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今週も「週刊 音発見」のコーナーを更新しています。
→ 「丸く収める手締めの音」
なお、これは私がいつも聴いていますNHK−FMのリクエスト番組「サンセット・パーク」 〜月曜日〜 の中に設けられているコーナーです(※現在このコーナーはありません)。
暦の上では既に冬ですが、実際の季節はどの辺にあるんでしょうかね。もっとも日本列島は北から南まで長いので、北の地方ではもうすっかり冬といってもいいのでしょうが、私の住む関東地方は秋のようでもあり、また、既に冬に片足を突っ込んでいるようでもあり、何とも中途半端な季節感の中にいます(?)。そんな今日、私のサイトからもリンクを張らせてもらっています「立川談志の世相講談」が更新されています(火曜日に定期更新)。
今週のお題は_「古今亭志ん朝」です。
「えーと、、、古今亭志ん朝ねぇ(「YouTube>古今亭志ん朝 - 愛宕山〔Part1 of 3〕」)。う〜ん、亡くなりましたがね。以前はよく『談志、志ん朝』と並べていわれたりもしました。アタシからいわせると、二人の芸はまったく違うわけですが、それを端からはああでもないこうでもないといってみたいんでしょうな。早い話、アタシの落語がジャズなら、志ん朝はクラシックです。彼の場合は、噺の枠を綺麗になぞって華麗に演じ、聴いている人を気持ちよくさせる芸です。それに対して、アタシのは、登場人物の中に潜む人間の業(ごう:行為。行動。また、その行為が未来の苦楽の結果を導くはたらき。善悪の行為は因果の道理によって後に必ずその結果を生むというのが仏教およびインドの多くの宗教の説=広辞苑)みたいなものをえぐり出したいって方ですから。そうするほうが芸が上だとかいっているんじゃないですよ。それにしても、彼はいいところで亡くなったんじゃないですか。彼のような芸を演じるにはいろんな意味での若さが必要です。それが枯れる前に亡くなったということです。アタシ自身はこんな性格ですからこんな生き方になっていますが、一方でちゃんとした生き方をしている人がいると、ああ、自分ももっと見習わなくちゃいけないな、と思ったりしますよ。野村監督のカカァじゃないんだから、てそれは置いといて、それを一番感じさせてくれる人が志ん朝でした。生前、こんなことをアタシはいっていました。『金を出して落語を聴くなら志ん朝しかいない』と。もちろん面と向かってはいいませんでしたが、回り回って彼の耳にも入っていたと思います。それが立川談志から古今亭志ん朝への最高の贈り物だと思っています。今頃、アタシのその気持ちを受け取って、あっちの世界にいるんじゃないですか(「YouTube>志ん朝追悼」)」
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