妻女山(斎場山) その2 2007.8.13-16

●夕飯の野菜を少し収穫。正面は斎場山(旧妻女山)。現在の妻女山(旧赤坂山)は左の尾根の先端部になります。

●5:43 妻女山の麓でブルーベリーの収穫。戦国時代、もちろん招魂社はなく、単に赤坂、或いは赤坂の上、赤坂山と記されています。

●7:43 801(延暦20)年、征夷大将軍、坂上田村麻呂が正法寺と号した清水庵地蔵堂を岩野に建立しました。この夜は、そのお堂を訪れました。世話人の祖父から歴史を聞く孫達。地蔵堂は愛称で、観音像が安置されているので本来は清水庵観音堂でしょうか。
 
●8月15日 午後8:20 夕涼みに千曲川の土手に出ると遠花火とペルセウス座流星群が見えました。写真は斎場山のシルエットと長野電鉄河東線の電車のヘッドライト。
松代城(海津城)と妻女山招魂社 2007.8.16

●12:31 真田公園から見える大嵐ノ峰(戸神山脈)。
 
●長野電鉄河東線の踏切を越えて海津城へ。往時はこの辺りも城内だったそうです。子供達は、象山神社近くの「沙羅寿庵」で600gの山のような大盛り蕎麦を食べて満腹。

●太鼓門前橋から見る尼厳山(左)と奇妙山(右)。
 
●太鼓門前橋から仰ぎ見る三角のノロシ山。左に地蔵峠と右に高遠山。

●太鼓門前橋から見る大嵐ノ峰(戸神山脈)鞍骨城から見る武田別働隊の動き
 
●北東には、上杉謙信が妻女山布陣の時に越えたといわれる可候峠(ソロベクトウゲ)が見えます

●海津城の北西にある戌亥魯台から南、象山と戸神山脈。尚、象山は、象がふせた形なので、本来は臥象山といいます。

●同じ場所から南東、本丸跡と太鼓門、三角のノロシ山。

●1:19 甲州流築城の模範になったと云われる山本勘助の手による海津城。元は清野氏の館だったとも云われています。
 
●1:40 妻女山(赤坂山)展望台へ。毘と龍の旗がはためいていました。おもちゃの刀を持った小さな男の子が駆け上がって来るなり「敵の旗だ!」(笑)山梨県人でしょうか。

●妻女山(赤坂山)展望台より望む川中島。あれほどいたオオムラサキは、影も形もありません。尚ここは謙信本陣ではなく、甘粕近江守、或いは直江山城守が布陣したと伝えられています。謙信本陣(床几塚)は、拡大パノラマ写真を。★斎場山、茶臼山パノラマ
 
松代招魂社。破風造拝殿。幕末、実は松代藩は日本有数の軍事大国でした。幕軍飯山城籠城の際、信濃諸藩観望して動かぬ中、幸民が13000の兵を進撃させたのです。戊辰戦争には勝ちましたが、松代の民は疲弊しました

●松代招魂社の色褪せた題字。軍事演習も兼ねた埴科郡合同の大祭は、大正時代初めまでで、父の話では昭和の初めにはもう廃れていたようです。現在は、秋の好日に奉参会を中心に遺族会や麓の各役の長が参加し、奉納花火や演奏、剣道の演舞なども行われています。
 
●実は格子の中を覗くともう一枚招魂社の額があるのですが、そこには、真田幸民ではなく「滋野幸民書」と書かれているのです。我こそは清和源氏の末裔滋野一族なりという想いがあったのでしょうか。若くして松代藩・松代県の首長となった養子幸民は、動乱の世で何か己を高める威光が必要だったのかもしれません。戊辰戦争では大勝し、新政府に貢献をしましたが、松代騒動で謹慎となり、松代県が長野県に吸収されるにあたりその地位を失います。やがて主のいなくなった松代城は、放火され焼け落ち、桑畑や町屋に変わりました。

●「藩戦死者の英魂を妻女山頭に鎮座して松代招魂社と称す。」と長野県神社百年誌にはあります。「長野県信濃国埴科郡清野村字妻女山鎮座」とあります。確かに小字は妻女山なのですが、地名は赤坂山。小字が妻女は岩野側になります。字が妻女山、妻女とつくところは、この斎場山(妻女山)を中心に、陣場平から赤坂山までとなります。
 
●2007年9月9日に行われた招魂社の祭の模様。奉納花火が2発打ち上げられ、ハーモニカのグループ演奏があり、小学生の剣道の模範演技が行われました。昨年は、岩野の神楽も奉納されました。しかし、市民の多くは、この祭の存在さえ知らないと思われます。

●斎場山古墳のある頂が、斎場山であり、妻女山の起源であるということは、麓の岩野集落の古老達はみな知っているようですが、それが地図に記載されていないことや、妻女山を赤坂山へ持って行かれてしまった経緯などは知らないようです。赤坂山は、既に100年以上妻女山で親しまれているので、今更改称する必要もないと思われますが、斎場山の記載はしてもらいたいと思います。歴史有る地名は大切にしたいものです。   ●斎場山(旧妻女山)も妻女山(旧赤坂山)も、この地の産土神である信濃国造の妻女・会津比売命にまつわる聖地ということを松代藩も心得ていて、善光寺地震罹災者慰霊碑や妻女山松代招魂社をここに建てたものと思われます。また、ここには松代藩の射撃練習場があったらしいのです。招魂社南の山の斜面からは数多くの鉄砲の弾が出土します。この招魂社の辺りから南の山腹に的を立てて射撃練習をしたようです。戊辰戦争の訓練をここでしたのでしょうか。
妻女山の位置と名称についての特集ページ。(3D画像3点・大正時代の絵はがき1点・古地図3点)

▲特集ページでは、本当の妻女山とその歴史。上の3D画像の拡大版もご覧いただけます。画像をクリック!
■信濃国の起源と斎場山
 シナノは、古来シナヌであった。漢字が入り科野となり、713年の『風土記』(和銅六年)以降、地名に二字好字をあてよとの命により信濃となる。『古事記』中巻に「神八井耳命(みわのやいみみのみこと・かむやいみみのみこと)者科野国造等之祖也」とある。また、大国主命の次男・健御名方命(たけみなかたのみこと)の諏訪入国に際し「科野国之洲羽海」に至るとある。
 科野の語源については諸説有るが、江戸時代の国学者・賀茂真淵(かものまぶち)は『冠辞考』で「名義は山国にて級坂(しなさか)のある故の名なり」と書いている。確かに北信には、更級・埴科を初め、倉科・保科・仁科・蓼科など科のつく地名が多い。古語において科や級とは、段差のことであり、信州の古代人々が住んだ扇状地や河岸段丘は、坂や段差が多い。また賀茂真淵は「一説には志那と云木あり、・・・ここ科野という国の名も、この木より出たるなり。」とも書いている。谷川士清(たにがわことすが)の『日本書紀通證』には「科の木この国に出ず」とある。シナとは、アイヌ語で結ぶとか縛るの意味である。柔らかく撓(しな)ればこそ結べる。シナノ木は、丈夫でよく撓る。信濃に多く、古来樹皮を加工してロープや古代織物の科布として使われた。
 また、地面が撓ったものが坂である。シナノとは、級坂(しなさか)の多き地の意か。また、科野の国は、千曲川に沿って平坦部がしなしなと撓って続く地でもある。
 更に、シナとは、鉄に関連する言葉ともいわれている。信濃の枕詞は、「みすず刈る」だが、すずとは葦や茅の根元に付着している褐鉄鉱のことだという。みは葦や茅の生える水の意か。または、御すずか。すずは鈴であり、水中に含有される鉄分が沈澱し、鉄バクテリア(沼などに石油を流したように漂う)が自己増殖して細胞分裂を行い、固い外殻を作ったもので、振るとカラカラ音がするものがある。鍛鉄は、薄くするとよく撓る。とすればシナノとは、鉄出(いずる)野か。鉄バクテリアの写真
 信州には、「ずく」という方言がある。「ずくなし」とか、「ずくを出せ」とか、「ずくを止む(已む)」とか、「小ずくがある」とか、「大ずくを出せ」とかいう。標準語で適当に言い換えられる言葉がないが、大凡面倒くさがらずにやる気持ちとか、気力とかいう意味。この「ずく」だが、広辞苑にもある言葉なのに語源は載っていない。これは間違いなく初出かと思うが、私は、以前から「銑(ずく)」のことではないかと思っている。上記の「みすず刈る」と同じく「たたら」の古語に由来するものである。古代の製鉄、たたらは、渡来人のもたらしたものといわれているが、相当に高度で手間のかかる面倒くさい作業だったらしい。現在まで、鋳物には「和銑(わずく)」という手法が伝わっている。そこから大変な想いをして「銑(ずく)を出す」ということから比喩として、「ずく」という言葉を使うようになったのではないかと考える。信州には、「うんこをまる」とか、古事記に記載されるような古い表現が残っている。一考の価値はあるのではないだろうか。
 このように、シナノに関しては多説有るが、いずれが起源か定かではない。或いは、複合的なものかもしれない。
 科野国の範囲は、弥生時代から更級・埴科を中心とした千曲川流域であり、後に信濃国より諏方(訪)国の分離独立(721)再合併(731)などを経て、905年(延喜5年)醍醐天皇の命により藤原時平・藤原忠平が編纂し、967年(康保4年)より施行された『延喜式』には、巻22の民部省上の中に、「凡諸国部内郡里等名 並用二字 必取嘉名」とあり、全国の地名が変更された。このとき、信濃国は伊那(いな)・諏訪(すわ)・筑摩(つかま)・安曇(あずみ)・水内(みのち)・高井(たかい)・埴科(はにしな)・更級(さらしな)・小県(ちいさがた)・佐久(さく)の10郡で成り立つ。信濃国は東山道の一国であり、等級は上国であった。
 斎場山は、科野国の国府が埴科にあったかもしれないとされる古代(その後小県に移る)天神山祗を祀る聖なる霊場。信濃国造(しなののくにのみやつこ)が袷祭した重要な場所であったと伝わる。また、平安時代になってからも、大穴郷・磯部郷などの重要な斎場であったと思われる。土口将軍塚・斎場山古墳・坂山古墳・堂平古墳群・笹崎山古墳・北山古墳などがある。
 雨宮廃寺と雨宮坐日吉神社、笹崎山(一名薬王山)政源密寺と會津比賣神社の関係など、仏教が伝来し、盛んになった大和・奈良時代から、平安時代における菅原道真の建議による遣唐使の廃止により神道の隆盛と国風回帰、それに伴う寺社の盛衰等が、此の地でもあったと思われる。
 『日本三代実録』貞観四年(862)三月の項に三月戊子(廿日)信濃国埴科郡大領金刺舎人正長(かなさしのとねりまさなが)・小県郡権少領外正八位下 他国舎人藤雄等並授、借外従五位下 とある。里俗伝によると、埴科郡の郡司の筆頭・大領の金刺舎人正長が大穴郷にいたということである。同じく『日本三代実録』によると、会津比売については、貞観8年6月甲戌朔条 (866)授信濃国無位武水別神従二位 無位会津比売神 草奈井比売神並従四位下 とある。会津比売命(あいづひめのみこと)は、会津比売神社御由緒によると建五百建命の妻とされるが、諏訪大社祭神建御名方命(たけみなかたのみこと)の次男熊野出速雄命(くまのいずはやおのみこと)の妻女ともいわれる。定かではない。森将軍塚古墳が建五百建命の墳墓、土口将軍塚古墳が会津比売命の墳墓とも云われる。また、天城山の坂山古墳が出速雄命の、斎場山古墳が会津比売命の墳墓という説もある。いずれも定かではない。今後の調査研究が待たれる。
参考文献:『更埴市史』『松代町史』『長野県町村誌』『会津比売神社御由緒』等
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