葛尾城跡 2010.3.22
●これほど強固な山城も、武田方・真田の謀略のためにあっけなく落ちたのでした。この上の鉄塔下辺りから戸倉の磯部へ下りる道があります。途中に葛尾城落城にまつわる乙女の泣き坂という所があります。「信玄がここ葛尾城を落城させた時、村上義清の夫人達は城からここまで逃げてきた。この川を渡り対岸の荒砥城へ落ち延びようとして船頭にわけを話したところ、快く引き受けてくれて無事対岸へ渡れた。夫人は我が身の危険を省みずに船を出してくれた船頭に心打たれ、お礼として髪にさしていた笄を手渡した。 村人たちは義清夫人を偲んで、この渡しを「笄の渡し」と呼ぶようになった。」(笄の渡し案内板)
■葛尾城跡
県史跡 昭和49年1月17日指定村上氏の本城の跡。葛尾山の山頂を占め、本郭・二の郭・三の郭および脇郭などが1直線上に尾根上にある。本郭が最高所を占め、長さ29m、幅12mの長方形、東北の一辺に土塁跡を残している。本郭の南西に下る尾根斜面を削って二の郭・三の郭があり、さらにその南西斜面に箕状の階段状の段郭が14面ある。それぞれの尾根上の郭の間には深い急斜面の堀切が設けられている。 本郭の南西千曲川に張り出した矢場佐間山(矢間狭間山の転誤の説も)(横吹山)の高所に支城があり、姫城(跡)という。大小二郭がある。 葛尾山の西の山腹斜面に大段・小段とよぶ台地がある。当時の米蔵・兵器庫・兵舎などがあった所で、それらに関係した出土品が多かった。 葛尾山の北東の尾根に湧水、西斜面の泉平にも湧水がありこの城の水の手であった。葛尾城は元中元年(1384)(元中9年の説も)村上義国(義次)が村上郷からその本拠を坂城郷に移して築城したと伝える。以来村上氏の本城であったが天文22年(1553)武田晴信(信玄)の攻略をうけて落城する。 今頂上に村上神社なる小祠がある。清和天皇・源(村上)盛清・村上義光・義国・義清の5柱を祭る。(坂城町の紹介サイト「にぎわい坂城」の名所案内より)
■村上氏
清和天皇の皇子貞純親王五代の後裔(こうえい)仲宗は京都の院の庁に仕え、殿上人として栄えていたが、白河上皇の関する事件で、仲宗は讃岐へ、子の惟清、顕清はそれぞれ伊豆、信濃に流された。顕清の弟盛清は惟清の養子となり、顕清の子の為国は信濃国村上郷に住み、為国の子惟国が清野に住み清野氏と称したという。(埴科郡誌)

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