千曲川堤防から望む斎場山(妻女山) 2007.8.13 
●この位置からのカットで、斎場山(旧妻女山)が天城山から陣馬平、妻女山(赤坂山)の尾根上にはないことが、よく分かると思います。また、松代から見ると尾根上にあるように見えるのも想像できると思います。富士山のような独立峰は別として、山は見る方向によって全く姿を変えてしまうのが普通です。天城山左のピークは、陣場平上の天城山手前のヤセ尾根です。天城山は、その尾根の向こうから顔を出しているのです。
 赤坂沖近くの千曲川堤防から。ここまで来ると陣場平や天城山(てしろやま)がよく見えます。天城山の左のピークは、天城山と陣場平をつなぐヤセ尾根で、とても大群は通れません。天城城は、城というより砦程度のものだったと思われます。
 但し、このヤセ尾根の岩の上は、海津城が手に取るようによく見えるところなので、偵察にはうってつけの場所だったかもしれません。
 武田別働隊は、一度堂平に下りて陣場平に駆け上がったものと思われます。また、隊を分けて倉科や土口の方面からも攻め込んだのではないでしょうか。
 本陣というものは、全軍の動静を一望にできる場所に設営するというのが常道ですから、茶臼山や千曲川対岸の横田に信玄がいる時は、斎場山が本陣としては最良の場所でしょう。
 海津城に信玄全軍が入った折りには、謙信はより望見の効く陣場平に本陣を移した可能性もあります。
 『信濃史料叢書』第四巻 川中島合戦謙信妻女山備立覺に「千ヶ窪の上の嶺に於て四方の雲気を考へ」とあるので、本陣はそのままに、陣場平へは偵察に赴いただけなのかもしれません。
 同じく『信濃史料叢書』に、「甲陽軍鑑に妻女山を西條山と書すは誤也、山も異也。」と書かれていますが、西條山とは狼煙山(下の舞鶴山に西条城があった)、あるいは高遠山のことであり、にしじょうやまと読みます。
 当地では西条は、にしじょうと読み、さいじょうと読むことはありません。おそらく口述筆記の際の誤記でしょう。よって妻女山は西條山であるという古文書の記述は全て間違いです。
 また、妻女山は近世の呼び名で、当時は斎場山と呼んでいたと思われます。つまり「さいじょざん」ではなく、「さいじょうざん」。そこで西條山と間違えたのでしょう。

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