森将軍塚古墳 2010.01.31
●後円部頂は、盗掘のため埴輪の配列が不明で再現されていませんが、家型埴輪の破片などが出土しているそうです。
1923年刊行の『長野縣史蹟名勝天然記念物 調査報告書』で森将軍塚と記されたのがこの名称の始まりということです。ただ、もっと古くから将軍塚と呼ばれていたようで、その俗称が正式名称になったということでしょう。
もちろん古墳時代に将軍という呼称はありません。おそらく江戸時代の当地(松代藩)の御用学者が将軍塚と呼んだのではないでしょうか。全国各地にも将軍塚があるので、江戸時代の大きな古墳の一般的な呼び方だったようです。
基本的に古墳の名称は、字名(地名)で呼ばれます。また、大きな古墳に関しては旧村名や町名で呼ばれることもあります。
●では、将軍でないとしても、この古墳の最初の埋葬者は誰でしょう。当時はまだ漢字で歴史を残すということがなかったため、後の古文書の記述や口伝を頼りに推測するしか方法はないわけですが。
ヤマト王権と関係のある信濃国になる前の科野国の初代大王の墓という説が最も一般的なようです。
●崇神天皇の代に、ヤマト王権より科野国の国造(こくぞう・くにのみやつこ)に任命された、神武天皇の皇子・神八井耳命(カムヤイミミノミコト)の後裔の建五百建命(タケイオタツノミコト)が埋葬されているといわれています。また、妻女山の麓にある会津比売神社の祭神・会津比売は、建五百建命の后であると伝わっています(埴科郡誌・會津比賣神社御由緒・里俗伝など)。
●森将軍塚古墳を始め、薬師山(笹崎山)の土口将軍塚などの埴科古墳群や、川柳将軍塚古墳は、信濃国造や信濃の豪族と深い関係にあることが知られています。そこで、信濃豪族の系譜を探ってみましょう。信濃の古墳研究の第一人者であった元長野県考古学会長・故藤森栄一氏の全集第11巻「古墳の時代」の「信濃の古墳文化」>「将軍塚と信濃国造」より引用の文章を挙げてみます。
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信濃豪族の系譜
 古代史に登場してくる信濃の豪族としては、信濃豪族の系譜『古事記』上巻と『先代旧事本紀』三に出てくる国譲神話の建御名方神と、『日本書紀』五の崇神天皇と、『国造本紀』に出てくる科野国造建五百建命よりない。
タケミナカタははっきり南信濃諏訪のかみとわかっていて、諸種の条件もそなわっている。とすれば、この更埴方面の大勢力に擬せられるのほタケイホタテ*よりないわけである。
 『紀』によればタケイホタテは神八井耳命(かむやいみみのみこと)の孫となっているが、『古事記』五にはその神八井耳命の子孫たちについてかなりくわしい記述である。すなわち、意富(いほ)臣、小子部(ちいさこべ)連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫の三家(みやけ)連、雀部(ささき)連、雀部臣、小長谷(おばせ)造、都祁(つげ)直、伊余国造、科濃国造、道奥の石城国造、常道(ひたじ)の仲国造、長狭国造、伊勢の船木直、尾張の丹波(には)臣、嶋田臣などがそれで、この皇兄は、大和朝廷創始の伝承につらなる神武天皇が、大和に入って后とした媛踏鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)の長子である。第二代の緩靖天皇となる神淳名川耳命(かむぬなかわみみのみこと)はその末弟であるとされているところからすると、科野国造の毛並みというものは並大抵なものではないといえる。この点、太田亮**は信濃国造の設置を、国造中最古の一つにおいている。
 「神武紀」はとにかくとしても、信濃国造が大和朝廷の力を背景に勢力を張りめぐらした古代天皇家に連らなる大家族の一つであったことは確かである。
注(筆者)*ここでいうタケイホタテとは、崇神天皇の御代、信濃国造であった、神八井耳命(カムヤイミミノミコト)の後裔と云われる建五百建命(タケイオタツノミコト)。
     **太田亮(1184〜1956):系譜学者、『姓氏家系大辞典』『日本古代史新研究』等。
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●会津比売神社御由緒には、会津比売命は、建五百建命の妻とされ、妻女山の(松代藩による)命名の由来とされています。また、その墳墓は、土口将軍塚とも斎場山古墳とも云われています。八世紀に入り、国府が上田付近に置かれる以前、科濃国造の所在は、埴科であった可能性もあるといいます。「石川将軍塚が豊城命の墳墓であるとか、森将軍塚古墳が建五百建命の墳墓であるという明快な解答は考古学ではできない。」と、藤森栄一氏は述べています。「あらゆる諸学の知識を動員しても、それは永久に不可能である。」と。しかし、一方で、「たぶん四世紀頃、川中島を中心に、大和朝廷の勢力が到来して、弥生式後期の祭政共同体の上にのっかって、東国支配の一大前線基地となっていたことは事実である。」とも記しています。
 そして、五世紀には、大陸から渡来人と共に馬が到来し、六世紀から十一世紀にかけて信濃は牧馬の中心地となったのです。その機動力により、ヤマト朝廷の権力が地方にも早く確実に届くようになり、次第に古い国造の治外法権を奪っていきました。そして、律令管制が布かれ、諸国に国司・郡司が置かれるに至っては、祭礼のみを司る象徴的な役目へと変貌したと云われています。
MORI MORI KIDS ■MORI MORI KIDS Nature Photograph GalleryI ■CAPINO CAPINO(C) in Nagano & Tokyo Japan since 08.04.2003  ●お 問 い 合 わ せ

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