別して考えることはないのではないか、という気が私はするという話なのですが、、、。

【本日のオマケ独り言】:いくら本物とバーチャルが等価値といっても、恋愛だけは別、と私は考えたいです。恋愛だけは生身の関係が良いよなぁ、、、f(^_^;)