妻女山と斎場山 その1 2007.8.13-16
 8月13日(月)-16(木)、風林火山で賑わう八幡原史跡公園や海津城、妻女山ですが、さすがに最高気温35〜7度の猛暑では、妻女山展望台に訪れるひともまばら。今回は、妻女山に登るだけでなく、その周辺も散策してみました。海津城も訪れました。夜の千曲川畔の散歩では、ペルセウス座流星群が見られたのも収穫でした。

 なにより静かで涼しく良かったのは、森将軍塚古墳の麓にある「長野歴史博物館」の閲覧室(図書館)でした。

■星印
のある写真をクリックすると拡大します。パノラマ写真は重いのでご注意ください。
●清野氏の要害・鞍骨城の鞍骨山と天城山登山は、07年12月31日のフォトルポをご覧ください。武田別働隊の経路を推察してみました。

■本当の妻女山については、★妻女山の位置と名称についての特集ページをご覧ください。

妻女山パノラマ 2007.8.13

●5:36 早朝、千曲川の堤防から見る斎場山(旧妻女山)(中央の頂)。左に妻女山(赤坂山)、右に薬師山(笹崎山)。★704k山座同定

●5:44 千曲川の堤防から見る斎場山(旧妻女山)と月見草。 ★816k(上の写真より東、松代寄り)

●5:33 南の尾根には土口将軍塚古墳
 
●5:51 次男は所謂「飯前仕事」で祖母と草取りと野菜の収穫。
妻女山・鞍骨山麓周遊サイクリング 2007.8.13

●12:55 千曲川の堤防から見る斎場山(妻女山)。気温34度。★816k山座同定

●高速道路が無かった頃の良き日の斎場山脈。★1983年5月3日好日撮影

●12:57 茶臼山を後ろに見ながら千曲川の土手を快走。茶臼山に隠れて見えるのは、神話の山・虫倉山。
 
●前方には金井山。冬には遠く笠ヶ岳や、夜になると志賀高原のスキー場の灯りが瞬いて見えます。

●1:05 長野電鉄河東線の踏切を越えて清野小学校へ。校門手前を右折すると妻女山表参道。右手正面が妻女山(赤坂山)。清野小学校の敷地には、弥生時代の四ツ屋遺跡があります。
 
●妻女山散策路の看板と風林火山の旗が。妻女山は謙信の陣地ですから風林火山はないだろうと息子達。確かに上田では風林火山の旗だらけでしたが、一歩坂城にはいると、村上義清の里とあり、風林火山の旗はひとつもありませんでした。小学校の校歌にも歌われている村上義清ですからね。戦国の遺恨今に至るか…。

●妻女山山頂(411m)までは8分。自転車を担ぎ上げようともくろんだのですが、この先あまりのヤブで断念。表参道なのだから草ぐらい刈ってあると思ったのですが…。

●妻女山は諦めて清野小学校を抜けて、宮村の大宮神社へ。

「清野村の産土神にして大国主命と健御名方命(タケミナカタノミコト)を祀り鎮座の地を宮村という。草創の年代等沿革を知るべき史料を有せぬが寛永の塊鑑に依れば元は諏訪大明神と称し、後に大宮神社と改めたのである。」
出典:『松代町史』下巻 昭和4年4月30日発刊

●清野小学校から、大里、宮村、会田、鳥見塚と山裾を辿り、大村沖まで来ました。見上げる798mの鞍骨城。

●清野から望む鞍骨山、天城山、陣場平、妻女山(赤坂山)パノラマ。★918k山座同定

●1:26 迷路のような大村の小路を彷徨ってやっと「眞高山林正寺」に到着。気温35度。

「東西十二間三尺、南北十四間、面積五畝二十五歩、浄土宗森村興正寺末派なり。村の西南の方にあり。創建年月不詳。里俗伝に南北朝の頃、右大辨(弁)信廣本村に謫せられ(左遷され)、卒(死)するの後廻国の僧某本村に来たり、信廣菩薩の為該寺を創建すと云う。後大破に及び僧遍阿再建す、故に中興開山とす。此時興正寺の末派となる。
出典:『長野県町村誌』第二巻東信篇 昭和11年発行
 
●昭和27年に長国寺から移築した松代藩2代藩主・真田信政の霊屋が本堂に転用されています。 そのため六文線の印が。通りで立派なわけです。

●清野出身の名女優・松井須磨子の演劇碑があり、この日も参拝者が訪れていました。この後、清野氏居館跡の古峰神社に寄ろうかと思いましたが、あまりの暑さに断念。戻ることにしました。
 
●蓮池から見上げる鞍骨山。
●清野氏の要害・鞍骨城の鞍骨山と天城山登山は、07年12月31日のフォトルポをご覧ください。

●燃えそうに暑い!
 
●1:37 武田信玄が戦勝を祈願して再興したと云われる「大里山風雲庵」。静かさや脳に染み入る蝉の声。信濃三十三番観音の4番目札所。

●1:47 会津比売神社表参道入口気温36度。もちろん展望台に人影は無し。
 
妻女山(赤坂山)ハイキング 2007.8.14

●3:44 有志を引き連れて妻女山(赤坂山)へ。まずは会津比売神社に参拝。
 
●謙信槍尻の泉からひかれた手水鉢で清めてから。春秋の祭には参道が出店で溢れ、参拝の善男善女で賑わったものです。

●保食命(ウケモチノミコト)。伊邪那岐神と伊邪那美神の子のひとりで、食べ物の神様。天照大御神が、保食命の口に繭を入れて糸を引き出したことから、養蚕が生まれたということで養蚕の神様でもあります。口から次々と食べ物を出したといわれますが、「口から出した汚いものを食わせるのか」と怒った月読神に斬り殺されてしまった哀れな神様です。
 
会津比売神社は大きな神社だったらしいのですが、上杉方についたために、武田が北信濃を支配したときに焼き払われ、その後小さく再建されたそうです。上杉謙信が庇護したという会津比売神社は、一説には山上(龍眼平)にあったといわれています。
『日本三代実録』に、貞観8年6月甲戌朔条 (866) 無位会津比売神に従四位下を授くとあります。

●ボタンヅル。
 
●「上杉謙信槍尻之泉」。飲用不可とありますが、自己責任で飲む分には一向に構いません。上に人家も無く、村の人は山仕事の時には飲んでいます。江戸時代には、謙信の霊水として賑わったそうですが、いたって普通の軟水です。

●展望台を見上げながら赤坂の尾根を回り込むと妻女山(赤坂山)。この道は信号で6分おきに交互一方通行になります。大型車不可。下に車を置いて登っても10分です。歩きましょう。
 
●新しい看板ができました。以前のものよりはマシですが、往古は赤坂山というとか、本当の妻女山(斎場山)の記述は相変わらずありません。西條山という誤記が消えただけでも進歩かな。

●毘と龍の旗がはためく展望台。清野からヤブの表参道を汗びっしょりで小さな女の子と登ってきたお父さんがいましたが、岩野側から車で来られると話すと車を回しに行きました。清野側にそういう説明の案内板が無いので間違われる方がいるようです。

●4:16 展望台から。左が本当の妻女山(斎場山)。何組かの観光客がいたので、斎場山を教えてあげました。行きたいという方がいましたが、オオスズメバチのことを話し諦めてもらいました。
夏の北アルプスパノラマ 冬の北アルプスパノラマ

妻女山展望台より見た北アルプスと戸隠。上の写真をクリックで拡大表示。
■「国土地理院の数値地図25000(地図画像)『松代』」をカシミール3Dにて制作。

●妻女山(赤坂山)招魂社。松代藩(藩主真田幸民)が、1868(明治元)年の戊辰戦争で明治政府軍として、幕軍と戦ったときの戦没者を祭った社で明治二年建立です。瓦には真田の六文戦の紋が記されています。その功績を受けて、松代藩からは、多くの人が新政府に重用されました。
 
●後背の本殿。
「戦死者の石碑は明治二年の建立にして石の玉垣をめぐらし、拝殿は明治三十三年修繕し、社務所は明治四十四年五月十八日に建立したのである。また明治二十九年社殿の傍らに一大石碑を建立した。」
出典:『松代町史』下巻 昭和4年4月30日発刊

●その建立当時に植えられた落葉松が一本現存します。
 
●南から招魂社を見たところ。中央左が最古の落葉松。実はこの時オオムラサキの乱舞を見ました。戦い合っては天空に登り急降下し、時にはツバメさえ追いかけていました。この辺りの山にオオムラサキがいるのは知っていましたが、こんなに大量に見たのは初めて。まさに妻女山の死闘を見たという感じでした。★招魂社の祭り

●上の写真は、私が所有する大正時代の絵葉書。赤坂山(妻女山招魂社)の南から北を撮影した写真(社務所が無いので撮影は明治43年以前)。おそらく4月25日の春の大祭の模様だと思われます。大正時代までは松代周辺の合同の大祭で、花火を打ち上げ、舞楽の奉納があり、剣道、相撲の奉納試合が行われ、多くの露天も並び、善男善女の参拝者で賑わったそうです。軍事演習も行われたとか。上の写真の落葉松は、左に見える二本の右側と思われます。左側は昨年の台風で倒れてしまいました。

●5:30 本当の妻女山(斎場山)を見ながら山を下ります。
 
●暑さも少し和らいできました

●斎場山をバックに、長芋畑の小径を辿ります。早朝は、長芋の花のハッカの香りに包まれます。
 
●斎場山に向けてではなく、長芋畑に散水中です。場合によっては一晩中灌水します。

●絵のような夕日。右奥が茶臼山。
 
●涼風が頬をなでていきます。
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