| 妻女山の位置と名称について 2008.05.5更新 | ||||||||||||||||
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「妻女山は往古赤坂山であった! 本当の妻女山は斎場山である」 ・・・これほど歴史に翻弄され、数奇な運命を辿った低山があっただろうか。・・・ 妻女山は、その本来の名称と位置について、誤った通説が広く浸透しています。 地元でも、その歴史を詳しく知る人は少なくなり、千曲川を越えるとほとんどの人が知らないというのが現状です。 この事実に大いに危惧を抱き、研究を始めました。地元で「本当の妻女山」と呼ばれてきた「斎場山」は、 地形図において現在名無しという憂慮すべき状況です。(Google mapでは誤って薬師山と記載。訂正申請済み) 国土地理院の地形図に、「斎場山」を記載してもらうべく、現在活動中です。 詳細な図や説明は、リンク頁に載せました。合わせて是非ご覧ください。 ------------------------------------------------------------------------------------------- ■お断り:最近Wikipediaに妻女山の項目が掲載されましたが、私は全く無関係です。 まず、一行目から完全に間違っています。また、斎場山を天上というとか、地元でも数人しか知らない情報が載っているため、 このサイトを無断引用したものと思われます。出典引用元も全く記載されていません。著作権法及びWikipediaの規則にも違反しています。 更に記載の間違いも数カ所見られますが、私は修正・削除以来等関わるつもりは全くありません。ご了承下さい。 ■長野郷土史研究会会誌「長野」6月号に私の「妻女山の真実」という約8000字の文章が掲載される予定です。お申し込みを。 新たにこの冬の妻女山トレッキングルポをアップしました。村誌にある斎場山への険路を登りました。必見です。 ★「上杉謙信妻女山布陣想像図に文化年表を更新。★「妻女山字図・妻女山の地図への記載と変遷」は必見。地元ならではの情報。 ●12月30日の斎場山トレッキングルポ。斎場山への険路踏破。●1月4日の斎場山トレッキングルポ。+海津城・象山神社。 ■この頁には、いかなる政治的、思想的、宗教的な意図もありません。歴史的事実のみを探究します。 また、新たな史実や誤りがあった場合などには、予告なく書き換えられる場合があります。更新は頻繁に行います。ご了承下さい。 ■この頁の記載事項に関しては、いかなる保証をするものでもありません。この記事へのリンクは自由です。無断転載・流用は不可です。 個人利用のプリントは可。但し著作権を放棄したものではありません。 商用利用・報道利用・再配布の場合は、必ずご一報ください。放送・出版企画・ゲーム化大歓迎。 ■ご質問・ご感想・原稿等のご依頼・取材のお申し込みなどは、CONTACTのページからメールで、お願いいたします。 ◆文・画像:林 盛幸(妻女山を庭として育った妻女山研究家・長野郷土史研究会会員) |
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| ■本当の妻女山(さいじょざん)は、斎場山(さいじょうざん)である。 | ||||||||||||||||
現在、国土地理院の地形図に記載されている標高411mの妻女山は、本来は赤坂山といい、本当の妻女山の支尾根にある頂である。本当の妻女山は、それより15〜20分ほど南西に登った、標高513*mの円墳(斎場山古墳)のある頂である。頂上から東西に伸びる尾根を含めて斎場(妻女)山脈という。西の支尾根に標高437.7mの薬師山(笹崎山)をもち、東の支尾根に現妻女山(赤坂山)をもつ。妻女山は、往古斎場山といい、祭場山となり、妻女山となる。妻女山の位置と名称については、諸説あるわけではない。江戸時代以前まで妻女山とよばれていた本来の妻女山(本名は斎場山、妻女山は俗名)513mと、江戸時代以前は、赤坂山、または単に赤坂と呼ばれ、明治2年松代招魂社建立後から妻女山と呼ばれるようになった現妻女山411mがあるだけである。それ以外に地元で妻女山と呼ばれた山は存在しない。*標高:513.155m 山頂標柱より ●右の写真は、斎場山(本来の妻女山・上杉謙信本陣跡・俗称:床几塚・謙信台・龍眼塚・御陵願塚)。山頂に円墳がある(個人の私有地)。 |
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| ■妻女山の場所と名称の混乱はなぜ起きたか | ||||||||||||||||
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| ■妻女山に関する記述(旧字は、表示不可なものは新字表記) | ||||||||||||||||
| ●『千曲之真砂』 「土口村、此村のうへ小道にさし出たる山あり、その昔川中島合戦の時、上杉謙信の本陣西條山なり」 出典:『千曲之真砂』巻之九 国中駅路間道行程 瀬下敬忠記 宝暦3(1753)年の国中駅行程の矢代より松代へ 解説:これは斎場山のことを指していると思われる。或いは、薬師山のことか。斎場山は、その山頂で笹崎と妻女と北山とに地名が分かれるので、外部の人にはなかなか理解できないだろうと思われる。妻女山ではなく西條山と記している。下にある旅人用の絵地図では、赤坂山ではなく、本来の山頂を妻女山としている。しかし、江戸中期には、既に赤坂山と妻女山の混同も見られる。上杉景勝の赤坂山布陣と混同しているむきもある。天城山(てしろやま)を妻女山とした絵地図も少なくない。それをそのまま写して解説している歴史研究家もいるため、更に混乱に拍車がかかるのが現状。 ●『信府統記』 「妻女山は清野村・岩野村の辺より上る土口村の南東なり、この山の西の麓に妻女の宮という小さき祠(ほこら)あり故に言う」 出典:『信府統記』松本藩編纂 宝暦9(1759)年の埴科郡境記 引用:「松代文化財ボランティアの会」のサイトより 解説:土口村の南東にあるのは、天城山(てしろやま)である。明らかに間違い。恐らく実際には妻女山に登らずに伝聞だけで記したのであろう。江戸から来た場合、北国街道(北国脇往還)は、上田から矢代(屋代)を抜けて篠ノ井の追分宿、善光寺へと通じる。妻女山のある松代方面は、谷街道で別ルート(東脇往還・松代道)なので善光寺参りの旅人は、特別な用事がなければ寄らなかったと推察できる。川中島から妻女山脈を見ると、後背の天城山や戸神山脈の前に重なって判別しにくい。 天城山を妻女山と勘違いして表記している絵地図も少なくない。 ●『甲越信戦録』 「招魂社は、妻女山の中腹にあり岩野村に跨る」 出展:『甲越信戦録』文化7年(1810)以降に川中島の人間によって書かれた作者不詳の戦記物語。 解説:三代将軍徳川家光が上杉家家臣に命じて書かせた『甲越信戦録』(『川中島五戦記』)を主軸として、『甲陽軍鑑』、『武田三代記』、『北越軍記』、『本朝三国志』等の12通の版木本と、『川中島評判記三巻』、『諸家見聞記二十巻』等の写本に加え、地元川中島地方の口伝をもとにして執筆された。俗名「妻女山(さいぢょやま)」という記述は、ここで初めて見られる。 ●『府県町村誌』 「永禄四年上杉謙信、祭場山の陣より南降…」(雨宮古渡の項) 「祭場山というが古誌にいう西条山は誤り、近俗作となる妻女山は尤(もっと)も非なり、...この山の山麓に 岩野・清野両村あり、岩野は斎野、清野の古訓は須賀野(菅野)共に祭祀潔斎に因あり」「祭場山は埴科郡領の斎場祭壇を設けて、郡中一般祭祀(さいし)したる所」(土口村の記録斎場山の項) 出典:『府県町村誌』明治7(1874)年、明治新政府の命により全国各村の詳しい実勢実態調査がにまとめられた。 引用:「松代文化財ボランティアの会」のサイトより 解説:西条山は、当然はっきりと否定している。「近俗作となる妻女山」という記述は、赤坂山を妻女山と改称したことを述べているのであろうか。赤坂山が妻女山となれば、土口から妻女山が無くなってしまう。また、妻女山という山頂が主峰と支山とふたつあるのはおかしい。憤るのは当然である。但し、「近俗」が江戸時代後期まで遡るのであれば、妻女山という俗名そのものに非を称えているのである。また、「斎場山」ではなく「祭場山」と記してあるが、斎場という言葉を忌み嫌って祭場とめでたい文字にしたのだろうが、建五百建命が袷祭した重要な場所と知らぬ愚人の作と思われる。いずれにしても、「祭場山」も江戸時代の創作と思われる。 ●『清野村誌』 「招魂社は、妻女山の中腹にあり岩野村に跨る」 引用:『清野小学校開校百年誌』 出典:『長野県町村誌』第2巻東信篇 昭和11年発行 調査:明治13〜15年 解説:つまり招魂社のある場所は、妻女山山頂ではないということ。 ●『実録甲越信戦録』 「御大将謙信の本陣妻女山(さいぢょやま)[甲陽軍鑑に西條山と有、西條山は別にあるなり]」 出典:『実録甲越信戦録』西沢喜太郎編 長野:松葉軒出版 明治16年発行 解説:文化7年(1810)以降に書かれた作者不詳の『甲越信戦録』を元に再版したもの。 ●『岩野村誌』(旧岩野村から長野県に報告) 「明治初期には、円形の祭祀壇凡四十九箇あったという。信濃国造(くにのみやつこ)、続いて埴科郡領が斎場・斎壇を設けて、郡中一般が袷祭(祖先を会わせ祭る)した処といわれ、旧蹟も多く認められるが、その詳細は定かではない。」 「斎場山と称するいわれは、山麓に『会津比売神社(あいづひめじんじゃ)』があり、信濃国造健五百建命の妻女といわれる、諏訪大神の後裔『会津比売命』が祭神であるところから。国造の妻女を斎き祀るということからこの称がおこったと思われる」 引用:『清野小学校開校百年誌』(出典:『岩野村誌』) 解説:国造(くにのみやつこ)とは、地方を支配させるために、大和朝廷が有力者に与えた身分。 科野国造健五百建命については、『國造本紀』に、「神八井耳命の孫の建五百建命(健磐龍命)を、第十代崇神天皇の御代、科野國造に定め賜はった」と記されている。後に科野大宮社を創祀する。二人の子供あり、兄の速瓶玉命(はやみかたまのみこと)は阿蘇国造を賜る。弟の健稲背命(たけいいなせのみこと)は科野国造を賜る。1996(平成8)年、会津比売神社新社殿建立の折りに「妻女権現」と記された木札が確認されている。斎場山と会津比売命の関係を示すものとして興味深い。往古会津比売神社は斎場山の山上にあり、斎場山古墳、或いは土口将軍塚が、会津比売命の墳墓であるという伝説ともつながる。ここでの斎場山は、斎場山古墳のある頂のことであり、現妻女山(赤坂山)のことではない。 ●『更級郡誌』 明治35年5月皇太子殿下行啓の際、松代役場が台覧に供した「甲越合戦図」によると、妻女山は、ほぼ513mの斎場山の位置にあり、謙信陣地と書かれ、411mの妻女山は赤坂山と記されている。また、そろべく多田越は旧谷街道にして後役の時謙信の来路と書かれている。(下の図を参照) 出典:『更級郡誌』 解説:皇太子殿下行啓に際し、いい加減な説明をするわけにもいかないであろうから、相当に古史の勉強をしたであろう。調べれば妻女山(斎場山)の位置は自ずと分かる。 ●『松代町史』 【妻女山】 松代町を距たる十数丁の西方埴科郡清野村に位置し往古信濃国造が天神地祇を祀りたる所なれば斎場山と書すべきであると主張する者もある。又山上に古墳多くして中に前方後円の一大古墳あり。山麓に会津比売神社あれば信濃国造の妻女会津比売を葬れるものなるべく従って妻女山と書くべきが至当であると論ずる者もある。果たして何れが是なるや知るべからずらずといえども、川中島合戦の当時上杉謙信が陣営を設けし古戦場として著名である。山上よりは川中島の平野を俯瞰し、海津城の動静を伺察するに便利なるを以て謙信は此山に陣営を設けたのであろう。甲陽軍鑑には西條山と誤り記されてある。妻女山の支山赤坂山の招魂社には明治戌辰の戦役に従軍し勤皇の為に働きて戦士を遂げたる松代藩の士卒五十二名の霊を祀れるものにして社殿の傍らに山縣元帥の撰文にかかわる記念碑あり。また日清日露の両役に戦士せる一町六ヶ村将卒の忠魂碑乃木将軍の揮毫する所である。その外弘化四年の震災に横死せる者の為に自然石の供養塔が建てられてある。また明治三十五年五月大正天皇の未だ皇太子にあらせられたる時御見学の為め御登山遊されたる御遊覧所に御手植の松がある。 出典:『松代町史』上巻 昭和4年4月30日発刊 解説:おそらくこの町史も、明治7年と13〜15年の調査を原本として記されているのだろう。妻女山の支山赤坂山の招魂社と書かれている。妻女山が円墳のある場所ということは、分かっているようだが、「山上に古墳多くして中に前方後円墳の一大古墳あり。」としているのは、薬師山(笹崎山)辺りも妻女山に入れているということ。実際は笹崎という地名だが、斎場山を中心に、東の赤坂山から西の薬師山までを妻女山脈ともいうので誤りではない。ここでいう清野村とは清野村岩野のことである。ここでいう妻女山は、現在の妻女山(赤坂山)のことではなく、往古の妻女山(斎場山)のことである。 ●『長野市誌』 「妻女山(西条山、または赤坂山ともいう)」 引用:「松代文化財ボランティアの会」のサイトより 解説:西条山は『甲陽軍鑑』の誤記、西条山を、そのままなぞったにすぎず、古史の研究もしていないようであり問題外の記述。赤坂山という記述は注目すべきである。しかし、行政区分が、合併により岩野村から清野村、松代町、長野市と大きくなるに連れて妻女山の記載が怪しくなってくる。合併の弊害であるとするなら残念。昭和47年の地形図改訂の際に、赤坂山を妻女山とし、本来の妻女山(斎場山)を測量もせず名無しのままに放置した国土地理院と長野市の当時の担当者の見識の浅さが誠に遺憾である。 ●『景勝一代略記』『信濃史料』 1582(天正10)年7月上野国から佐久郡を経て小県郡に侵入した北条氏直は、小県方面の諸士に服属を求めた。その勢の強大なのを見て、真田昌幸をはじめ祢津、望月氏など氏直に臣属を約した。武田氏の旧臣であった春日弾正忠は、先に上杉景勝に属して海津城将として在城していたが、北条氏直の小県侵入によって、武田氏の旧臣の多くがこれに従ったので、真田昌幸と密かに通じ、氏直を川中島方面に引入れ景勝と戦わせ、自身は海津城から氏直に呼応して景勝に叛き、氏直に勝利を導こうとした、しかしこれは事前に発覚して、弾正忠は捕えられ殺された。このとき景勝は氏直の川中島出陣に備えて海津城を出て清野鞍掛山(鞍骨山)の麓赤坂山(現在の妻女山)に陣したとも伝えられている。 引用:『清野小学校開校百年誌』1986年開校百年記念 出典:『景勝一代略記』『信濃史料』 *天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん):1582(天正10)年から甲斐・信濃・上野で繰り広げられた徳川家康と北条氏直の戦。上杉景勝と北条氏政が川中島四郡支配を争った際に氏政は、子氏直と弟氏照に信濃の勢力拡大を命ずる。★鞍骨城登頂記はこちら。 ●『長野県町村誌』第二巻東信篇【岩野】「本村古時磯部郷(*和名抄にあり)に属す。里俗傳に斎野村たり(斎場山は本村起源の地ならんか)延徳の頃(1489〜1491)上野村と名す。寛文六年(1666)岩野村と改称す。附言、里俗傳に、往古斎場山に會津比賣神社あり。土地創々神にして土人の古書にも當郷に深き由縁ある神にて、貞観中(859〜877)埴科大領、外従五位下金刺貞長の領地たり。蓋其際官祭の社にして、郡中一般祭典を施行せしものか、今に至り斎場山の麓に斎場原と称する地あり。此地字を以て村名を斎野村と称せしなるべし。」(岩野村についての記載) 解説:「里俗傳に、往古斎場山に會津比賣神社あり。」に注目。御陵願平辺り、或いは、陣場平辺りにあったのだろうか。発掘調査が待たれる。御陵願平は、明らかに二段に整地されている。畑作のためにこのようなことはしない。陣場平も人工的に平に整地されたような様子と古い石垣が残る。 山 【妻女山】高及び周囲未だ実測を経ず。村の南の方にあり。嶺上より界し、東は清野村に属し、西南は土口村に属し、北は本村に属す。山脈、南は西條山に連り、西は生萱村の山に接す。樹木鬱蒼。登路一條、村の南の方山浦より登る。高二十一町、険路なり。渓水一條、中間より発す。細流にして本村に至りて湧く。 解説:南へ天城山、鞍骨山、戸神山脈を辿ると西條山(ノロシ山)に続く。「樹木鬱蒼。登路一條、村の南の方山浦より登る。高二十一町、険路なり。」とは、外部の人には、まずどこか分からない記述である。これは、岩野駅南の山裏(山浦)から前坂を登って韮崎からの尾根に乗り、斎場山(妻女山)へ登る急な山道のこと。養蚕が盛んな時代は、数十キロの肥料を背負ってこの道を登ったという。現在はほとんど登る人はいないが、この記述により妻女山は斎場山であったということが分かる。西南は土口という記述からも明白。本当の妻女山がどこかが、これで証明される。「渓水一條」とは上杉謙信槍尻の泉のこと。 古跡 【斎場山】本村の南より東に連り、祭祀壇凡四十九箇あり。故に里俗傳に、此地は古昔国造の始より続き、埴科郡領の斎場斎壇を設けて、郡中一般袷祭したる所にして、旧蹟多く遺る所の地なり、確乎たらず。(注:斎場山から御陵願平、土口将軍塚古墳にかけての記述) 【上杉謙信陣営跡】 本村南斎場山に属す。永禄四年(1561)九月此処に陣すること数日、海津陣営の炊烟を観、敵軍の機を察し、夜中千曲川を渡り、翌日大に川中島に戦うこと、世の知る所なり。山の中央南部に高原あり、陣馬平と称す。此西北の隅を本陣となし、謙信床几場と云あり、今誤って荘厳塚と云う。(注:陣馬平から斎場山にかけての記述・南より東に連なりとは、字妻女・妻女山のこと。) 出典:『長野県町村誌』第二巻東信篇 昭和11年発行 調査;明治13年 岩野戸長窪田金作氏への聞き取り調査より 解説:以後町誌市誌県誌のほとんどは、この報告を元に記されているようだ。[山]妻女山と[古跡]斎場山と記載があるが、同じ山頂のことである。妻女山が赤坂山のことであれば、土口とは境を接しない。[古跡]上杉謙信陣営跡も同じ山頂であり、謙信床几場とは、床几塚のことである。謙信台ともいう。これらの実際は同じである山を別であるかのように分けた記述が、混乱の元かもしれない。但し、記述している項目は、[山]と[古跡]であり、各々の示す範囲は、それぞれ微妙に異なるが、山頂は同じである。斎場山の地名は、天上であり、地元では御天上という。 陣営跡を「本村南斎場山に属す。」とあるが、「本村、南斎場山に属す。」ではない。「本村南、斎場山に属す。」である。南斎場山などという地名はない。 同じく「誤って荘厳塚という。」とあるが、荘厳塚は正しくは土口将軍塚古墳のことであり、郷土史家・米山一政氏(故人)が研究の先駆者である。 「山の中央南部に高原あり、陣場平と称す。」という記述により、斎場山を起点として南に陣場平があるということが分かる。「西北の隅」は、もちろん斎場山である。 『和名抄所載郷名』では、岩野は「磯部郷」「松井ノ郷」、生萱村の報告では、土口と一緒に「大穴郷」に入れられている。大穴山とは、森将軍塚古墳の山である。また、雨宮、森、倉科、生萱、土口、岩野を合わせて「生仁(オフニ)郷某の里」という説もあると記してある。オフニは、大穴の訛りであり、生萱はオフガヤであって大谷、または大峡谷の意味である、とある。大穴は、多穴でもある。多くの古墳群のことを指す。金刺とは、阿蘇大宮司の阿蘇氏と祖を同じくし、科野国造、建五百建命(健磐龍命)の後裔であり、諏訪郡の郡司及び諏訪下社大祝を世襲する。 *和名抄=和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)931〜938年(平安時代中期)の間に作られた辞書。「倭名類聚鈔」「倭名類聚抄」とも書かれる。 ★右上の写真をクリックすると、1948年に撮影された妻女山の航空写真の拡大ページが開く。現在と違い畑が多く、陣場平などの地形がよく分かる。信濃国の起源も記載。 ★岩野の歴史については、岩野村管轄沿革を参照。 ●『長野県町村誌』第二巻東信篇【清野】 古跡 【妻女山】(又赤坂山と云う)本村西の方にあり。宝暦(1751)初迄該山(ガイザン)を経て土口村に至る道路あり。(道路中峠あり)往古千曲川山麓を巡りしに、後洪水にて変換し、遙かに北の方川路となる。今に至り往古の渡し場に至るの道形を存す。又渡し場水主の宅跡、網掛松等存す。里俗傳に延暦中(801)、坂上田村麿奥州夷族征討の際、本國にも亦賊徒起りしを聞き、田村麿来たりて該山に陣を占め、千曲川を隔てて賊徒と戦い、討って之を滅ぼすと云う。(按るに田村麿奥州の賊征伐の際、本國に来たり賊徒を滅せし事、該記に見えず後人の参考を待つ)永禄四年(1561)八月上杉謙信、軍一万三千を率いて来たり、該山に営陣を設け、九月九日武田信玄、海津城に在り、其臣山本道鬼が謀に従い、軍を分けて二隊とし、一隊は謙信の本陣を衝き、一隊は川中島に備え、以て謙信の帰路を待ち、前後より挟み撃たんとす。謙信海津城に炊煙の二度に立つを見て信玄の兵を二隊に分ちたるを知り、夜中密に軍を牽いて川中島に来たり、翌十日激戦して大に武田氏の軍を破る。時に妻女山に向いたる、甲軍馳せ来て千曲川を渡らんとす。甘粕近江守清長川の北岸に陣して之を防ぐ、遂に甲軍川を渡って越軍の陣後を衝く、越軍敗走す。宝暦八年(1758)千曲川路を穿ちて北に転ず。故に此の戦場今耕地となり、字を河原新田と云う。(妻女山についての清野村の記載) 出典:『長野県町村誌』第二巻東信篇 昭和11年発行 調査;明治15年 清野戸長;志津助之丞氏への聞き取り調査より 編集人;太田忠八郎、近藤方休 解説:該山というのは、赤坂山を指す。象山と共に広州桂林にある地名だが、清野をそこに見立てたものか。岩野、土口では該山とは呼ばない。該山は、京都など日本全国にある。信濃にも上山田や松本にある。或いは、該(まさにその)山、つまり妻女山(赤坂山)という意味か。文脈や他の頁の記述を見ると後者のようである。宝暦初めまで土口に至る道路ありとあるが、斎場越しのことである。昔も今もその道はあり、消失したことはないはず。この文は意味不明。赤坂山と薬師山を混同した記述も見られる。道路中峠ありとは、斎場山東の赤坂山と天城山への分岐の峠(東風越)を指す。ここでいう妻女山は、赤坂山を指す。聞き取り調査は明治15年、招魂社建立後なので不思議はない。しかし、付図の埴科郡清野村図では、妻女山は斎場山辺りを指している。清野の頁に本来の妻女山(斎場山)の記載がないのは、妻女山が岩野と土口の境にあり、清野にはないからである。清野は越、大村が中心であり、妻女山から離れているため関心が薄いのかもしれない。甘粕隊と甲軍の戦場を河原新田と記しているが、これは現在の清野小学校と松代PAの間である。つまりこの辺りを千曲川が流れており、猫島の渡、猫ヶ瀬があったということ。猫島という地名も残る。★「妻女山字図」参照 ●『信濃宝鑑』中巻 【妻女山】 まことは斎場山なるべし、上古県主及び郡司(或は田村将軍東夷征伐の際とも云ふ)などの天神地祗を祭れる壇上の意ならん。今岩野・清野・土ロの三村に跨りて峠立せり、即ち、岩野は、斎野(いはひの)・清野は須賀野にて清く須賀須賀しき野の意なるべし、然して土ロは祭壇への登りロの意ならん。現今、古墳やうのもの多きは、皆祭壇にてこれ穿てば祭器古鏃*を出だすを以ても上古の斎場たる事知る可きなり、後永禄年中甲越合戦の際上杉謙信の陣を張れる処たり。 出典:『信濃宝鑑』中巻 (株)歴史図書社 昭和49年8月30日刊 初版明治34年。 解説:妻女山が本来は斎場山であると記している。「三村に跨りて峠立せり」とあるのは、現妻女山から斎場山へ登り、天城山へとの分岐の峠(東風越)のこと。斎場越しの中間点である。厳密には岩野村と清野村の境は、もっと東。田村将軍とは、坂上田村麻呂のこと。*やじり ●『信濃史料叢書』第四巻 眞武内傳附録(一)川中島合戦謙信妻女山備立覺* 上杉謙信は村上が頼に依て、武田家と鋒を争う事数度、斯て永禄四年八月十六日、上杉が軍中山八宿を越え、海津城西妻女山へ人数を引揚げ備を立て、武田家の変易を待つ、其備立記、 一赤坂の上、甘粕近江守陣場也。 一伊勢宮の上、柿崎和泉守陣場也。 一月夜平、謙信が従臣多く是に陣す。 一千ヶ窪の上の方、柴田道壽軒が陣也。 一笹崎の上薬師の宮、謙信本陣也。 此下東風越と云う所あり、其下北にをりて十四五間行て水あり。 暫く是に陣し、武田家海津の城を攻め欲し、守ること堅して、同九月九日、謙信軍慮謀計の気を察して、千ヶ窪の上の嶺に於て四方の雲気を考へ、陣場々々を巡見せらる。其後夜の中に猫の瀬(横瀬也)を経て犀川の際まで引退。(唐猫、之は土口瀬と云、坂の下也、今より千曲川七八うまひ、町も北へよりて流る也。)猫ヶ瀬を往昔は龍王の渡と云、甲陽軍鑑に雨の宮の渡とあり、是唐猫の瀬の事也。斯て甲府へ此事注進す。信玄公八月十八日甲府を立て、同廿四日猿ヶ馬場麓、桑原の村迄着陣、龍洞院の上の上に宿陣を為す。同廿五日有旅の北の嶺茶臼山へ陣を移さる、廿九日信玄公廣瀬の渡を越て海津の城へ引入らる、今の陣之瀬と云は古の廣瀬の渡なり。同九月九日の夜、信玄公の先鋒潜に西條山の西山陰に陣す、信玄公兼て八幡原に陣を居えらる、然るに謙信は其気を察し、九日夜中に犀川際へ陣を移す、十日未明より朝霧深きに紛れて、信玄公本陣へ車掛りせらる、西條山陰に陣す諸将、十日の朝妻女山へ押上るに、いつしか是を引退て川中島へ陣す。此合戦に武田家名有る勇士悉く討死す、されども遂に越兵敗れ退く、甲兵追討ちて勝閧をつくりて人数を引揚たり。此戦に昌幸公は信玄公の旗本に属して強敵とかけ引、信玄公の急難を救給ふ、(時三十八歳。)戦場の様子かけ引の次第、季き事は之略す。甲陽軍鑑に妻女山を西條山と書すは誤也、山も異也。 出典:『信濃史料叢書』第四巻 1913(大正2)年編纂全五巻 眞武内傳附録(一)川中島合戦謙信妻女山備立覺 解説:『真武内伝』は、松代藩士竹内軌定による真田氏史書。附録は 柘植宗良編纂。成立は江戸時代の享保16年(1731年)頃。物語性が強いが、地元だけに地名の記述は正確と思われる。また、当時大流行していた人形浄瑠璃・歌舞伎による荒唐無稽に脚色された川中島の戦や、木版本により増刷された『甲陽軍鑑』の誤記に対する地元としての検証の意味もあったのかも知れない。 「笹崎の上薬師の宮、謙信本陣也」とあるのは、斎場山古墳から薬師堂までの長尾根を指しているのであろう。茶臼山と千曲川対岸の御幣川(おんべがわ)と会(あい)、横田を望見するに最適の場所である。陣場平の位置からは、斎場山と長尾根が邪魔になり、後に信玄の軍が布陣する茶臼山や千曲川対岸が見えない。そんな所に本陣を構えるはずがない。 「此下東風越と云う所あり、其下北にをりて十四五間行て水あり。」東風越とは、斎場山の東、岩野と土口の間の峠のこと。北に下りて水有りとは、謙信槍尻之泉のこと。 「千ヶ窪の上の嶺に於て四方の雲気を考へ」とあるのは、やはり信玄全軍が海津城に入ってから、謙信は本陣を斎場山古墳上から、陣場平へと移したということか。千ヶ窪の上の嶺と記され、妻女山と記されていないことに注目すべきである。或いは、本陣はそのままに、海津城がよりはっきりと望見できる陣場平、或いはその上のヤセ尾根の岩場へ偵察に行ったということだけなのかもしれない。検証を要する。陣場平は、大きく二段に分かれており、東西に古い石垣が残る。 「九月九日の夜、信玄公の先鋒潜に西條山の西山陰に陣す 」とあるが、既に別働隊の先陣は夜襲に備えて西条の入か戸神山脈の中腹で待機していたということであろう。また、この記述で、西條山が妻女山ではなく、狼煙山のことであるということが分かる。西條山が正式名称で、狼煙山は、武田信玄由来の俗称である。同様に妻女山も、俗称である。 「謙信は其気を察し、九日夜中に犀川際へ陣を移す 」とあるのは誤記というわけではなく、犀口から南流し、千曲川に流れ込む犀川支流のことであろう。岩野の千曲川対岸には古犀川という地名がある。 また、最後に「甲陽軍鑑に妻女山を西條山と書すは誤也、山も異也。」とはっきりと記されている。前述の通り西條山は、狼煙山のことである。*備立(そなえだて・陣立て) ★右上の写真をクリックすると、『甲越信戦録』による上杉軍の布陣想像図、『妙法寺記』の第四次川中島合戦の記述翻訳、川中島の戦と文化のページが開く。 ●地名の変遷 『埴科郡の時の人名名簿(地区の名士)』初版昭和14年 付属の地図は、大正元年測量の5万分の1地形図と同様。なおこの地図には、昔の地名の呼び方が記載されている。 『和名抄所載郷名』(938年)→『東鑑(文治二年)所載庄名』(1186年)→『明治初年編町村志ニ表ハルノ村名』(1868年) (必ずしも各時代の範囲が正確に一致するものではない) 「英多郷」→「英多庄」→「松代」(松代・東条・西条・豊栄)松代はまた海津(貝津)の里ともいわれた。 「イソベ郷」→「縣の庄」→「清野」 「大穴郷」→「大穴庄」→「雨宮・生萱・土口・森」 「倉科郷」→「倉科庄」→「倉科」 出典:千曲市在住K氏所有書物『埴科郡の時の人名名簿(地区の名士)』より 「磯部郷」(里俗齋野)→「縣の庄」→「上野村」(延徳の頃・1489年から1491年)→「岩野村」(1666年・寛文六年改称) 出典:『長野県町村誌』第2巻東信篇 昭和11年発行 調査:明治13〜15年当時の岩野区長窪田金作氏への聞き取り調査より 「斎野」→「松井の郷」→「縣の庄」→「藤沢の里」→「岩野」 出典:平成八年五月十二日 長野市松代町岩野 笹崎山(一名薬王山)政源密寺 信徒総代 翻案記述岩野区長より抜粋。 「科野国(しなののくに)」(古事記上巻国譲りの条)→「信濃国」713年(和銅6年) 解説:科野国は、雨宮辺りを中心として南は上田、北は善光寺平まで。つまり、埴科と更級が信濃の国の始まりである。そして、斎場山は科野国の中心に袷祭の場として位置していたと云う。信濃国として統一されたのは大化改新後まもなくとされ、伊那(いな)・諏訪(すわ)・筑摩(つかま)・安曇(あずみ)・水内(みのち)・高井(たかい)・埴科(はにしな)・更級(さらしな)・小県(ちいさがた)・佐久(さく)の10郡で成り立つ。岩野は、往古斎野であり、斎場山が名称の起源と思われる。もう一つ、日本の各時代の人口というものも考慮しなければいけない。戦国時代は、およそ1000万人弱、古墳時代は500万人弱といわれている。弥生時代初頭から古墳時代を経て奈良時代にかけて(1000年以上)、日本の人口は渡来人の移住、彼らがもたらした稲作と鉄器の発達により、約50万人から500万人ぐらいに増えたといわれている。それが信濃の集落の形成に大きな影響を与えたと思われる。 ●『川中島の戦』甲信越戦国史妻女山(松代町長野電鉄又はパス岩野下車) 松代と屋代との間、長野電鉄岩野駅の南にそぴえる山である。山上に古墳があり、また旗塚と称せられる小円墳がたくさんある。永禄四年謙信が本陣をすえた所であるという。妻女山の支山赤坂山には招魂社があり、ふつうこの赤坂山を妻女山と言っているが、本当の妻女山は地図に見えるとおり赤坂山より高い山であり、赤坂山と笹崎山はその支山である。なお、妻女山の西方には鞍骨古城がある。清野氏の要害であり、きわめて巨大な山城で、いまなおいくつものくるわや石垣が残っている。 出典:『川中島の戦』甲信越戦国史 小林計一郎著 長野郷土史研究会発行 昭和34年発行44年改訂十版 解説:小林計一郎氏は、大正元年測量の地形図の妻女山の位置を、斎場山古墳のある頂としている。また、同書116Pの「川中島の戦のようす>五 永禄四年の激戦>妻女山・海津城の対陣」の写真に「海津城から見た妻女山(○印)」とあるが、○印は、斎場山の上にある。岩野駅の南にそびえる山という記述が、はっきりと斎場山の位置を示している。笹崎山は、現在の薬師山のことである。旗塚は里俗伝では、上杉謙信が妻女山を下りるときに旗を埋めた塚と云われているが、実際は古墳時代の県主、郡司を祀った斎場祭壇である。尚、この書は川中島の戦を知る上においては、現在最良の書であるといえる。改訂版が有限会社龍虎より発刊され川中島古戦場八幡原の売店龍虎で入手できる。 ●『長野県神社百年誌』 松代招魂社を祀る 長野県信濃国埴科郡清野村字妻女山鎮座 官祭 松代招魂社 「明治二年己巳四月十七日藩戦死者の英魂を妻女山頭に鎮祭して松代招魂社と称す」 出典:『長野県神社百年誌』昭和39(1964)年 長野県神社百年誌 昭和39年12月20日発行 解説:妻女山頭という記述に注目。山の用語で頭(アタマ)とは、主峰に至る枝尾根や沢の源頭にあたる隆起をいう。山を人の躰にたとえてアタマとかカタとかいうが、頭はカシラという場合もある。つまり妻女山頭と書いた場合、妻女山山頂ということではなく、主峰に至る支山の頂という意味になる。本来の妻女山(斎場山)の位置を知らぬはずはないので、妻女山の(支尾根の)頭という意味で記したのだろう。字妻女山の頭という意味である。しかし、字名が妻女山だからといって、それが妻女山山頂を示すわけではない。地名は赤坂山である。さらに妻女山・妻女という地名は、この山塊に複数存在する。尚、招魂社本殿内部の額に真田幸民は「真田幸民書」ではなく「滋野幸民書」と記している。清和源氏の流れを汲む滋野の末裔であるという威光を借りたものか。赤坂山ではなく、妻女山という名称に拘ったのも名将謙信の威光を借りたかったのかも知れない。しかし、このことが後に誤った通説を広める元となる。 ●日本歴史地名大系第20巻『長野県の地名』1995年 平凡社刊 妻女山は、西條山(土豪・西条氏の支配地の関係)である。 解説:『甲陽軍鑑』の誤記を鵜呑みにしたこの記述は完全に間違い。妻女山と西條山は、全く別の山である。西條氏は、村上支族・清野氏の分派である。1495年(明応四)清野伊勢守長続(伊勢守国基か)の頃、英多庄(松代、東条、西条、豊栄)を支配していたことが記されている。読みはにしじょうであり、さいじょうではない。西條山は、『信濃史料叢書』にも記されているように西條にある狼煙山のことであり、妻女山のことではない。武田晴信は、1553年(天文二十二)正月から、村上義清攻略の準備を進め、信濃各地の諸将に密かにその意図を伝えた。清野勝照の弟信清、子の清重は武田氏に服し、信清は西条に移り西条治部と称し、信玄から更級郡の原、今里の地を宛われた。西條氏が治めたのは西條、及び川中島であり、岩野や土口ではない。その後も西條氏が岩野を治めた歴史的事実は全くない。妻女山は、古代科野の国の斎場山に起源を持つものである。★清野氏と戦国時代参照 |
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| ■妻女山の岩野の伝承 | ||||||||||||||||
| 1 斎場山古墳の土地の持ち主(岩野在住)が、代々513mの古墳が本来の妻女山であると言い伝えてきた。地元では、ほとんどの人が伝え知る事実である。昔は正確な山の地図など無いのだから、代々連綿と語り継がれてきた地元の伝承の持つ意味は重い。しかし、妻女山が本来は斎場山であるということは、地元でもほとんどの人が知らないのもまた事実である。それ故、斎場山を広め、地形図に記載することが重要と考える。 ------------------------------------------------------------------------------------------- 2 会津比売神社から招魂社、土口の見える峠まで林道建設(昭和30年頃)した折りの岩野の責任者、上原氏の孫が、祖父より、図面を見て招魂社のある場所は江戸時代までは、妻女山でなく赤坂山であるとの言質を得ている。林道建設に関わった岩野の者は、父以外はすべて故人である。父は、411mは赤坂山であり、本当の妻女山は円墳の頂と言っている。また、妻女地籍に山を所有している。 ------------------------------------------------------------------------------------------- 3 明治初期には、円形の祭祀壇凡四十九箇あったという。(それはどこに行ってしまったか。 父の話では、明治後期に麓に塚掘り六兵衛なるものがいて、盗掘を重ね酒にかえて飲んでしまったという。塚掘り六兵衛こと北山六兵衛については、更埴市史に記述がある)何より戌の満水により、手がかりとなる村の重要な古文書等が、流失してしまったのが悔やまれる。 ------------------------------------------------------------------------------------------- 4 その昔、岩野の地は松井の郷、縣の庄、藤沢の里と称し、西は笹崎山をもって土口に境し、東は赤坂山をもって清野に接しており、山並の姿は鳥が翼を広げたようであった。 解説:山並み中央の斎場山(妻女山)の記載がないのが残念だが、この頁最下部のパノラマ写真をご覧いただければ、この記述の意味が分かるであろう。 引用:平成八年五月十二日 長野市松代町岩野 笹崎山(一名薬王山)政源密寺 信徒総代 翻案記述岩野区長より抜粋。一部校正。 ------------------------------------------------------------------------------------------- 5 513mの本来の妻女山(斎場山)は、戦前までは岩野にあった「荘厳山正源寺」の所有であったが、後継者がなく、戦後廃寺となったため、岩野のある人が買い現在に至る。尚、正源寺本堂は篠ノ井御幣川の太平観音堂として寄進されたが、2005年8月24日未明に全焼した。 ●荘厳山正源寺(注:荘厳山とは、土口将軍塚古墳のある山のことで荘厳塚という。) 東西三間四尺二寸(24.3m余)、南北十九間三尺(35.4m余)、面積反別五畝十七歩一分五厘(5.6a弱)。真宗、西京本願寺末派なり。村の午の(南)の方にあり。創建年月不祥。上野(群馬県)の知了なるもの、往昔同国戦争の際当地へ移住す。往古は村の戌亥(北西)の方一町(百余m)許、字芦原沖(小字寺屋敷)にあり。寛保二(1742)年壬戌八月二日、千曲川の水災に罹り、堂塔流亡依て今地に再興す。出典:明治13年『岩野村誌』 ------------------------------------------------------------------------------------------- 6 1996(平成8)年、會津比賣神社新社殿建立の折りに「妻女権現」と記された木札が確認されている。斎場山古墳と会津比売命の関係を示すものとして興味深い。往古会津比売神社が斎場山の山上にあり、土口将軍塚古墳は会津比売命の墳墓であるという伝説がある(斎場山古墳という説もあるが、天城山の坂山古墳と共に土口将軍塚古墳より後期のものである)昭和59年12月20日に記された『會津比賣神社御由緒』には、信濃国造・建五百連命の妻であり、現神社より三丁余り南の山腹に二神の住居があったと伝えられると記している。また、雨宮坐日吉神社(あめのみやにいますひえじんじゃ)の三年に一度の春季大祭(御神事)においては、清野氏の屋敷があったとされる海津城内へ移動して踊る「城踊り」が奉納された。その際、周辺の寺々を巡り、清野の「倉やしき」、岩野・土口などといった旧家で踊りも奉納していたと云う。雨宮の御神事の「橋がかりの踊り」は、沢山川(生仁川)の「斎場橋」で行われるが、斎場橋は、郡司が雨宮から斎場山へ参る際に渡る橋としての命名かと思われる。往古斎場山の表参道は南であり、そのため祭壇への登り口の意味で土口という地名があると云う。會津比賣命の墓については、「神社の上、斎場山脈の頂上の西方にある、荘厳塚と称する所の御車形山稜が命の墓なり」と記されている。斎場山脈の頂上こそが、斎場山である。★會津比賣神社御由緒参照 解説:斎場山→祭場山→妻女山への山名の変遷については、地元に古代科野の歴史も知らず斎場という言葉を忌み嫌った者がいたのではないかと推察される。 しかし、祭場山は余りにも当て字にすぎるし軽い。妻女山では読みが変わってしまうし、創作が過ぎるような気がする。両者ともに江戸時代の創作と思われる。 |
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| ■妻女山の地図への記載 ★地図に関しての詳細は、「妻女山字図・妻女山の地図への記載と変遷」の頁を参照。 | ||||||||||||||||
| 1 江戸時代末期の絵地図には、妻女山は、斎場山の位置にある。現在の妻女山は、単に赤坂と記されている。薬師山は、薬師堂と記されている。また、雨宮渡シ、犬ヶ瀬、十二ヶ瀬、広瀬ノ渡(原文まま)は、今ハナシと記されている。(絵地図1 注:江戸時代にあるはずのない松代大本営跡が記載されているので、出版時に一部加筆されている。)また、同じ頃に善光寺町の仁龍堂花川真助という人が発行した川中島古戦場案内図でも、妻女山は、斎場山の位置に記され、謙信本陣となっている。薬師山の記載はないが、赤坂山は、赤坂と記されている。大嵐山の記載はないが、「カラキ堂ヨリ上ル」の記載が見える。 解説:少なくともこれら複数の史料(信濃史料。信濃史料叢書・信濃宝鑑・絵図)と伝承により、江戸時代中期までは、妻女山は斎場山のことであったと断言していいだろう。 (絵地図2 注:武田別働隊が辿ったとされる長野市松代町西条入の字森野の唐木堂の谷を戸神山脈へ登るルート。江戸時代の古地図には、坂城の日名へ通じる古道の記載がある。西條村の森野に唐木堂の地名あり。その北側が大日影、さらに北が大嵐である。) 引用:『川中島の戦』甲信越戦国史 小林計一郎著 長野郷土史研究会発行 昭和34年発行44年改訂十版 同書掲載図『甲越川中島合戦陣取地理細見図』仁龍堂花川真助発行 ------------------------------------------------------------------------------------------- 2 大正元年(1912)測量の5万分の1地形図(陸軍参謀本部陸地測量部)にて「妻女山」と表記。まずこの地形図に重大な誤りがある。妻女山の山の文字のすぐ左に古墳のある斎場山があり、そこを指しているのであるが、斎場山山頂は測量されておらず、すぐ下に標高546mの測量点の表記があり、誤解される原因となった。位置は、斎場山の南東標高530mあたりのコブ。岩野では陣馬平と呼ぶ場所の脇。現在は林道が越えている。546mの場所は、実際は530mあまりで、山頂に相当するピークは存在しない。しかも印は、山頂の三角点ではなく、測量の標高点にすぎない。現地には標石もなく、昭和35年(国土地理院発足)改訂版の地図からは、その点さえ無くなっている。また、天城山から赤坂山への尾根がきれいに見える海津城から見ても、546mのピークは確認できない(存在しないのだから当然)。地元でそこを妻女山と呼んだ事実は一切無い。もしここが妻女山とすると、妻女山は土口と清野の境にある山となり、岩野からは全く見えず、斎場山の麓の村故に斎野(いわいの)から岩野になったという往古の伝承と矛盾する。これは、妻女山の起源も知らぬ外部の者が、大正時代測量の誤った地形図を鵜呑みにしたものであり、地元にとっては甚だしく迷惑なことである。妻女山が斎場山を起源とするかぎり、本当の妻女山は、斎場山古墳のある場所以外にはない。 解説:確かに妻女山は円墳のあるところに間違いないが、妻女山或いは妻女という地名があちこちにあるのは、謙信の布陣にちなむものであろう。しかし、妻女山本来の名称・斎場山とはなんの関係も縁もない。軍記に陣場平を謙信の本陣としたという記述は見られないし、ここを妻女山と記した古文書も伝承も全く無い。現妻女山には、『妙法寺記』や『甲越信戦録録』によると、直江山城守が布陣したようである。上の写真でも分かるように、546mとされた陣場平辺りには、山頂と呼べるピークは無い。また、海津城から見た場合、斎場山は陣場平から妻女山への尾根上にあるように見えるが、実際は峠(東風越)を挟んで約400m尾根の向こう側にある。これが誤解を生んだ原因のひとつだろう。 ------------------------------------------------------------------------------------------- 3 昭和47年の2万5千分の1地形図作成の際、長野市に地名等の確認を行い現在の表記となる。つまり招魂社のある、地元では古来妻女山ではなく赤坂山と称している411mのところ。この時点で既に招魂社建立以降、約100年に渡って地元でも地名・赤坂山を字名をもって妻女山と呼んでいたので、間違いではないが、問題はその時に本来の妻女山(斎場山)を名無しにしてしまったことである。その時点で測量し、三角点を置き、「斎場山」と記載していれば現在のような混乱は起こらなかったはずである。いずれにせよ、このことにより斎場山は忘れられ、赤坂山が陣馬平となり、謙信本陣と現妻女山の古い看板には堂々と誤りが記されていた。現在の看板も不完全なものである。前記のように、上杉景勝の本陣、赤坂山との混同もあるかもしれない。いずれにしても現在まで至るこの表記が、全ての誤解の元になっていることには変わりはない。赤坂山を妻女山として第四次川中島合戦の話を進めていくと、全てが誤ったものになってしまうのである。大手出版社の書籍やムックでも、この間違いが非常に多い。 以上・国土地理院地形図参照(2と3の地図に関しては、国土地理院に問い合わせ、資料を得たもの。) ------------------------------------------------------------------------------------------- 4 平成6年7月1日発行の更埴市(現千曲市)遺跡分布図(更埴市史第一巻古代中世編)付図によると、古墳のある513mの頂きに妻女山と記されている。しかし、招魂社の場所にも妻女山と記されている。後者は現在の地形図に則ったものであり、前者は古文書や伝承に基づいた記載であると思われる。一般に妻女山塊という場合は、赤坂山(現妻女山)、薬師山(笹崎山)の両支山を含み、南は陣場平辺りまでをいう。ときに斎場山脈(妻女山脈)ともいう。 ------------------------------------------------------------------------------------------- 5 妻女山に関する字名・地名を調べると、斎場山(頂上辺りの地名は天上)を頂点として赤坂山の尾根筋を境に、岩野側が字妻女、清野側が字妻女山となっている。さらに、妻女・妻女山という字以外にも妻女という地名がある。細かな地名は、地元の古老でないと知らないものである。岩野村の字では、山裏(浦)という字に妻女・赤石・前坂、妻女という字には天上・ノケダン・舟窪という地名が見られる。そして、天上こそが斎場山であり、地元では御天上という。清野村の清野山には、妻女山という字に赤坂山・チゲ窪・稲荷山・妻女という地名がある。斎場山はひとつだが、妻女山については、謙信が陣地としたところを清野と岩野がここも妻女だ、ここも妻女山だと江戸時代に勝手に命名したと推察される。地名はともかく字名は、明治になってつけたものかも知れない。岩野と清野の妻女と妻女山という字名の付け方も非常に便宜的なものである。但し、妻女山が斎場山を起源とするかぎり、本当の妻女山は、斎場山古墳のある場所である。長野県地名研究所の『長野縣町村字地名大鑑』によると、斎場山古墳の場所に、妻女山と記されている。 ★右の地図をクリックすると、「妻女山字図・妻女山の地図への記載と変遷」が開く。地名の詳細はこちらを。 ■「国土地理院の数値地図25000(地図画像)『松代』を使用。 参考文献:『長野県町村字地名大鑑』長野県地名研究所 昭和62年11月3日刊 ------------------------------------------------------------- 6 次期修正時に、古墳のある513mを「斎場山」と地形図に記載してもらうよう準備中。加えて、歴史的に重要な天城山、鞍骨山、大嵐山、戸神山等についても記載してもらうことを考えている。 (注:例えば同じ地形図でも、例えば東京の高尾山から奥高尾などは、小さな山名はもちろん小さな峠まで詳しく記載されている。しかし、信州の低山は、ほとんど山名の表記がない。これは、歴史研究家やハイカーのみならず、地元の歴史や自然を守り伝えていく上で非常に大きな障害になる。斎場山を初め、天城山・鞍骨山・大嵐山・戸神山などの記載を強く希望するものである。) |
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| ■第四次川中島合戦・妻女山3D図 | ||||||||||||||||
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| ●赤坂山(現在の妻女山411m)より1キロ離れた東福寺上空350mよりの画像。高さは1.5倍に強調。薄いブルーは、千曲川の旧流想像図。実際は堤防が無いのだから、瀬の部分ではもっと広く流れていた。岩野の十二河原は、十二も中州や河原があるほど分流していたということだろう。左に支流が流れ込むが、子犀川のなごりで犀口からの犀川の支流である。古犀川という地名が残る。 ●斎場山(祭場山512m)は、薬師山(笹崎山437.7m)のある長尾根と赤坂山(妻女山411m)のふたつの尾根を広げ、後背に陣馬平、堂平を背負う中心にある。斎場山が上杉本陣に相応しい位置にあることが分かる。当時、千曲川は赤坂山の際を流れていたため、斎場山は笹崎と赤坂山、千曲川に挟まれ天然の要塞として機能していたと思われる。左手前の赤坂河原辺りの地形は、等高線を見ると旧流の跡や中州の跡がいくつか見える。岩野十二ヶ瀬といわれた辺りだろう。今も十二という地名が残る。斎場原は、岩野のこと。 ●天城山の手前の堂平も東福寺や海津城からは見えない。薬師山から斎場山までは約700mあり、長尾根と呼ばれる。土口から、長尾根を通って斎場山を巻き、赤坂山からふもとの道島へおりる道を「斎場越し」といい、重要交通路であった。また、古墳時代においては、信濃国の天神山祗を祀る聖なる霊場であり、国指定史跡・埴科古墳群の一角を為す。斎場山には斎場山古墳、天城山には坂山古墳、薬師山には土口将軍塚、堂平には堂平古墳群がある。 ★斎場山から見た360パノラマ立体地図はこちら。 |
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| ●東福寺上空2000mからの画像。(『妙法寺記』、『甲越信戦録』と地元の伝承・村誌等を元にした想像図) ●黄色い線は、海津城を出陣した武田別働隊が辿ったと思われる経路。西条の入から唐木堂越、大嵐の峰を辿り、鞍骨、天城を巻いて妻女山へ攻め込む。また、『更級郡誌』には、甲ノ十将が夜間越えたる処として戸神山の記載があり、倉科生萱土口等より妻女山を襲うため、とある。つまり尾根上からだけではなく、麓の集落からも襲撃したということである。『信濃史料叢書』には、信玄公の先鋒潜に西條山(狼煙山)の西山陰に陣す、とある。戸神山は、大嵐山の南の頂。鏡台山までを戸神山脈という。唐木堂越は、戸神山から坂城の日名へ抜ける道なので、実際は黄色の線より、もう二つ尾根の向こうになる。戸神山脈へは、二つの道があったということだ。軍勢の多さからすると、二つのルートで登り、大嵐の峰で更に隊を分けて、一部は倉科、生萱、土口に下りて妻女山へ向かったと見るのが妥当かも知れない。 ●青い線は、上杉謙信が妻女山に布陣したときの経路。旧谷街道の要所、可候峠を加賀井へ下り、まだ武田本隊が到着していない海津城を巻くように象山南の多田越から清野に入り、妻女山各所に布陣したと伝えられている。但し、武田信玄が先に布陣していたという説もあり、その場合は善光寺より、裾花川、犀川を超え、茶臼山の麓を南下し雨宮の渡を越えて斎場山に入ったと見るべきであろう。隊を分けて両ルートから布陣したという説もある。 ●皆神山の後背の峠が、真田と松代を結ぶ重要交通路、地蔵峠。鎌倉時代までは北国街道の重要交通路だった。薄いブルーは、千曲川の旧流想像図。 ★さらに詳しい上杉謙信妻女山布陣経路図・武田別働隊妻女山襲撃経路図 は、こちらをクリック! ★上杉謙信妻女山布陣想像図はこちらをクリック! ★海津城から見た可候峠のパノラマ写真は、こちら。 |
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| ●上は、斎場山(513m)から見た海津城。斎場山からは、一望の下に見える。海津城は、元々は清野氏の館であったが、山本勘助が築城し、武田信玄の愛人でもあった高坂弾正が城将となる。海津城の文字の下が、真田幸隆により落城させられた村上氏の家臣東条氏の尼厳城があった尼厳山。右奥は奇妙山。象山は、本来は臥象山といい竹山ともいう。西条氏が古墳の上に竹山城を築城したといわれている。尾根を右上に辿ると鞍骨城と戸神山脈であるが、急峻で馬や大軍はとても登れない。また、斎場山からは丸見えになってしまう。ノロシ山は西条山であり、手前に伸びる尾根の頭が舞鶴山である。一番右手前の尾根は天城山から陣場平を経て赤坂山(現妻女山)へ伸びる尾根。 ★海津城から見た斎場山のパノラマ写真はこちら。 ★海津城から見た戸神山脈のパノラマ写真と山座同定はこちら。 ★鞍骨城登頂記はこちら。 |
| ■「国土地理院の数値地図25000(地図画像)『松代』」をカシミール3Dにて12歳の次男が制作。高さを1.5倍に強調。 |
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| ●上の写真は、私が所有する大正時代の絵葉書。赤坂山(妻女山招魂社)の南から北を撮影した写真である(撮影は社務所が無いので明治43年以前)。おそらく4月25日の春の大祭の模様だと思われる。明治時代は松代周辺の合同の大祭で、花火を打ち上げ、舞楽の奉納があり、剣道、相撲の奉納試合が行われ、多くの露天も並び、善男善女の参拝者で賑わったそうだ。在郷軍人の演習も行われたという。戊辰戦争以前には、ここには松代藩の射撃練習場があったらしく、南の山腹からは鉄砲の弾が数多く出土する。その縁で、戦後当地に招魂社が建立されたのであろう。招魂社周りの土塁は、射撃練習に使われたものかもしれない。 撮影位置は、招魂社南にある駐車場の位置より更に岩野側に少し下りた辺り。当時、写真手前は斜面になっているが、現在は駐車場として平らに造成されている。左に下りてくる男が見えるが、「上杉謙信槍尻之泉」方面へ下る昔の作業道である。当時、現在の展望台を巻いて登る広い林道は無かった。鳥居が現在とは異なり、南側にあるのが分かる(現在は東側)。その後、この鳥居は木製で腐ってしまい、長らく鳥居は無かったが、戦後寄贈されて現在の位置に建てられた。右に人垣が見えるが、剣道か相撲の奉納試合を見ているのであろう。現在に比べると木がまばらで小さいのが分かる。戦後落葉松の植林が大規模に行われる前は、屋根を葺く茅が多く植えられていた。また自然林は薪に使われたため、所謂「山親爺」の体をなした低い広葉樹林であった。左の招魂社手前に木が大小2本見えるが、いずれも落葉松である。右側の1本は、大木となり現存する。左側の木は、2006年の台風で折れ、伐採された。大正時代以降は、このような大祭は行われなくなったが、現在は、秋の好日に奉参会を中心に遺族会や麓の各役の長が参加し、奉納花火や演奏、剣道の演舞なども行われている。 |
| ■第四次川中島合戦・妻女山絵地図 | |
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| ●絵地図1:上は、江戸時代末期の松代の地図(複製部分図)。赤枠の中を拡大したものが右側の図。地名が逆さまなので天地を逆にしてある。ご覧の通り妻女山は、妻女山古墳のある513mの頂であり、現在の妻女山411mは、ただ赤坂と記載されている。奥には上杉軍が隠れたという千人窪や月夜平の記載が見える。但し、「陣場平の西北隅は謙信が本陣を設けた場所として床几塚(しょうぎづか)とも呼ばれる。その南西は千人窪(せ
んにんくぼ)といって伏兵千人を潜ませたとも伝えられている。」という伝承もあり、すると陣馬平から見た妻女山の位置は符合するが、千人窪は、土口側となり、上の絵地図と異なる。また、江戸時代にあるはずのない大本営跡が記載されているので、後から修正が施されているものである。千曲川の旧流も加筆されたものに間違いないだろう。校正ミスで消し忘れた線がある。 妻女山の右には薬師堂(笹崎山、現在の薬師山)、笹崎が、奥に土口の集落が記載されている。手前は岩野である。また、この地図には千曲川の旧流が描かれている。拡大図に隠れているが、西条から大嵐の峰に至る2本の道があったことが描かれており、それは1本は倉科へ下り、1本は鞍骨山から天城山を越えて妻女山、薬師山へと続いている。これが武田別働隊が辿った道であろう。鏡台山から坂城の日名へ抜ける道も見える。また、右上には加賀井から大室へ抜ける可候峠の記載も見える。 |
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●絵地図2:絵地図1とほぼ同じ頃に善光寺町の仁龍堂花川真助という人が発行した川中島古戦場案内図(複製部分図)。妻女山は、斎場山の位置に記され、謙信本陣となっている。薬師山の記載はないが、赤坂山は、赤坂と記されている。大嵐山の記載はないが、西条に「カラキ堂ヨリ上ル」の記載が見える。西条の入の森野に唐木堂の地名がある。唐木堂から登る道は、大嵐山よりさらに南の戸神山へ登る道と思われる。戸神山脈に登る道は二つ見られるので、二手に分けて登ったと考えるのが合理的だろう。その他にも作業道はある。妻女山という名称の初出がいつか調査中であるが、はっきりしない。里俗伝に、上杉謙信の命名とあるが、これは疑わしい。謙信が妻女山にいたのはひと月もなく、その後信玄の領地となっているので、妻女山という名前だけが残るのはいかにも不自然。その後上杉景勝の支配下に置かれるが、海津城の北条と対峙したときは赤坂山に本陣を置いている。甲陽軍艦鑑が、西條山と誤記したのは、当時さいじょうざんと呼ばれていたからに他ならない。妻女山(さいじょざん)という名は、江戸時代の川中島合戦ブームの折りにつけられた名称か。江戸上方の浄瑠璃、歌舞伎、浮世絵等は、いずれも西條山と記されており妻女山の文字は見あたらない。妻女山は、甲州越信戦録や川中島や善光寺で売られていた絵地図に見られる。つまり、西條山が別の山であると知る地元のものの創作である可能性が極めて高い。土口村誌にもあるように、実に商業主義的で俗っぽい名称ではある。 |
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| ■引用:『川中島の戦』甲信越戦国史 小林計一郎著 長野郷土史研究会発行 昭和34年発行44年改訂十版 | |
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| ●絵地図3:上の地図は、明治35年に皇太子(後の大正天皇)が行啓の折りに、松代町役場が台覧の際に用いた川中島合戦図(複製部分図)。やはり妻女山と赤坂山は別であり、妻女山は513mの妻女山古墳のある辺りになっている。間に謙信陣地の文字が見える。そろべく峠、多田越は、上杉軍が妻女山布陣の際に通った旧谷街道の要所である。善光寺から下るとなると、旧裾花川を渡り、犀川を渡り、犀川の支流の川を渡り、千曲川も渡らなければならない。下流で千曲川を渡り旧谷街道を辿れば、大きな河川や湿地帯を越えずにすむことが分かる。中央下に戸神山の記載が見えるが、『川中島五箇度合戦之次第』には、「信玄は、戸神山中から信濃勢を忍ばせて、謙信陣の背後を突かせようとする。」とある。戸神山中とは、977.5mの大嵐山(杉山)から南へ1185mの戸神山(三滝山)を経て1269mの鏡台山に至る峰をいい、戸神山脈という。更に大嵐山(杉山)から北へ延びる峰を大嵐の峰という。茶臼山は、有旅の茶臼山と石川の茶臼山(川柳将軍塚)がある。茶臼山は『甲陽軍鑑』には出てこない。初出は『甲越信戦録』である。そのため有旅茶臼山本陣説は、距離、場所の悪さから創作であり、実際は石川茶臼山に陣を取り、その後横田に本陣を進めたのではないかともいわれている。 | |
| ■妻女山(斎場山)地名考 | |
| 大きな誤解の元は、江戸時代から現代まで、戦国時代の妻女山にばかり興味のスポットライトが当てられてしまった事である。 斎場山は、古代科野国造(しなののくにのみやつこ)がお祀りしたところと云われており、歴史的に重要なところである。その科野国造が、崇神天皇*の代に、大和朝廷より科野国の国造に任命された、神武天皇の皇子・神八井耳命(カムヤイミミノミコト・ミワヤイミミノミコト)の後裔**の建五百建命(タケイオタツノミコト)であると云われている。国府が小県に移る以前には、屋代、或いは雨宮辺りにあったという説もある。 昭和4年発刊の松代町史には、森将軍塚古墳が建五百建命の墳墓であるという説が記されている。妻女山の麓にある会津比売神社***の祭神・会津比売は、建五百建命の后であると云う。よって信濃国造がお祀りした斎場山の麓(往古は山上にあったという)に神社を建立したと云われている。尚、1996(平成8)年、会津比売神社新社殿建立の折りに「妻女権現」と記された木札が確認されている。斎場山(妻女山)と会津比売命の関係を示すものとして興味深い。また、松代町史には、諏訪大社祭神建御名方の次男熊野出速雄命(クマノイズハヤオノミコト)の海津垂跡説も記されている。★會津比賣神社御由緒参照 建五百建命には二人の息子がいた。兄は速瓶玉命(ヤミカタマノミコト)と云い、阿蘇の地にくだり、崇神天皇の代に阿蘇国造を賜る。弟の健稲背命(タケイイナセノミコト)は科野国造を賜ったと云う。健稲背命の系図は、科野国造、舎人、諏訪評督、郡領、さらに諏訪神社を祭る金刺、神氏という信濃の名門へ続くと云われる。いずれも神話の域を超えないものであるが、記しておきたい。 原初科野は、埴科と更級辺りであった。斎場山は、その中心にある。長野県考古学会長であられた故藤森栄一氏は、『古墳の時代』の中において、「四世紀頃、川中島を中心に、大和朝廷の勢力が到来して、弥生式後期の祭政共同体の上にのっかって、東国支配の一大前線基地となっていたことは事実である。」と記しておられる。その痕跡は、森将軍塚古墳・石川将軍塚古墳・土口将軍塚古墳などに見ることができる。また、屋代遺跡群から七世紀の国司や郡司の命令が書かれた木簡が出土したことも付記しておかなければならない。 そういうわけで、後年、征夷大将軍坂上田村麻呂が地蔵堂を建立したり、荘厳山政源密寺という上田の信濃国分寺に匹敵するような寺院があったのだということが推察される。弘法大師が立ち寄ったという伝説があるが、弘法大師の弟子、伴国道を鎮東按察使として陸奥・出羽の東国へ赴任させているので、実際は弟子だろう。★笹崎山薬師如来の縁起参照 妻女山を語るに、戦国時代のみを注視していてはいけない。古代より全時代を通して俯瞰する必要がある。妻女山は、諏訪大社とも深い関係にある。戦国時代、「1488年(長享二)清野氏(正衡の頃か)諏訪社の下社秋宮宝殿造営の郷と定められている。」とあり。諏訪と清野は、かなり遠いが、この地はかつて科野国の斎場の中心であった。太古の昔から諏訪や大和朝廷とは深い関係にあり、その歴史と伝統は戦国の世までも継承されていたということではないだろうか。各時代における斎場山(妻女山)の山名の変遷を抜きにしては、この地の歴史は語れないのである。 要は、戦国時代の妻女山を語るに於いては、赤坂山を妻女山としてはいけないということである。赤坂山がはっきりと妻女山と称せられるようになったのは、明治以降であるからである。 1982〜1986年にかけて、長野市と更埴市(現千曲市)の教育委員会による土口将軍塚古墳の合同調査がなされたが、その報告書には、土口将軍塚は岩野と土口の境にある妻女山から西方に張り出した支脈の突端にあると記してある。つまり、円墳のある頂が、往古の妻女山であり斎場山なのである。それ以外に本来の妻女山はない。尚、斎場山が本来の名称であり、妻女山は後世の俗名である。 平成19年2月7日に、土口将軍塚は、埴科古墳群のひとつとして国指定史跡となった。信濃の国の起源とされる科野の国の史跡としての重要性が認められたのであろう。つまり、斎場山の山名記載が一層重要なものとなってきたわけである。土口将軍塚、斎場山古墳や坂山古墳、堂平古墳群などもいずれ詳細な学術調査研究が為されることを期待したい。 また、斎場山は、国蝶オオムラサキが舞う自然豊かな、貴重な里山であることも記しておきたい。 *崇神天皇は、諸説あるが、実際は3世紀から4世紀初めに実在した大王という説が有力。科野は、信濃と呼ばれる前の呼称。 **神八井耳命--武宇都彦命--武速前命--敷衍彦命--建五百建命--速甕玉命・建稲背命、或いは神八井耳命の孫が建五百建命とも云う。『國造本紀』に、「神八井耳命の孫の建五百建命を、崇神天皇の御代、科野國造に定め賜はつた」とある。 ***『日本三代実録』に「貞観8年6月甲戌朔条 (866)授信濃国無位武水別神従二位 無位会津比売神 草奈井比売神並従四位下」とある。土口将軍塚は、会津比売命の墳墓という説もあるが、斎場山古墳が墳墓であるという説もある。 |
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| 現在の妻女山(411m)が、本来は赤坂山であり、本来の妻女山は、斎場山古墳のある頂き(513m)であるという事については、地元でも多くの人が知る事実であり、妻女山が本来は斎場山であるということも、ゆっくりではあるが、次第に共通認識となってきている。また、現妻女山は謙信本陣跡でも陣馬平でもない。戦国時代の妻女山(斎場山)が、明治時代に赤坂山へ名称が移動したのだから当然である。 山名の記載追加、変更に関しては、現在、地元でも世間一般でも、赤坂山については妻女山という呼称が既に100年以上に渡り定着しているので、これを変える必要は地元の人も概ねないと考えている。地名が妻女山というのも、その根拠となる。間違いではない。但し、本来は赤坂山であるという記録は残さなければならない。薬師山も古来は笹崎山と称していた。土口将軍塚のある山も荘厳山と称していたようだ。時代により名称が変化することは、合理的な理由がある限り致し方ないことである。現在の妻女山が確定している限り、すぐ近くに同名の山を置くことは、さらなる混乱を招き兼ねないので、古墳の頂を妻女山と新たに記載することは考えにくいし、認められないであろう。ここは本来の名称の「斎場山」とすべきである。 いずれにしても現在最大の問題は、岩野から見て最も高い頂き(斎場山・俗名妻女山)に、国土地理院の地形図に名前の記載がないということである。これは例えれば、長野市の飯縄山、松代の皆神山、上田の太郎山、東京の高尾山に名前がなかったらと考えると分かる。岩野や土口の人々にとっては、現状はそういうことなのである。これを古来の通り、「斎場山」と記することにこそ意味があると考える。それにより、戦国時代のみがクローズアップされてきた「妻女山(斎場山)」の歴史に、古墳時代の陽も当たるというものであり、多くの歴史家や歴史マニアが誤解していた謎も解けようというものである。 會津比賣神社の宮司であり、斎場橋で行われる奇祭「橋がかり神事」で知られる雨宮坐日吉神社(あめのみやにいますひえじんじゃ)の片岡三郎宮司監修岩野編纂による『會津比賣神社御由緒』のむすびには、こう記されている。「此の地に生まれ育ちて、地についた神格たる産土神(うぶすながみ)を、朝な夕な尊崇し奉る人々の幸を、ひしひしと身に覚ゆる次第なり。(このような神社は日本で数社のみ)」。「斎場山」の名前を復活させることは、ここ信濃の国の起源・科濃の国に光を当てることである。また、この地に生まれし者のアイデンティティを確かにすることであり、村興し町興しの側面もある。そして、なにより「斎場山」を伝え知る言葉少なき里人の切なる願いでもある。 |
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*『信濃史料』に関しては、一部は読んでいますが、古代から現代まで辿るには、あまりに膨大ですので、追々片付けていくつもりです。気長にお待ちください。地元に残る古文書も、機会があれば読み解いていくつもりです。またこの度、岩野にある坂上田村麻呂が801年に建立したと伝わる正法寺、現清水庵地蔵堂及び薬師堂の仏恩講(ブットンコウ)の世話人や役員の人達に、妻女山、赤坂山、斎場山について伺ったところ、やはり現妻女山はそのままに、斎場山古墳のある頂を斎場山と記載してもらうのがいいだろうとの言質をいただいきました。現在、区長以下岩野地区の評議員の方々に、資料をお渡しして御検討いただいているところです。いずれ勉強会等も開催したいと思っています。現在、長野市の担当者の方々にも色々御尽力いただいております。妻女山の研究については、これが全てではありません。今後も続けていく所存です。また、ここには書いていない史実や、ここでは発表できないこともあります。いずれ書籍化できればと考えています。 |
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| *引用:「松代文化財ボランティアの会」記載のある記事は、会の許可を得てアップさせていただいています。 | |
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| ★上の写真をクリックすると岩野十二河原辺りから見た斎場山の180度のパノラマ拡大写真が開く。斎場山を中心にして、赤坂山と薬師山が鳥が大きく羽根を広げるように横たわっている様が分かる。また、斎場山を頭頂として龍眼平が目、薬師山を鼻先とし、天城山、鞍骨山を胴として、躰をくねらせて横たわる龍のようにも見える。 ★下の写真をクリックすると斎場山パノラマ写真と山座同定が開く。斎場山(斎場山脈)を中心として謙信の軍勢が、左手の赤坂山、右手の薬師山、麓の斎場原に布陣した様が想像できるのではないだろうか。この写真の中央やや右、最も高い山が現在名無しの状態にある斎場山(俗名妻女山)。 |
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●土口将軍塚古墳のシルエットがはっきりと分かるパノラマ写真は、こちらをクリック!●妻女山・斎場山・天城山の位置関係が分かるカット。 |
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●左は、斎場山からの360度パノラマ3D地図。地図をクリックすると拡大。 |
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■妻女山トレッキングルポのトップページへ(笹崎から薬師山、土口将軍塚、斎場山古墳、招魂社、会津比売神社、芭蕉句碑のフォトルポ) ■清野氏の要害・鞍骨城へのトレッキングルポのページ(鞍骨城全貌・天城山城・陣場平・武田別働隊の経路など) ■MORI MORI KIDS(低山トレッキング・妻女山ルポ、鞍骨山ルポなど) ■MORI MORI KIDS Nature Photograph GalleryI(ネイチャーフォトギャラリー) ■CAPINO カピーノhttp://www.capino.org/(こちらが私のあらゆるサイトのトップページ。) ■赤坂山の妻女山招魂社を描いた水彩画家・林真理の「妻女山招魂社(夏休みの想い出)」はこちら。「雪の千曲川畔」はこちら。■水彩画ギャラリー ■料理レシピ ■ご質問・ご感想・仕事のご依頼・取材のお申し込みなどは、CONTACTのページからメールで、林 盛幸宛にお願いいたします。 |
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