松代招魂社 2007.8.13 
●ここは、『川中島の戦』甲信越戦国史の著者・小林計一郎氏も書いておられるように、正しくは妻女山の支山・赤坂山です。
●明治元年戊辰2月、朝命により信濃十藩の触頭を命せられ、2月東山道総督より大隊旗、錦の袖章を賜ります。4月関東脱走の幕軍林昌之助・近藤勇ら新選組・甲陽鎮撫隊が甲斐に侵入しようとしますが、真田幸民・大熊藩士を総隊長として兵750人で甲府を守らせました。4月24日幕軍の将古屋作左衛門が、長岡より信濃に入り、飯山城を囲みます。幸民は、河原左京を総隊長として、兵10300で進撃させ、25日に幕軍は大敗して敗走します。後にこの日を戦勝の日として松代招魂社の大祭が行われたわけです。9月24日には会津城が降伏。10月29日に松代に凱旋しました。各地に転戦すること90回以上、戦死者52人負傷者85人を出しました。そして、明治2年4月17日藩戦死者の英魂を妻女山頭に鎮座して松代招魂社としました。6月には、その功績をたたえられ三万石を賜っています。
●明治2年招魂社建立の折りに、石碑にもあるように松代藩知事・真田幸民により妻女山招魂社となります。しかし、同年幸民は、戊辰戦争による大出費を埋めるべく「商法社」設立。生糸・蚕種の生産・販売等始めるも殿様商売は大失敗。増税に民衆が決起し翌年「松代騒動(午札騒動)」勃発。幸民は謹慎処分になりました。明治4年7月には、廃藩置県で松代県に、11月には長野県となり、松代県は解体され幸民は解任。真田の松代支配は終わり、松代は政治の中心地でなくなるわけですが、赤坂山を妻女山としたのは、幸民の有難迷惑な置き土産だったようです。松代騒動を引き起こした失政のためか、明治6年には、放火により松代城は焼失してしまいました。一説には花街に建物が売られるのを嫌った元藩士が放火したともいわれますが、定かではありません。
●明治時代は、毎年4月25日(飯山に於いて戦勝の日)には、松代及び五ケ村の大祭が行われ、奉納花火、相撲、大神楽等が催され、在郷軍人の演習も行われましたが、その後まもなく廃止されました。現在は、秋の好日に奉参会を中心に遺族会や麓の各役の長が参加し、奉納花火や演奏、剣道の演舞、神楽なども行われていますが、多くの町民は祭のあることさえ知らないと思われます。
●明治2年招魂社並びに戦没者の石碑を建立、明治13年拝殿を修繕、明治29年社殿の傍らに一大石碑を建立、明治44年5月18日社務所を建立、合わせて松代、寺尾、東条、西条、清野、雨宮の一町六ケ村により日清・日露の戦没者を祀る忠魂碑を建立、盛大に除幕式が行われました。

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