斎場山山頂(斎場山古墳)より川中島を望む 2007.12.30 
●上杉謙信が、この妻女山古墳の墳丘上に床几を据えて、海津城をはじめ武田方の動静を望見したと伝えられています。よって「床几塚」または俗に「謙信台」とも呼ばれます。夜は、西へ下った薬師堂で休んだと伝えられています。
ここは西へ長尾根(薬師山・笹崎)、北に十二川原、北東へ赤坂山、南東へ陣馬平と堂平、南へ千人が窪と上杉軍が布陣した中央にあたり全てが見渡せ、本陣としては最適な場所であることが明瞭です。
●春日城を発った上杉謙信は、牟礼宿で善光寺に向かう兵糧方と別れ布野(長野市朝日布野)で千曲川を渡り、福島宿(須坂市福島)、川田宿と飯山通りを南下。旧谷街道の重要交通路、可候(そろべく)峠を越えて大室から東条へと進軍。
その時、直江山城守が、まだ武田信玄のいない海津城を攻めることを進言するも、「弱兵の城を攻めるは、卑怯未練の働き、臆病者のする業」と取り合わず、無視して進軍。関谷川(蛭川)を越え、多田越え(竹山と法泉寺の間)し、清野に入り、妻女山に布陣する。一の手は、直江山城守が赤坂の下。二の手は、甘粕近江守が清野出埼を陣として月夜平まで。三の手は、宇佐見駿河守が岩野十二川原に。四の手は、柿崎和泉守が土口笹崎に。五の手は、村上入道義清。
上杉謙信本陣は、ここ妻女山(斎場山)に構えた。謙信は、信玄が茶臼山に布陣し、横田、小森、東福寺、水沢まで固め、善光寺からの補給路を断つも全く動ぜず。やがて信玄は、広瀬の渡しから全軍を海津城に入れ、軍議を開く
●武田信玄は、山本勘助の進言により、啄木鳥の戦法を採用。12000の別働隊が、子の半刻(午前1時頃)に海津城を出陣し、西条の入から鏡台山を通って坂城の日名へ抜ける唐木堂への道を登り、右手森の平から大嵐の峰(鏡台山から南へ延びる峰、西条の南南西に977.5mの大嵐山がある)を通り、鞍骨山、天城山を巻いて妻女山(斎場山)の脇より謙信本陣に夜討ちをかける。(史実であれば、忍び松明での夜行軍は、さぞ辛苦の連続だったろうと思われます)武田信玄8000は、寅の上刻に八幡原へと出陣する。
●しかし、武田の戦法を見破った謙信は、月の入りを待って、勇士100人を残し、丑の中刻(午前3時頃)静かに妻女山を下り、未明に濃霧の中、千曲川の雨宮の渡し、狗ケ瀬、あるいは十二ケ瀬を渡り八幡原へ進撃。武田軍別働隊は、辛苦の行軍をして、やっとの思いで妻女山へと進撃するももぬけの殻。あわてて山を下りるも、今や遅しと東福寺で待ちかまえていた甘粕1000人と激戦になる。
●早朝、上杉謙信が八幡原の信玄を急襲し合戦となる。初めは上杉の優勢。やがて甘粕軍を敗った別働隊が到着し、午後は信玄が優勢。謙信は、善光寺への退却を余儀なくされる。 信濃は武田に制圧される。 この戦で武田信玄の弟信繁が戦士。参謀・山本勘助は、猛然と敵に襲いかかり戦死。『甲越信戦録』より。尚、地元に伝わる伝承もこれとほぼ同じです。

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