山本勘助の軍道「勘助横手」、通称「勘助道」 2009.10.12
●この道は、信州に侵攻した武田軍に立ちはだかった村上義清の居城「葛尾城」を背後から攻めるために、城の北にある「五里ヶ峯」という山の東側に勘助が造ったとされるものです。勘助はこの道をわずか数日のうちに造ったと地元では言い伝えられています。[千曲市のサイトより]
★この写真の前方は、主稜線を巻いて葛尾城の後方上部に通じていたと思われます。トラバースすると、調度葛尾城跡から五里ケ峯への登山道途中にある曲がり松(義清の腰掛け松)辺りに出ます。それでは反対側はどこに通じていたのでしょうか。私は、やはりトラバースして尾根に乗り、森から笹平を越えて坂城の日名に抜ける街道に通じていたと思います。そして笹平から鏡台山を越えて、あるいは巻いて戸神山脈を越えて西条へ。そして、海津城へ通じていたと考えています。西条から戸神山脈を越えて坂城の日名へ抜ける道は、古くからあり、「猿飛越え」と呼ばれていました。途中までは、武田の別働隊も越えたといわれるルートです。つまり、鏡台山を中心として、五里ケ峯、太郎山、虚空蔵山、象山、斎場山、地蔵峠へと軍道の山岳ルートがあったと推理します。おそらく五里ケ峯を越えるルートは、すでにあったのでしょうが、それでは敵から丸見え。山陰を密かに巻くルートをわざわざ造ったのかもしれません。

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