鞍骨山 その2 2009.4.12

●コースから外れて猛毒のヤマトリカブトの群生地。

●山菜のニリンソウと酷似するので要注意。誤食したら死にます。

●尾根からはずれてわずかにカタクリ。スプリング・エフェメラル、春の陽炎、儚い命の代表的な野草です。首都圏では希少植物ですが、北信濃では、ごく普通の山野草のひとつで、群生地があちこちに見られます。
 
●気温ではなく、花びらの体温が25度以上になると、完全に反っくり返ります。

●思いっきり反っくり返った花。
 
●こちらはまだ蕾。

●万葉集にも詠われています。
題詞「攀折堅香子草花歌一首」
「物部乃 八十△嬬等之 ▽乱 寺井之於乃 堅香子之花」
(△=女偏に感。▽=手偏に邑)
「もののふの  八十娘(やそおとめ)らが  汲み乱(まが)ふ  寺井の上の  堅香子(かたかご)の花」-万葉集・大伴家持-
 
●逆光が美しい花です。

●道に戻って鞍骨城跡を目指します。この左右3mほど下には、長細い削平地があります。
 
●まず五の郭。右手、南面から登るのが最も容易ですが、左手から。

●左手に回ると右上に広い四の郭が見えます。

●よじ登って四の郭。

●広い四の郭。
 
●四の郭より見上げて。

●左手に回ると右上に三の郭。
 
●よじ登って、やや幅が狭い三の郭。

●三の郭より見上げて。今度は右へ回って二の郭へ。
 
●二の郭。

●右へ回って虎口へ。
 
●さらに上に帯郭が。

●南側の虎口から本郭へ。やっと頂上です。鞍骨城の祖といわれる清野氏については、こちらをご覧ください。主郭の説明

●登ってきた北西の段郭。遠くに見えるのは天城山。

●北西の角から見る本郭の全貌。
 
●鏡台山からここまで続く戸神山脈。3月1日の鏡台山-妻女山縦走は、なかなか大変でした。

●鏡台山(大洞山)遠望。
 
●鏡台山へ続くヤセ尾根。

●ダンコウバイ。
 
●二箇所あるヤセ尾根の展望地で昼食。

●天城山。
 
●右へ妻女山(赤坂山)。
●武田氏滅亡後、鞍骨城は『景勝一代略記』によると、1982(天正10年)7月に上杉景勝が「清野鞍掛山の麓、赤坂と云所に御馬を立てられ、・・・鞍掛山へ御上がり云々」『信濃史料』との記録があり、景勝と北条氏政が川中島四郡支配を争った際に、上杉方がこの一帯に陣取った様子が記されています。そういう経緯から、今の鞍骨城は、景勝時代の姿ではないかとも考えられます。

■江戸後期の『甲越信戦録』には、武田別働隊の動きをこう記してあります。(史実ではありません)
 「武田方の妻女山夜討の面々は、子の刻に兵糧を遣い、子の半刻(月が隠れる午前1時頃)に海津を出べし。経路は西条の入より、唐木堂越(坂城日名の方へ出る道なり)に廻るべし。これより右手の森の平にかかり、大嵐の峰を通り、山を越えて妻女山の脇より攻め懸かるなり。この道は、甚だ難所なれども、ひそひそ声にて忍び松明を持ち、峰にかかり、谷に下り、あるいは山腹を横切り、次第に並ぶ軍勢これぞひとえに三上山を七巻き纏いしむかで(滋賀の伝説)の足卒苦して打ち通る。」
 西条の唐木堂から坂城日名の方へ出る街道は、戸神山(三瀧山)で倉科へ下る傍陽(そえひ)街道とも繋がる。倉科に下れば、倉科坂を二本松峠から天城山へ登るもよし、倉科尾根に登って天城山西の鞍部から堂平経由で陣場平へ攻め込むもよし、倉科から生萱の山裾を巡り、土口笹崎から攻め上がるもよし、妻女山の上杉軍も各所に分かれて布陣しているわけだから、それに見合う部隊を各所へ攻撃に充てればいいわけです。私の、『第四次川中島合戦』啄木鳥戦法の検証より。興味のある方はご一読を。

●妻女山(赤坂山)の桜も咲きました。

●川中島遠望。
 
●桜咲く松代城(海津城)遠望。

●虎口の正面に見えるのは大峯山。
 
●西方には、倉科の北山。

●虎口から下ります。南西には帯郭と下に広い郭。四角い窪みが。
 
●大峯山とあんずと万葉の里、倉科。

●南面から見上げる本郭。
 
●帰りは南面を下る踏み跡を。

●見上げると大岩が。

●四の郭を横目に。

●倉科尾根の向こうに唐崎山。
 
●馬場跡ともいわれる長い平地。ここでも寄り道。

●鉄塔。
 
●振り返って鞍骨城跡。芽吹くと見えなくなります。

●二本松峠。
 
●妻女山、天城山、倉科尾根分岐。

●倉科尾根に向かいます。
 
●倉科尾根。倉科将軍塚古墳と鷲尾城跡に続きます。
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