| 森将軍塚古墳 2008.1.3 |
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| ●「石川将軍塚が豊城命の墳墓であるとか、森将軍塚古墳が建五百建命の墳墓であるという明快な解答は考古学ではできない。」と、元長野県考古学会長・故藤森栄一氏は述べている。「あらゆる諸学の知識を動員しても、それは永久に不可能である。」と。しかし、一方で、「たぶん四世紀頃、川中島を中心に、大和朝廷の勢力が到来して、弥生式後期の祭政共同体の上にのっかって、東国支配の一大前線基地となっていたことは事実である。」と記している。故に、雨宮、或いは屋代に科濃国造がいたと推測する歴史研究家もいるのである。斎場山(後の妻女山)は、その信濃国造・建五百連命(たけいおたつのみこと)が袷祭した重要な場所と伝わる。 そして、五世紀には、大陸から渡来人と共に馬が到来し、六世紀から十一世紀にかけて信濃は牧馬の中心地となる。その機動力により、朝廷の権力が地方にも早く確実に届くようになり、次第に古い国造の治外法権を奪っていき、国造は、大化改新を経て、後に律令管制が布かれ、諸国に国司・郡司が置かれるに至っては、祭礼のみを司る象徴的な役目へと変貌したと云われている。藤森栄一氏の全集第11巻「古墳の時代」の「信濃の古墳文化」>「将軍塚と信濃国造」より引用。 国造:(くにのみやつこ・こくそう)とは、大和王権の職種・姓(かばね)のひとつで、元々は渡来人の高度な技術者集団に与えられた姓だという。王権が征服した地方豪族にその職を与えて統治させた。大化改新を経て律令制が導入されると、世襲制の名誉職、主に祭祀を司るものになり、従来の国造の職務は郡司に置き換えられてゆく。 |
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