海津城(松代城) 2007.8.16
●海津城の起源については、清野村誌の記述により清野氏という説があります。
●清野屋敷・禽(とり)の倉屋敷
 村の北の方、字中沖にあり。往古本村領主清野氏数代之に居す。年月不詳。清野某海津に移り、該地に倉庫を建つ。此時より禽の倉屋敷と称す。天文、弘治中、清野山城守武田氏に敗られ、越後に逃走するに及び武田氏の有となり、天正十年三月武田勝頼滅び、織田信長の臣森長可の有となり、六月信長弑せされ長可西上するに至り、七月上杉景勝の所有となり、某幕下清野左衛門尉宗頼、該地に移り居住すと言ぅ。管窺武鑑に七月四郡(埴科・更級・水内・高井)上杉景勝の有となり、清野左衛門尉を、猿ケ馬場の隣地、竜王城に移とあり。一時此処に居せしか不詳。後真田氏領分の時に至り寛永中焼亡す。後真田氏の臣高久某此域に居住し、邸地に天満宮を観請す。弘化二乙己四月村民清野氏の碑を建つ。『清野村誌』
●清野氏について
 清和天皇の皇子貞純親王五代の後裔仲宗は京都の院の庁に仕え、殿上人として栄えていたが、白河上皇の関する事件で、仲宗は讃岐へ、子の惟清、顕清はそれぞれ伊豆、信濃に流された。顕清の弟盛清は惟清の養子となり、顕清の子の為国は信濃国村上郷に住み、為国の子惟国が清野に住み清野氏と称したという。(埴科郡誌)
 関東管領の職についた上杉憲実は伊豆にいたが、幕命によって鎌倉に入り、弟の清方と上杉持朝に命じて結城城攻撃に当らせ、自らも兵を率いて鎌倉を発した。
 憲実は信濃守護小笠原正透に陣中奉行を命じた。正透はこれにより信濃国中の諸士を三十番に分かち、陣中の取締りや矢倉の番をさせた。この中に、屋代、雨宮、生仁、関屋、寺尾、西条氏等があった。こうして正透らの攻撃により結城城は落城した。1441年(嘉士口元)のことであった。清野氏は永寿王を送り届けると、清野へ帰ったようであるが、その後の行動については詳らかでない。その頃の足利尊氏以来の年初恒例の射場始めの射手選びとか、諏訪社の流鏑馬や御射山頭役などに屋代氏、村上氏などが見えるが清野氏の名は見あたらない。
 1467年(応仁元)清野正衡は入道して徳寿軒といい鞍骨城を築き、後1510年(永正年間)頃同城の鬼門除けに離山神社を創建したという。
 1488年(長享二)清野氏(正衡の頃か)諏訪社の下社秋宮宝殿造営の郷と定められている。
 1495年(明応四)清野伊勢守長続(伊勢守国基か)の頃、英多庄(松代、東条、西条、豊栄)を支配していたことが記されている。16世紀のはじめ(国俊の頃か)節香徳忠和尚を請し森村に禅透院を建てた。
 1540年(天丈九)武田信虎は信濃国を攻略しょうと始めて佐久郡に攻め入り、小県郡毎野棟網を攻めた。海野氏は敗れて棟綱と子の幸隆は上野国に逃れ、関東管領上杉憲政に頼った。憲政は武田氏の勢力を佐久地方から排除し、海野氏を故地に還してやるために兵三千を率いて佐久に攻め入った。村上義清はこれを聞くと直ちに諏訪頼垂と武田暗信に急報し救援を求めた。諏訪頼重はさっそく兵を率いて小県郡に入り上杉陣に対した。しかし義清、晴信は頼重を助けようとしないので、頼重は単独に憲政と講和しそれぞれ領国に帰った。晴信は頼重が単独講和したことを怒り、諏訪郡に入り頼重を攻め滅し、続いて伊那、筑摩方面を攻めてこれを征服した。 『埴科郡誌』

●信州に進出した武田信玄は、上杉謙信の攻撃に備え、山本勘助に命じて永禄三年(1560年)頃に海津城(後の松代城)を完成させたようです。『甲陽軍艦』には、天文二十二年(1553年)に山本勘助が構築したとありますが、当時この辺りが武田氏の勢力下にあったことはなく、1555年(弘治元年)影虎、晴信が長く対陣した際にもこの城を利用した形跡はないそうです。
 信玄は重臣・高坂昌信を完成した海津城に置き、上杉謙信に対峙しました。第四次川中島合戦ではここに本陣を置き、有名な啄木鳥(きつつき)戦法で戦ったといわれています。武田氏滅亡後、織田信長の部将・森長可が城主となりましたが、本能寺の変後は上杉景勝の領するところとなりました。その後、豊臣秀吉から徳川家康へと政権が移り、家康は慶長五年(1600年)に森長可の弟忠政を入れます。忠政は城を改修して待城と改名したのですが、領地に過酷な総検地を行ったため農民の恨みを買いました。その後、松城と改名されました。
 慶長八年(1603年)、家康の六男・松平忠輝の領地となり。その後は城主が転々と代わりますが、元和八年(1622年)に徳川秀忠の命で上田城から真田信之が移封され、孫の幸道のときに松代城と改名されました。以後明治まで10代真田氏十万石の領地となりました。真田信之の霊屋は、城の西方の長国寺にあり、破風の鶴は左甚五郎作と伝えられています。

●寛保2年(1742)5代藩主真田信安の時の大洪水「戌の満水」の後の大規模な瀬直し(領民を守るためではなく、松代城を守るため)では、幕府に城普請の許可を得るとともに、一万両の拝借金を許されました。そのことが松代藩の財政を逼迫させ、領民に多大な辛苦を強いることになりました。

●幕末近くの8代藩主・真田幸貫(松平定信の次男で養子)は、佐久間象山などを起用して積極的な改革を行いました。黒船到来の折りには、小倉の小笠原とともに横浜の警護をまかされ、佐久間象山が赴いています。また、幕末の動乱期にはいちはやく勤皇方になり、奥州征伐などに奮戦。そのため新政府の受けがよく、明治政府で名をなした人が大勢出ました。信濃の士族で明治政府で成功した人が多いのは松代藩が第一で、次に高遠藩でした。慶応4年(1868)鳥羽伏見の戦いから端を発した戊辰戦争は、信濃国飯山にも起こりました。旧徳川幕府の歩兵差図役頭の古屋佐久左衛門という人物が、降伏に納得できず、開城に先立ち400人程の部下を率いて江戸を脱走、飯山藩に籠城。松代藩、上田藩、須坂藩、松本藩などと千曲川を挟んで戦闘となりました。飯山城下は7割が焼失したそうです。その後、信濃連合軍は、高田(新潟県上越市)の長州奇兵隊を主力とする軍、新井(新潟県新井市)の信濃連合軍、西大滝(長野県飯山市)の信濃連合軍の、合わせて3方向から北へ進撃し、長岡城の攻撃、会津若松城の攻撃などにも参加していきました。

1598 慶長3年・・・・・・・・豊臣秀吉は、奥州会津九十三万石の蒲生秀隆を、宇都宮十八万石に移し、上杉景勝をその後がまに据えました。
                 景勝の分国であった北信濃四郡には、海津城に須田相模守満親、長沼城に島津淡路守忠直、飯山城に岩井備中守信能、
                 牧島城の芋川越前守親正らが在職していましたが、これらの諸将にはそれぞれ新領地に配置を定め、その他の地士たちにも、
                 謙信以来の勲功に報ゆるために、それぞれ高禄を給しました。
                 海津城将だった須田満親に23000石、清野助次郎長範に14000石、その他西条氏、寺尾氏、大室氏らも優遇して禄を給せられました。
                 かくて北信濃の武士たちは妻子一族を連れて会津に移ったわけです。
                 その後家康に反旗を翻すも降伏。出羽米沢30万石に減封されました。
1863 文久3年・・・・・・・・真田幸教は幕府からイギリスの軍艦の警備を命じられます。
1864 元治元年・・・・・・・・公武合体派の佐久間象山が尊王攘夷派により京都の三条木屋町で暗殺されます。直後、松代藩は尊皇攘夷に固まりました。
1868 慶応4年(明治元年)・・戊辰戦争勃発。真田幸民は新政府軍として参戦。飯山、長岡、会津若松城攻めに参戦。勝利。3万石を拝領。

●真田幸貫は、文武を奨励しました。佐久間象山等の進言に基づき、藩主の子弟に文武の道を奨励すべく藩校の建設を計画しましたが逝去しました。その意志を継ぎ、9代藩主幸教公が安政2年(1855)に開校したのが、この近くにある「文武学校」です。東序、西序、正堂、柔、剣、弓、槍術所などが備わり、 ここでは、武術のほか、西洋の軍学なども教えられており、極めて先進的な教育が行われていました。また、儒教を廃しており、そのため多くの藩校に見られるような孔子廟を設けていないのも特徴です。原形をとどめている藩校としては日本唯一であり、全国的にも稀に見る貴重な文化財です。

●戊辰戦争(1968)当時、松代藩は日本有数の軍事力を持っていました。1872(明治5)年、上田城の東京鎮台第2分営より乃木希典少佐が、廃城の松代城と武器を受領すべく来迎。その時、「松代藩は大砲のみにて53門の多きに達し、他の10藩全部の兵器を合するといえども松代藩の足元にも及ばず」と言ったとされています。10代藩主・真田幸民と佐久間象山が最新の洋式装備化を進めたわけです(大砲の試し打ちで倉科の生萱から試射した弾が、一重山を超えて 満照寺まで飛んで大騒動になったという)。しかし、戊辰戦争への参加で財政は悪化。財政再建のため、1869(明治2)年、「商法社」という会社を設立、生糸・蚕種の生産・販売、午札(紙幣)の発行を始めましたが失敗。その穴埋めをすべく増税したために民衆が決起して「松代騒動(午札騒動)」が勃発。幸民も謹慎処分になりました。その後伯爵になっています。

●明治5年(1872)に廃城となった松代城は、城内の土地・建物を順次払い下げられ、桑畑として開墾され、建物も取り壊されました。また御殿が存在した花の丸は、同6年(1873)に放火され焼失してしまいました。松代城の建物で現存するのは、三の堀の外に建てられていた新御殿(真田邸)と、偶然にも放火前に町の有力者により移築された建物のみとなっています。松代城と新御殿(真田邸)は、昭和56年4月11日に「史跡松代城跡附新御殿跡」として国史跡に指定されました。長野市では平成7年から松代城環境整備事業として、総合的な史跡環境の保全と活用を目指し、門の復元、石垣の修復、堀・土塁の再現等を実施しており、平成16年春より一般公開されています。
また、新御殿も平成16年度から本格的な整備工事を開始するそうで、完成が待たれるところです。

●地元では、昔は松代城と呼ばずに長らく海津城と呼んでいました。廃藩置県で放火され焼け落ちた真田十万国の松代城より、川中島合戦の海津城のイメージの方が強かったのでしょうか。城内には松代城ではなく海津城の古い碑があります。戊辰戦争のための軍備増強と経済政策の失敗による増税などによる松代騒動の原因を作った真田幸民への反感もあったのかもしれません。
真田宝物館や文武学校、佐久間象山記念館・神社、真田邸などとあわせて見学されるといいでしょう。
(一部『清野小学校開校百年誌』より引用編集)

MORI MORI KIDS ■MORI MORI KIDS Nature Photograph GalleryI ■CAPINO CAPINO(C) in Tokyo Japan since 08.04.2003