| 海津城から望む戸神山脈・妻女山 2007.8.16 |
![]() |
| ●武田の別働隊は、唐木堂より戸神山脈に上り、大嵐の峰を巻いて鞍骨の南面の道を辿り、天城山から堂平、妻女山へ攻め込んだと云われています。 ある隊は、倉科に下りて土口から攻め込んだと思われます。(唐木堂は、実際はもうひとつ尾根の向こうですが、大嵐山へ登る道もあったようです) 眞武内傳附録(一)川中島合戦謙信妻女山備立覺には、「九月九日の夜、信玄公の先鋒潜に西條山の西山陰に陣す 」とあり、既に別働隊の先陣は夜襲に備えて西条の入か戸神山脈の中腹で待機していたということでしょう。 江戸時代の古地図には、唐木堂から戸神山脈を越えて坂城の日名へ抜ける道が描かれています。また、妻女山から天城山、鞍骨を巻いて戸神山脈を通り鏡台山までは、昔のひとはよく歩いたコースです。 現在調査中ですが、大嵐山は、倉科では杉山というと更埴市史には書いてあります。また戸神山脈は、大嵐山(977.5m)から戸神山(1185m・倉科では三滝山)を経て、鏡台山(1269m)へと続きます。 妻女山(赤坂山)は、柳の木の向こう側です。ご覧のように本当に低いところです。信玄が全軍を海津城へ移してからは、謙信は本陣を斎場山から陣場平に移したのではというのが私の説です。 |
|
■MORI MORI KIDS ■MORI MORI KIDS Nature Photograph GalleryI ■CAPINO CAPINO(C) in Tokyo Japan since 08.04.2003 |