妻女山(斎場山) その1 2008.1.4 | ||
妻女山は往古赤坂山といった。本当の妻女山は斎場山という。 | ||
1月4日(金)、初登山は、歴史の山「斎場山」へ。 『長野県町村誌』第二巻東信篇【岩野】には、「【妻女山】高及び周囲未だ実測を経ず。村の南の方にあり。嶺上より界し、東は清野村に属し、西南は土口村に属し、北は本村に属す。山脈、南は西條山に連り、西は生萱村の山に接す。樹木鬱蒼。登路一條、村の南の方山浦より登る。高二十一町、険路なり。」とあります。 出典:『長野県町村誌』第二巻東信篇 昭和11年発行 調査;明治13年 岩野戸長窪田金作氏への聞き取り調査より この「登路一條、村の南の方山浦より登る。高二十一町、険路なり。」とは、岩野駅南の前坂から韮崎の尾根にのり、斎場山へ上がる険路をいうと父から聞いたので、息子達と登ることにしました。外部の人は知らない道です。 |
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養蚕が盛んな頃は、天上の桑畑に桑摘みや数十キロの肥料を運び揚げるために、村人はこの険路を登ったと聞きました。大きな篭に桑を摘んで下りてきたともいいます。現在は登る人は希で、うち捨てられているだろうとのことでしたが、薮になる夏と違い冬なら登れるだろうとの判断です。やはり、相当の険路でしたが、妻女山(赤坂山)を新たな視点から見ることができたり、斎場山(旧妻女山)への確たる道を確認できたりと、有意義な山登りになりました。下山後は、長野電鉄で松代へ。松代城と象山神社へ初詣と充実した一日でした。 ■星印★のある写真をクリックすると拡大します。 |
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■年輩の、特に女性の方は「川中島」という歌をご存じかと思います。お手玉遊びの歌として全国に広まりましたが、明治29年5月、教育音楽講習会(編)『新編教育唱歌集(五)』に掲載されたもので、作詞:旗野十一郎、作曲:小山作之助です。 「川中島」 一 西条山は 霧ふかし 筑摩の河は 浪荒らし 遙に聞ゆる 物音は 逆まく水か つわものか 昇る朝日に 旗の手の きらめくひまに くるくるくる 二 車がかりの 陣ぞなえ めぐる合図の 鬨(とき)の声 あわせる甲斐も あらし吹く 敵を木の葉と かきみだす 川中島の戦は 語るも 聞くも 勇ましや |
もちろん西条山は、斎場山(妻女山)であり、筑摩の河は、千曲川です。日清戦争直後ですので、軍事色の強い歌が多く作られたのですが、「夏は来ぬ」のような情緒溢れる歌も作られました。ちなみに、卯の花の匂う垣根に〜の卯の花は、ウツギの花です。 お手玉遊びの歌として広まった「川中島」は、地方によって遊ばれているうちに、色々と歌詞が変わってしまったものもあるようです。また、西条山が斎場山(妻女山)のことだと知らずに歌っていた人がほとんどだと思います。西條山は、妻女山が歌のメロディーに合わせて転訛したのではなく、斎場山がもとなので、読みは「さいじょうざん」でいいのです。むしろ妻女山は、戦国当時はない呼び名ですから間違い。江戸時代に松代藩が命名した名称で、1647(正保4)年の『正保国絵図』に妻女山と記載されています。 |
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■今回のコース 岩野駅--前坂登山口--前坂--韮崎の尾根--斎場山(513m)古墳・謙信台--林道(杏の里ハイキングコース)--陣場平--妻女山(411m)赤坂山--会津比売神社--妻女山登山口(351.6m)--国道403号線(谷街道)--岩野駅 ■全行程:約2時間・休憩を含む 気温:0度 標高差:約162m ■登山地図にないコースです。★二万五千分の一地形図必須・季節によっては、熊・猪・スズメバチ・マムシ対策も。 ★狩猟期は、ハンターが入ります。いずれも個人所有の山なので、マナーを守ってください。 ■妻女山については、★妻女山の位置と名称についての特集ページをご覧ください。 |
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斎場(妻女)山脈の今昔 | ||
![]() ●1983年5月3日撮影。上信越自動車道がまだ無い良き日の斎場山脈。★クリックで拡大。以下★印同様。 千曲川の堤防より見た斎場山脈。左(東)に妻女山(赤坂山)右に薬師山(笹崎山)。中央の最も高い山が名無しって変ですね。地元ではみな本当の妻女山(正しくは斎場山)と呼び、本陣跡・床几塚・謙信台・龍眼塚などと呼んできましたが、外部の人になぜそのことが広まらなかったのかとても不思議です。歴史研究家も妻女山(赤坂山)だけでなく、この堤防に来れば、上杉軍がどう布陣したか想像できると思うのですが。あんな狭い妻女山(赤坂山)に13000もの軍勢が布陣できるはずがありません。この山域全体と麓の斎場原にも布陣したと云われています。 |
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![]() ●2007年8月13日撮影。気温34度。削られた山肌が痛々しい。★816k山座同定 |
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斎場山(妻女山)トレッキングルポ | ||
![]() ●岩野駅。上には御陵願平。雪混じりの天候です。 |
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![]() ●長野電鉄屋代線・岩野駅から出発。ホームを西へ下ります。 |
![]() ●駅近くの踏切を渡って前方の家の裏側を左へ。昔は、駅の東から真っ直ぐ登山口へ向かう作業道がありましたが、今はありません。 |
![]() ●墓地の向こう側が村誌にある険路「前坂」の登り口ですが、ひどい薮なので一旦右へ登ってトラバースすることにしました。 |
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![]() ●檜林を登って…。 |
![]() ●檜林を抜けたら、踏み跡を左へ。 |
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![]() ●前方は雪が溶けています。こちら側は雪。斎場山の陰で陽が当たらないのです。 |
![]() ●前坂からの山道に入りました。 |
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![]() ●眼下に岩野駅。作業道としては、かなりの険路です。 |
![]() ●道は、凹状になり綴れ折りで上に続いています。所々に松食い虫を駆除して積み上げられた松の木がビニールに包まれて置いてあります。松食い虫とアメリカシロヒトリは、この辺りの山野を激しく疲弊させました。 |
![]() ●南面の林道に下ります。向かいに霞むのは、これから向かう「陣場平」。墳丘裾は二段になっています。 |
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![]() ●東風越えに下ります。斎場山から陣場平にかけての地名を「天上」といいます。字名は「妻女」です。右の土口側は「北山」です。 |
![]() ●斎場山脈の要所、「東風越(こちごえ)・長坂峠」を右に曲がって「陣馬平」へ。清野側から土口に向かって東風が越える峠です。 |
![]() ●緩やかな傾斜の道を真っ直ぐ南へ歩きます。この辺りも割と平坦です。昔は桑畑でした。ここの地名は天上ですが、ここも陣場平といってもいいでしょう。 |
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![]() ●昔は土口側へ下りる道もありました。下から峠までずっと畑でした。今は雑木林です。古道の跡は微かに残っています。 |
![]() ●林道は、緩やかに曲がっていきます。左手上が陣場平。昭和30年代までは広大な畑でした。 |
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![]() ●初夏以降は、この辺りはスズメバチが営巣します。私も以前、オオスズメバチに襲われました。夏秋は要注意! 猪・熊も出ます。 |
![]() ●陣場平。かなりの広さの平地があります。夏場は薮で覆われてしまいます。様子がわかるのは冬場だけ。 |
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![]() ●ここで林道は、再び南へ。天城山へと続きます。向こう側へ下ると堂平大塚古墳。私有地の中なのでマナーを守ってください。 |
![]() ●緩やかに登ってコブを越えます。 |
![]() ●コブのピーク。大正時代の地形図に閉じたピークが描かれた場所の近くですが。ご覧の通り山頂らしきものはありません。削ったという事実もありません。左下は大勢の兵を置いたといわれる「陣馬平(じんばだいら)」。 |
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![]() ●奥に清野氏の要害鞍骨城の支城・天城砦(てしろとりで)のあったといわれる天城山(てしろやま)のシルエットが見えます。右下は堂平。埴科古墳群のひとつ「堂平古墳群」があります。 |
![]() ●来た道を戻ります。ご覧の通りとてもなだらかです。 |
![]() ●陣場平で、父母が見たという標石を探しました。 |
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![]() ●陣場平北側には、東西に長く石垣があります。古いものですが、畑の土留めに使われました。『甲陽軍鑑』の編者・小幡景憲彩色の「河中島合戰圖 」には、この辺りに上杉の陣所が描かれています。 |
![]() ●雪で見えないので諦めて下山します。おそらく測量の標高点かなにかでしょう。埋まってしまったか撤去されたかもしれません。(この標石は後に見つかりました) |
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![]() ●右上が陣場平。昔は桑畑でした。石垣下の斜面は切岸のようになっています。 |
![]() ●振り返って、左上が陣場平。 |
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![]() ●東風越えから陣場平を見たところ。天城山は霞んでいます。 |
![]() ●ノケダン(野毛壇)を妻女山へ下ります。 |
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![]() ●天城山(694.6m)から斎場山・川中島方面、北の方向を見たところ。妻女山(戦国当時の赤坂山)は、ここからは見えないことが分かります。天城山から陣場平への尾根は、ご覧の通りカーブしています。間の中腹に堂平があります。海津城は、ずっと右手、茶臼山は左手になります。青い筋は、千曲川ですが、江戸時代後期に瀬直しで流路が大きく変わっています。戦国時代はもっと大きく蛇行し、瀬は広がっていたということです。 ■「国土地理院の数値地図25000(地図画像)『松代』」をカシミール3Dにて制作。 |
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