妻女山展望台から望む川中島 2008.1.4
●左、紅白の鉄塔の向こう、山裾に国指定史跡「川柳将軍塚古墳」。右手に雪雲に霞む茶臼山。
 信濃豪族の系譜
●斎場山(妻女山)や、薬師山(笹崎山)の土口将軍塚、会津比売神社は、信濃国造や信濃の豪族と深い関係にあることが知られている。そこで、信濃豪族の系譜を探ってみたい。信濃の古墳研究の第一人者であった元長野県考古学会長・故藤森栄一氏の全集第11巻「古墳の時代」の
「信濃の古墳文化」>「将軍塚と信濃国造」より引用の文章を挙げてみよう。
「引用文」----------------------------------------------
信濃豪族の系譜
 古代史に登場してくる信濃の豪族としては、信濃豪族の系譜『古事記』上巻と『先代旧事本紀』三に出てくる国譲神話の建御名方神と、『日本書紀』五の崇神天皇と、『国造本紀』に出てくる科野国造建五百建命よりない。
 タケミナカタははっきり南信濃諏訪のかみとわかっていて、諸種の条件もそなわっている。とすれば、この更埴方面の大勢力に擬せられるのはタケイホタテ*よりないわけである。
 『紀』によればタケイホタテは神八井耳命(かむやいみみのみこと)の孫となっているが、『古事記』五にはその神八井耳命の子孫たちについてかなりくわしい記述である。すなわち、意富(いほ)臣、小子部(ちいさこべ)連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫の三家(みやけ)連、
雀部(ささき)連、雀部臣、小長谷(おばせ)造、都祁(つげ)直、伊余国造、科濃国造、道奥の石城国造、常道(ひたじ)の仲国造、長狭国造、伊勢の船木直、尾張の丹波(には)臣、嶋田臣などがそれで、この皇兄は、大和朝廷創始の伝承につらなる神武天皇が、大和に入って后とした
媛踏鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)の長子である。第二代の緩靖天皇となる神淳名川耳命(かむぬなかわみみのみこと)はその末弟であるとされているところからすると、科野国造の毛並みというものは並大抵なものではないといえる。この点、太田亮**は信濃国造の設置を、国造中最古の一つにおいている。
 「神武紀」はとにかくとしても、信濃国造が大和朝廷の力を背景に勢力を張りめぐらした古代天皇家に連らなる大家族の一つであったことは確かである。
*ここでいうタケイホタテとは、崇神天皇の御代、信濃国造(しなののくにのみやつこ)であった、神八井耳命(かむやいみみのみこと)の後裔と云われる建五百建命(たけいおたつのみこと)である。
**太田亮(1184〜1956):系譜学者、『姓氏家系大辞典』『日本古代史新研究』等
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●会津比売神社御由緒には、会津比売命は、建五百建命の妻とされ、妻女山の命名の由来とされている。また、その墳墓は、土口将軍塚とも斎場山古墳とも云われている。八世紀に入り、国府が上田付近に置かれる以前、科野国造の所在は、埴科であった可能性もあるという。「石川将軍塚が豊城命の墳墓であるとか、森将軍塚古墳が建五百建命の墳墓であるという明快な解答は考古学ではできない。」と、藤森栄一氏は述べている。「あらゆる諸学の知識を動員しても、それは永久に不可能である。」と。しかし、一方で、「たぶん四世紀頃、川中島を中心に、大和朝廷の勢力が到来して、弥生式後期の祭政共同体の上にのっかって、東国支配の一大前線基地となっていたことは事実である。」と記している。故に、雨宮、或いは屋代に科濃国造がいたと推測する歴史研究家もいるのである。斎場山(後の妻女山)は、その信濃国造建五百連命(たけいおたつのみこと)が袷祭した重要な場所と伝わる。

 そして、五世紀には、大陸から渡来人と共に馬が到来し、六世紀から十一世紀にかけて信濃は牧馬の中心地となる。その機動力により、朝廷の権力が地方にも早く確実に届くようになり、次第に古い国造の治外法権を奪っていき、国造は、大化改新を経て、後に律令管制が布かれ、諸国に国司・郡司が置かれるに至っては、祭礼のみを司る象徴的な役目へと変貌したと云われている。
*国造:(くにのみやつこ・こくそう)大和王権の職種・姓(かばね)のひとつで、元々は渡来人の高度な技術者集団に与えられた姓だという。王権が征服した地方豪族にその職を与えて統治させた。大化改新を経て律令制が導入されると、世襲制の名誉職、主に祭祀を司るものになり、従来の国造の職務は郡司に置き換えられてゆく。
 

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