妻女山の位置と名称について 2012.7.12更新  QLOOKアクセス解析

妻女山の真実
「妻女山は往古赤坂山であった! 本当の妻女山は斎場山である」


……これほど歴史に翻弄され、数奇な運命を辿った低山があったでしょうか。……
妻女山(さいじょざん)は、その本来の名称と位置について、誤った通説が広く浸透しています。
『甲陽軍鑑』にある川中島合戦の「西條山(さいじょうざん)」とは、「斎場山(さいじょうざん)」のことです。
斎場山(齋場山)とは、妻女山の本名で、その起源は古代科野国にある古い歴史をもつ山です。
地元でも、その歴史を詳しく知る人は少なくなり、千曲川を越えるとほとんどの人が知らないというのが現状です。
この事実に大いに危惧を抱き、研究を始めました。地名や山名も大切な郷土の文化財であるという考えです。
地元で「本当の妻女山」と呼ばれてきた「斎場山」は、地形図において現在名無しという憂慮すべき状況です。
また、各地名辞典・山名辞典に、妻女山の標高546mとあるのは、完全に誤りであり、
大正時代の誤った地図を更に誤読したものです。
地形図に、「斎場山(513m)または祭場山」(妻女山411mは現行のまま)の記載を希望します。
古代科野の国に繋がる歴史有る「斎場山」が名無しのまま放置されているのは、由々しきことと考えます。
400年以上に渡って封印されてきた「斎場山」という名称を、今解き明かします。
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■ブログで「妻女山から斎場山への行き方」と「妻女山から陣場平への行き方」を写真・解説つきでアップしました。
地図も添付しました。訪れる際の参考にしてください。
ガイドに載っていない川中島合戦の史跡!」アップ。大河ドラマ「風林火山」や「天地人」の影響か、アクセスが増えました。
妻女山には歴女達も訪れます。ほとんどの訪問者が展望台のみで帰られますが、斎場山までぜひ足を運んでください。
また、招魂社は戊辰戦争以降の戦没者を祀った神社で、上杉謙信や川中島合戦とは無関係です。
斎場山脈全景を見るには、麓の岩野橋と新赤坂橋の中間の千曲川堤防上から見るのがベストです。
このページの下から二番目のパノラマが見られます。

長野郷土史研究会会誌「長野」259号に私の「妻女山の真実」という約8000字の小論文が掲載されました。入会・お申し込みはこちらで
掲載の記事執筆以降に、新たな史実が判明してきました。いずれ発表の機会を得たいと思います。
また、いずれ「武田別働隊の経路を辿る」「上杉軍陣取の経路と陣所を辿る」というトレッキング企画を実現したいと思っています。
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主な記事は、●「妻女山:有名人訪問年表」妻女山は、政治的軍事的にいかに利用されてきたか。
●「時に笑える『地名辞典』における妻女山の記述 その123」●「近俗作妻女山は尤も非なりと看破した土口村誌
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●「上杉謙信槍尻之泉に新事実発見!」●「『甲陽軍鑑』元和写本に注目!」連載中。
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「妻女山の位置と名称について」は、現在進行形で研究中です。そのため限定公開となっていることをご了承ください。
未公開の部分:妻女山の記述の歴史的変遷(史料・村誌等)一部掲載。妻女山の名称の歴史的変化と妻女山の文化史年表(力作)。
妻女山の場所と名称の混乱はなぜ起きたか詳細記事。妻女山の地図への記載と変遷。妻女山の命名者。
上杉謙信斎場山布陣経路想像図。武田信玄別働隊斎場山襲撃経路想像図(3Dデジタルマップ)。 
武田信玄別働隊斎場山襲撃経路と清野尋常小学校鏡台山登山運動会の経路の比較。戦国時代の古道・峠・千曲川旧流の検証。
妻女山絵地図。妻女山古写真。1948年GHQ撮影妻女山航空写真と地名の解説。古代科野国・信濃国の起源。信濃豪族の系譜。
古典における妻女山記述の変遷。近松門左衛門人形浄瑠璃『信州川中島合戦』西條山の項。『実録甲越信戦録』妻女山の項。
『甲陽軍鑑』の西條山の項。『千曲之真砂』西條山の項。『 武田三代軍記』信州川中島合戦図。『名蹟巡錫記』西條山の項。
『日本戦史』川中島の戦・妻女山の項。『河中島合戰圖』小幡景憲。『河中島古戰場圖』榎田良長。等絵図色々。
方言「ずく」の語源と「古代科野国」の考察。ひょんな事から「ずく」と「古代科野国」が結びつきました。
これにつきましては、メディア等で機会が与えられれば発表する所存です。
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■この頁には、いかなる政治的、思想的、宗教的な意図もありません。歴史的事実のみを探究します。
また、新たな史実や誤りがあった場合などには、予告なく書き換えられる場合があります。更新は頻繁に行います。ご了承下さい。
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◆文・画像:林 盛幸(妻女山研究家・ナチュラリスト・自然写真家・郷土史研究家)


 ■本当の妻女山(さいじょざん)は、斎場山(さいじょうざん)である。
 現在、国土地理院の地形図に記載されている標高411mの妻女山は、本来は赤坂山といい、本当の妻女山の支尾根にある頂である。本当の妻女山は、それより15〜20分ほど南西に登った、標高513*mの円墳(斎場山古墳)のある頂である(私有地)。頂上から東西に伸びる尾根を含めて斎場(妻女)山脈という。西の支尾根に標高437.7mの薬師山(笹崎山)をもち、東の支尾根に現妻女山(赤坂山)をもつ。妻女山は、往古斎場山といい、江戸時代に妻女山となる。斎場とは、古代においては祭祀(さいし)を行う清浄な場所という意味である。「齋(いつき)のば」あるいは「ゆにわ」ともいう。その名称の起源は古墳時代に遡るものと思われる。
 妻女山の位置と名称については、諸説あるわけではない。江戸時代以前まで妻女山とよばれていた本来の妻女山(本名は斎場山、妻女山は俗名)513mと、江戸時代以前は、赤坂山、または単に赤坂と呼ばれ、明治2年妻女山松代招魂社建立後から妻女山とも呼ばれるようになった現妻女山411mがあるだけである。それ以外に地元で妻女山と呼ばれた山頂は存在しない。
*標高:513.155m 山頂標柱より。512.8mという市誌の記載もあり。
●右の写真は、斎場山(本来の妻女山・里俗伝上杉謙信本陣跡・俗称:床几塚・床几場・謙信台・龍眼塚・御陵願塚)。山頂に円墳がある(私有地)。
 ■妻女山の場所と名称の混乱はなぜ起きたか(個々の解説は省略)
 歴史の中で山の持つ意味や使われ方が変化。(斎場山→祭場山・妻女山…→赤坂山へ名称が移動・本来の斎場山が名無しになる)
 最も大きな原因は、『甲陽軍鑑』で斎場山(妻女山という名称は戦国当時まだない)を、読みが同じであったが為に西條山と誤記され広まったこと。加えて松代町西条に西條山(にしじょうやま)という別の山が存在することで、より混乱に拍車がかかり後の松代藩を悩ませることとなったと思われる。
 *西条山は、生萱村誌に「高飛(高遠山)、火峯(ノロシ山)の山脈(属西条山)」とあるので、高遠山から狼煙山、舞鶴山への山脈を指すと思われる。また、榎田良長『川中島謙信陳捕ノ圖 一鋪 寫本 』では、やはり高遠山中腹辺りに西条山の記載があるので、そこで間違いないと思われる。
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 正保4年(1647)、幕府の命により正保国絵図が作成される。松代藩により妻女山と明記。現在のところ公式文書では最初と思われる。
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 享保16年(1731)、松代藩士竹内軌定による真田氏史書『眞武内傳』編纂される。川中島合戦謙信妻女山備立覺に「甲陽軍鑑に妻女山を西條山と書すは誤也、山も異也。」とある。ところが、江戸・上方では以後も西條山、或いは西条山のまま。つまり、戦国時代には、妻女山(さいじょざん)という山名は存在しない。斎場山(さいじょうざん)のみである。
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 戌の満水(寛保2年/1742)で、斎場山麓の集落岩野の貴重な文献や古文書がほとんど流失してしまった。
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 文化7年(1810)以降に川中島の者により書かれた著者不明の『甲越信戦録』や土産物の「川中島合戦図会」に、妻女山(さいじょやま)と書かれ地元で広まる。川中島から見ると斎場山は、後背の天城山(てしろやま・手城山)の前に重なるため、後ろの天城山を妻女山と記した誤った絵図も多い。
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 天保9年(1838)江戸幕府の命で『天保国絵図信濃国』完成。松代藩は、妻女山と記載。しかし、全国的にはならず。
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 明治2年(1869)赤坂山に妻女山松代招魂社建立。それ以降、地元でも赤坂山を字名をもって妻女山と呼ぶようになった。(現在でも頑に赤坂山と呼ぶお年寄りもいる)明治以降、陸軍の『日本戦史』に川中島合戦が教科書として使われ、以後政治的軍事的に妻女山が利用されるに至って、本来の妻女山、つまり古墳時代の斎場山は顧みられることが全くなくなってしまった。現在も自衛隊の訪問がある。ブログ記事「妻女山:有名人訪問年表」参照
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 昭和47年(1972)国土地理院地形図に、旧赤坂山を妻女山と記載。現妻女山が定着する。名称が赤坂山へ移動した当時の事情を知る人も亡くなり、聞き取り調査もしにくくなった。現在では、各種地名辞典・山名辞典・電子辞書等の誤記載が、誤った妻女山を広める原因となっている。
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 現在、妻女山という場合には、主に斎場山(513m)をいう場合、赤坂山(現妻女山411m)を指す場合、陣場平(520m)を指す場合がある。多くの書籍(地名辞典や歴史書)の記載の混乱は、この呼び方と指し示す場所の違いを明確に認識していないことに起因するものである。つまり、妻女山と記載した場合に、往古の妻女山(斎場山)を指す場合、現在の妻女山(旧赤坂山)を指す場合、字妻女山の最高地点(陣場平)、字妻女山全体、字妻女山と字妻女を合わせた山域、更には、赤坂山と薬師山を合わせた斎場(妻女)山脈を指す場合があり、それを明確に認識していないと誤った記述になってしまうということ。妻女山と書いた時には、必ずしも山頂を意味しない時があるということである。この混乱は、明治の「長野県町村誌」の記述でも見られる。但し、斎場山や赤坂山といった場合には、字名にはなく、地名または山頂なので、それぞれ一カ所しかない。また、妻女という地名は、字妻女山、字妻女、字山裏(山浦)に、それぞれあり、非常に複雑である。

 ■妻女山に関する古誌・古文書・図会・史誌の記述
『甲陽軍鑑』、『甲越信戦録』『実録甲越信戦録』、『景勝一代略記』、『真田家御事蹟稿』、『川中島五戦記』、『河中島古戦場地理記』、『川中島の戦・甲信越戦国史』、『千曲之真砂』、『信府統記』『日本戦史』、『府県町村誌』、『清野村誌』、『岩野村誌』、『土口村誌』、『生萱村誌』、『倉科村誌』、『雨宮村誌』、『森村誌』『西条村誌』『更級郡誌』、『埴科郡誌』、『松代町史』、『長野県町村誌』、『信濃宝鑑』、『信濃史料叢書』、『信濃史料』、『長野県史』、『長野県の歴史』『長野県神社百年誌』、『各種地名辞典』、『各種図会』、『長野県神社百年誌』、『甲陽軍鑑大成』等の検証と研究を終了、または継続中。

●『清野村誌』
「招魂社は、妻女山の中腹にあり岩野村に跨る」

引用:『清野小学校開校百年誌』 出典:『長野県町村誌』第2巻東信篇 昭和11年発行 調査:明治13〜15年
★解説:つまり妻女山松代招魂社のある場所は、妻女山山頂ではないということ。字名が妻女山、地名は赤坂山。

●『実録甲越信戦録』
「御大将謙信の本陣妻女山(さいぢょやま)[甲陽軍鑑に西條山と有、西條山は別にあるなり]」

出典:『実録甲越信戦録』西沢喜太郎編 長野:松葉軒出版 明治16年発行
★解説:文化7年(1810)以降に書かれた作者不詳の『甲越信戦録』を元に再版したもの。

●『長野県町村誌』第二巻東信篇【岩野】
「本村古時磯部郷(*和名抄にあり)に属す。里俗傳に斎野村たり(斎場山は本村起源の地ならんか)延徳の頃(1489〜1491)上野村と名す。寛文六年(1666)岩野村と改称す。附言、里俗傳に、往古斎場山に會津比賣神社あり。土地創々神にして土人の古書にも當郷に深き由縁ある神にて、貞観中(859〜877)埴科大領、外従五位下金刺貞長の領地たり。蓋其際官祭の社にして、郡中一般祭典を施行せしものか、今に至り斎場山の麓に斎場原と称する地あり。此地字を以て村名を斎野村と称せしなるべし。」
(岩野村についての記載)
★解説:
斎野(いわいの)村が転訛して岩野村となったと思われる。「里俗傳に、往古斎場山に會津比賣神社あり。」に注目。御陵願平辺り、或いは、陣場平辺りにあったのだろうか。発掘調査が待たれる。御陵願平は、明らかに二段に整地されている。畑作のためにこのようなことはしない。陣場平も人工的に平に整地されたような平地と古い石垣が残る(但し畑の土留めに使われたため原形ではない)。

【妻女山】高及び周囲未だ実測を経ず。村の南の方にあり。嶺上より界し、東は清野村に属し、西南は土口村に属し、北は本村に属す。山脈、南は西條山に連り、西は生萱村の山に接す。樹木鬱蒼。登路一條、村の南の方山浦より登る。高二十一町、険路なり。渓水一條、中間より発す。細流にして本村に至りて湧く。

★解説:南へ天城山、鞍骨山、戸神山脈を辿ると西條山(高遠山)に続く。「樹木鬱蒼。登路一條、村の南の方山浦より登る。高二十一町、険路なり。」とは、外部の人には、まずどこか分からない記述である。これは、岩野駅南の山裏(山浦)から前坂を登って韮崎からの尾根に乗り、斎場山(妻女山)へ登る急な山道のこと。養蚕が盛んな時代は、数十キロの肥料を背負ってこの道を登ったという。現在はほとんど登る人はいないが、この記述により妻女山は斎場山であったということが分かる。西南は土口という記述からも明白。本当の妻女山がどこかが、これで証明される。「渓水一條」とは上杉謙信槍尻の泉のこと。江戸時代に霊水騒動が起きるが、その時の泉の位置は現在より30mほど東。
古跡
【斎場山】本村の南より東に連り、祭祀壇凡四十九箇あり。故に里俗傳に、此地は古昔国造の始より続き、埴科郡領の斎場斎壇を設けて、郡中一般袷祭したる所にして、旧蹟多く遺る所の地なり、確乎たらず。
(注:斎場山から御陵願平、土口将軍塚古墳にかけての記述)
【上杉謙信陣営跡】 本村南斎場山に属す。永禄四年(1561)九月此処に陣すること数日、海津陣営の炊烟を観、敵軍の機を察し、夜中千曲川を渡り、翌日大に川中島に戦うこと、世の知る所なり。山の中央南部に高原あり、陣馬平と称す。此西北の隅を本陣となし、謙信床几場と云あり、今誤って荘厳塚と云う。(注:陣馬平から斎場山にかけての記述・南より東に連なりとは、字妻女・妻女山のこと。)
出典:『長野県町村誌』第二巻東信篇 昭和11年発行 調査;明治13年 岩野戸長窪田金作氏への聞き取り調査より
★解説:以後町誌市誌県誌のほとんどは、この報告を元に記されているようだ。[山]妻女山と[古跡]斎場山と記載があるが、同じ山頂のことである。妻女山が赤坂山のことであれば、土口とは境を接しない。[古跡]上杉謙信陣営跡も同じ山頂であり、謙信床几場とは、床几塚のことである。謙信台ともいう。これらの実際は同じである山を別であるかのように分けた記述が、混乱の元かもしれない。但し、記述している項目は、[山]と[古跡]であり、各々の示す範囲は、それぞれ微妙に異なるが、山頂は同じである。斎場山が地名であり、字名は妻女である。
千曲市教育委員会による斎場山古墳の調査では、五量眼塚古墳としてあるが、これはここの地名を竜眼平と誤ったためである。竜眼平は斎場山西の平地の名前であり、正しくは御陵願平といい、御陵、つまりは斎場山古墳を拝んだことに起因する地名であるから斎場山は竜眼平ではない。
陣営跡を「本村南斎場山に属す。」とあるが、「本村、南斎場山に属す。」ではない。「本村南、斎場山に属す。」である。南斎場山という地名はない。
同じく「誤って荘厳塚という。」とあるが、荘厳塚は正しくは土口将軍塚古墳のことであり、郷土史家・米山一政氏(故人)が研究の先駆者である。
「山の中央南部に高原あり、陣場平と称す。」という記述により、斎場山を起点として南に陣場平があるということが分かる。「西北の隅」は、もちろん斎場山である。
『和名抄所載郷名』では、岩野は「磯部郷」「松井ノ郷」、生萱村の報告では、土口と一緒に「大穴郷」に入れられている。大穴山とは、森将軍塚古墳の山である。また、雨宮、森、倉科、生萱、土口、岩野を合わせて「生仁(オフニ)郷某の里」という説もあると記してある。オフニは、大穴の訛りであり、生萱はオフガヤであって大谷、または大峡谷の意味である、とある。大穴は、多穴でもある。多くの古墳群のことを指す。金刺とは、阿蘇大宮司の阿蘇氏と祖を同じくし、科野国造、建五百建命(健磐龍命)の後裔であり、諏訪郡の郡司及び諏訪下社大祝を世襲する。
*和名抄=和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)931〜938年(平安時代中期)の間に作られた辞書。「倭名類聚鈔」「倭名類聚抄」とも書かれる。


●『信濃宝鑑』中巻
【妻女山】
 まことは斎場山なるべし、上古県主及び郡司(或は田村将軍東夷征伐の際とも云ふ)などの天神地祗を祭れる壇上の意ならん。今岩野・清野・土ロの三村に跨りて峠立せり、即ち、岩野は、斎野(いはひの)・清野は須賀野にて清く須賀須賀しき野の意なるべし、然して土ロは祭壇への登りロの意ならん。現今、古墳やうのもの多きは、皆祭壇にてこれ穿てば祭器古鏃*を出だすを以ても上古の斎場たる事知る可きなり、後永禄年中甲越合戦の際上杉謙信の陣を張れる処たり。

出典:『信濃宝鑑』中巻 (株)歴史図書社 昭和49年8月30日刊 初版明治34年。
★解説:妻女山が本来は斎場山であると記している。「三村に跨りて峠立せり」とあるのは、現妻女山から斎場山へ登り、天城山へとの分岐の峠(東風越)のこと。斎場越しの中間点である。厳密には岩野村と清野村の境は、もっと東。田村将軍とは、坂上田村麻呂のこと。*やじり
 ■妻女山の岩野の伝承
 斎場山古墳の土地の持ち主(岩野在住)が、代々513mの古墳が本来の妻女山であると言い伝えてきた。地元では、ほとんどの人が伝え知る事実である。昔は正確な山の地図など無いのだから、代々連綿と語り継がれてきた地元の伝承の持つ意味は重い。しかし、妻女山が本来は斎場山であるということは、地元でもほとんどの人が知らないのもまた事実である。それ故、斎場山を広め、地形図に記載することが重要と考える。
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 会津比売神社から招魂社、土口の見える峠まで林道建設(昭和30年頃)した折りの岩野の責任者、上原氏の孫が、祖父より、図面を見て招魂社のある場所は江戸時代までは、妻女山でなく赤坂山であるとの言質を得ている。林道建設に関わった岩野の者は、父以外はすべて故人である。父は、411mは赤坂山であり、本当の妻女山は円墳の頂と言っている。また、大字岩野字妻女地籍に山を所有している。
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 明治初期には、円形の祭祀壇凡四十九箇あったという。(それはどこに行ってしまったか。明治後期に麓に塚掘り六兵衛なるものがいて、盗掘を重ね酒にかえて飲んでしまったという。塚掘り六兵衛こと北山六兵衛については、更埴市史に記述がある)何より戌の満水により、手がかりとなる村の重要な古文書等が、全て流失してしまったのが悔やまれる。
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 その昔、岩野の地は松井の郷、縣の庄、藤沢の里と称し、西は笹崎山をもって土口に境し、東は赤坂山をもって清野に接しており、山並の姿は鳥が翼を広げたようであった。さらに、古くは斎場山から斎野(いわいのが転訛していわの)といったとも伝わる。信濃国縣庄松井郷藤沢里齋村(上野村-岩野村)か。
引用:平成八年五月十二日 長野市松代町岩野 笹崎山(一名薬王山)政源密寺 信徒総代 翻案記述岩野区長より抜粋。一部校正。
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 513mの本来の妻女山(斎場山)は、戦前までは岩野にあった「荘厳山正源寺」の所有であったが、後継者がなく、戦後廃寺となったため、岩野のある人が買い現在に至る。尚、正源寺本堂は篠ノ井御幣川の太平観音堂として寄進されたが、2005年8月24日未明に全焼した。
出典:明治13年『岩野村誌』
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 1996(平成8)年、會津比賣神社新社殿建立の折りに「妻女権現」と記された木札が確認されている。斎場山古墳と会津比売命の関係を示すものとして興味深い。往古会津比売神社が斎場山の山上にあり、土口将軍塚古墳は会津比売命の墳墓であるという伝説がある(斎場山古墳という説もあるが、天城山の坂山古墳と共に土口将軍塚古墳より後期のものであるという)昭和59年12月20日に記された『會津比賣神社御由緒』には、信濃国造・建五百連命の妻であり、現神社より三丁余り南の山腹に二神の住居があったと伝えられると記している。また、雨宮坐日吉神社(あめのみやにいますひよしじんじゃ)の三年に一度の春季大祭(御神事)においては、清野氏の屋敷があったとされる海津城内へ移動して踊る「城踊り」が奉納された。その帰路に、周辺の自社や在家15箇所を巡り、清野の「倉やしき」、岩野・土口などといった旧家で踊りも奉納していたと云う。雨宮の御神事の「橋がかりの踊り」は、沢山川(生仁川)の「斎場橋(往古は数町上の生仁橋で行われた)」で行われるが、斎場橋は、郡司が雨宮から斎場山へ参る際に渡る橋としての命名かと思われる。往古斎場山の表参道は南であり、そのため祭壇への登り口の意味で土口という地名があると云う。會津比賣命の墓については、「神社の上、斎場山脈の頂上の西方にある、荘厳塚と称する所の御車形山稜が命の墓なり」と記されている。斎場山脈の頂上こそが、斎場山である。會津比賣神社御由緒参照

 ■妻女山の地図への記載 ★妻女山詳細字図・地名図
 天保9年(1838)江戸幕府の命で『天保国絵図信濃国』完成。松代藩により妻女山と記載される。江戸時代末期の絵地図には、妻女山は、斎場山の位置にある。現在の妻女山は、単に赤坂と記されている。薬師山は、薬師堂と記されている。また、雨宮渡シ、犬ヶ瀬、十二ヶ瀬、広瀬ノ渡(原文まま)は、今ハナシと記されている。(絵地図1 注:江戸時代にあるはずのない松代大本営跡が記載されているので、出版時に一部加筆されている。)また、同じ頃に善光寺町の仁龍堂花川真助という人が発行した川中島古戦場案内図でも、妻女山は、斎場山の位置に記され、謙信本陣となっている。薬師山の記載はないが、赤坂山は、赤坂と記されている。大嵐山の記載はないが、「カラキ堂ヨリ上ル」の記載が見える。
引用:『川中島の戦』甲信越戦国史 小林計一郎著 長野郷土史研究会発行 昭和34年発行44年改訂十版 同書掲載図『甲越川中島合戦陣取地理細見図』仁龍堂花川真助発行
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 大正元年(1912)測量の5万分の1地形図(陸軍参謀本部陸地測量部)にて「妻女山」と表記。まずこの地形図に重大な誤りがある。妻女山の山の文字のすぐ左に古墳のある斎場山があり、そこを指しているのであるが、斎場山山頂は測量されておらず、すぐ下に標高546mの測量点の表記があり、誤解される原因となった。
 位置は、斎場山の南東標高530mあたりのコブ。岩野では陣馬平と呼ぶ場所の脇。現在は林道が越えている。546mの場所は、実際は530mあまりで、山頂に相当するピークは存在しない。しかも印は、山頂の三角点ではなく、測量の標高点にすぎない。現地には標石もなく、昭和35年(国土地理院発足)改訂版の地図からは、その点さえ無くなっている。現在の地形図では、その山頂を表す閉じた等高線さえ無い。また、天城山から赤坂山への尾根がきれいに見える海津城から見ても、546mのピークは確認できない(上の写真でも分かるように陣場平に山頂は存在しないのだから当然)。地元でそこを妻女山と呼んだ事実は一切無い。敢えて言えば陣場平は、旧清野村の字妻女山になり、その西の林道が越えているコブは字妻女山の最高地点であるが、山頂ではない。
 もしここが妻女山山頂とすると、妻女山は土口と清野の境にある山となり、岩野からは全く見えず、斎場山の麓の村故に斎野(いわいの)から岩野になったという往古の伝承と矛盾する。これは、妻女山の起源も知らぬ外部の者が、大正時代測量の誤った地形図を鵜呑みにしたものであり、地元にとっては甚だしく迷惑なことである。妻女山が斎場山を起源とするかぎり、本当の妻女山は、斎場山古墳のある場所以外にはない。

★解説:最初の布陣の折には、現妻女山には、『妙法寺記』や『甲越信戦録録』によると、直江山城守が布陣したと記されている。確かに本陣とした妻女山は円墳のある斎場山に間違いないが、妻女山周辺には妻女山或いは妻女という地名があちこちにある。それは、謙信の布陣にちなむものであろう。しかし、妻女山本来の名称・斎場山とはなんの関係も縁もない。陣場平は、謙信が陣城を建てたと里俗伝にある場所で、相当に広い平地がある。『甲陽軍鑑』の編者といわれる小幡景憲彩色『河中島合戰圖 』(狩野文庫)には、この辺りに七棟の陣小屋が描かれている。
 上の写真でも分かるように、546mとされた陣場平(月夜平)辺りには、山頂と呼べるピークは無い。また、海津城から見た場合、斎場山は陣場平から妻女山への尾根上にあるように見えるが、実際は峠(東風越)を挟んで約400m尾根の向こう側にある。これが誤解を生んだ原因のひとつだろう。また、更に穿った見方をすれば、1903年(明治36年)に刊行の、日本陸軍参謀本部編集『日本戦史叢書』川中島の戦(日本戦史学会編・豊文館・明44.7)を都合良く補足するために、ありもしない妻女山が軍部によって捏造された可能性も否定できない。近年では、『日本歴史地名大系 第20巻 長野県の地名』1995年平凡社刊の記述に基づいた百科事典マイペディアの誤った記述が、電子辞書を通して全国に頒布されているという憂慮すべき状況がある。尚、
マイペディアを管理する日立システムアンドサービスからは、平凡社に内容確認中との回答を得ているが、当の平凡社からは、現在なんの回答も無い。また、『角川日本地名大辞典』でも妻女山の支脈に赤坂山と薬師山があるとしているのはいいが、標高を546mとしている。どちらも大正元年測量の誤った情報をそのまま記載している。この元の文章を書いた人は、地図の読み方を知らないといわれても仕方がない。現地調査をしていないことも明白である。最も古く権威のある『大日本地名辞書』冨山房は、『千曲真砂』を引用して西條山と記している。また、『甲陽軍鑑』『信府統記』『北越軍記』を引用しているため、妻女山と西條山が混同されている。「諸軍書、妻女を西条に作る」という記述は、妻女山の本来の位置を知っていて、別の西条にしてしまったといいたいのか。実に歯がゆい表記である。
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 昭和47年の2万5千分の1地形図作成の際、長野市に地名等の確認を行い現在の表記となる。つまり招魂社のある、地元では古来妻女山ではなく赤坂山と称している411mのところ。この時点で既に招魂社建立以降、約100年に渡って地元でも地名・赤坂山を字名をもって妻女山と呼んでいたので、間違いではないが、問題はその時に本来の妻女山(斎場山)を名無しにしてしまったことである。その時点で測量し、三角点を置き、「斎場山」と記載していれば現在のような混乱は起こらなかったはずである。いずれにせよ、このことにより斎場山は忘れられ、赤坂山が陣馬平となり、謙信本陣と現妻女山の古い看板には堂々と誤りが記されていた。現在の看板も不完全なものである。前記のように、上杉景勝の本陣、赤坂山との混同もあるかもしれない。いずれにしても現在まで至るこの表記が、全ての誤解の元になっていることには変わりはない。赤坂山を妻女山として第四次川中島合戦の話を進めていくと、全てが誤ったものになってしまうのである。大手出版社の書籍やムックでも、この間違いが非常に多い。地元の古史を紐解いたり、自分の脚で調査せずに、机上で他人の文章を参考に(孫引)するから、こういう間違いが起きるのではないだろうか。
   以上・国土地理院地形図参照(2と3の地図に関しては、国土地理院に問い合わせ、資料を得たもの。)
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 平成6年7月1日発行の更埴市(現千曲市)遺跡分布図(更埴市史第一巻古代中世編)付図によると、古墳のある513mの頂きに妻女山と記されている。しかし、招魂社の場所にも妻女山と記されている。後者は現在の地形図に則ったものであり、前者は古文書や伝承に基づいた記載であると思われる。一般に妻女山塊という場合は、赤坂山(現妻女山)、薬師山(笹崎山)の両支山を含み、南は陣場平辺りまでをいう。ときに斎場山脈(妻女山脈)ともいう。
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 長野県地名研究所の『長野縣町村字地名大鑑』によると、斎場山古墳の場所に、妻女山と記されている。
   参考文献:『長野県町村字地名大鑑』長野県地名研究所 昭和62年11月3日刊

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 近年、地名や山名など自然地名も大切な文化財であるという考え方が広まりつつある。そこで、次期修正時に、古墳のある513mを「斎場山」と地形図に記載してもらいたいと考えている。現妻女山は、既に地元でも定着しているため現状のままでいいという意見が地元の大方の意見である。妻女山は少し特異な例であるが、国土地理院の地形図の三角点の山名が、地元の呼称とずれることはよくある。千曲市の一重山は、地形図では屋代城跡のピークであるが、地元では昔は小島山であり、その北にある三本柏の小ピークを一重山といった。現在は両山を総称して一重山と呼んでいる。また、生坂村にある京ヶ倉の大城は、地元でそう呼ぶ城跡と三角点の場所がずれている。地名も生き物のように変わるのは仕方ないが、安易に旧名を変えたり移動したり廃止したりすると大切な歴史が消滅することにもなりかねないので注意が必要である。(注:例えば同じ地形図でも、例えば東京の高尾山から奥高尾などは、小さな山名はもちろん小さな峠まで詳しく記載されている。しかし、信州の低山は、ほとんど山名の表記がない。これは、歴史研究家やハイカーのみならず、地元の歴史や自然を守り伝えていく上で非常に大きな障害になる。斎場山を初め、天城山・鞍骨山・御姫山・大嵐山・三滝山などの記載を強く希望するものである。ひとつの山が尾根の反対側呼称が異なるということはよくある。そういう場合は併記でいいのではないだろうか。また、俗名が定着している場合は、本名や旧名も記録に残すべきである。信州は山国であるから、自然地名、特に山名、沢名、尾根名、峠名への関心をもっと持ってもらいたいと思う。)

●大正元年測量 五万分の一「長野」(陸軍参謀本部陸地測量部)
 妻女山の文字の近くに546とあるので、外部の人は、ここが妻女山と思ってしまうであろう。しかし、これは546を指しているのではない。単なる三角測量の「標高点」である。しかも、現地にはこのように盛り上がったピークはない。いまだに妻女山を546mと書いたサイトや書物を見かけるが、それは明らかに間違いである。なぜこのようにありもしない山を描いたのか、真相は不明である。上に記したように、松代からの見え方を誤って記したか、陸軍による捏造か、単なる測量技術の未熟さなのか、分からない。はっきりしているのは、ここに山頂は無く、斎場山古墳のある場所が、本来の妻女山であるということ。赤坂山が現在の妻女山であるということである。
 
●大正元年測量 五万分の一「長野」昭和35年修正(国土地理院)
 546の標高点の表示は消えているが、まだピークがあるかのような円が描かれている。実際は現在の地形図や上の写真のようであり、陣場平に地図のような大きなピークは存在しない。山頂自体が創作、或いは捏造である。妻女山の文字は、少し北へ移動している。また、この時点ではまだ赤坂山を妻女山とはしていないことが分かるが、既にこの時点で地元でも赤坂山を地名の赤坂山ではなく、字名から妻女山と呼んでいた。
546m辺りの写真は、鞍骨城登頂記の1ページ目の左上から8-9枚目の写真を参照
  ●国土地理院の数値地図25000(地図画像)『松代』昭和47年測量。黒い文字以外は筆者が記載。陣場平には、大正元年測量の地図のような等高線が閉じたピークはない。陣場平は、西側が細い尾根で林道が乗り越え、東側は広大な平地になっている。上の地図のような、山頂とおぼしき丸い丘はない。ピンクの部分が旧清野村字妻女山で、グリーンの部分が旧岩野村字妻女である。しかも、それぞれの中に妻女という地名がある。陣場平の北側は切岸状になっており、古い石垣と積石塚古墳が一基ある。本来の斎場山(妻女山)は、岩野の字妻女の最も高い場所になり、地名は斎場山という。青字は字名、赤字は地名、または旧蹟。各字には、さらに細かな地名がいくつもある。
左の図をクリックすると拡大図が別ウィンドウで開く。

参考文献:『長野県町村字地名大鑑』長野県地名研究所 昭和62年11月3日刊 注:全ての地名が載っているわけではない。 
参考文献:『信濃史料叢書』第四巻 1913(大正2)年編纂全五巻 眞武内傳附録(一)川中島合戦謙信妻女山備立覺
■国土地理院の数値地図50000(地図画像)『長野』大正元年測量と昭和35年修正を使用。地図は、国土地理院の提供。
 ■妻女山(斎場山)地名考
 大きな誤解の元は、江戸時代から現代まで、戦国時代の妻女山にばかり興味のスポットライトが当てられてしまった事である。
 斎場山は、古代科野国造(しなののくにのみやつこ)がお祀りしたところと云われており、歴史的に重要なところである。その科野国造が、崇神天皇*の代に、大和朝廷より科野国の国造に任命された、神武天皇の皇子・神八井耳命(カムヤイミミノミコト)の後裔**の建五百建命(タケイオタツノミコト)であると云われている。国府が小県に移る以前には、屋代、或いは雨宮辺りにあったという説もある。
 昭和4年発刊の『松代町史』には、森将軍塚古墳が建五百建命の墳墓であるという説が記されている。妻女山の麓にある会津比売神社***の祭神・会津比売は、建五百建命の后であると云う。よって信濃国造がお祀りした斎場山の麓(往古は山上にあったという)に神社を建立したと云われている。また、『諏訪旧蹟誌』に、会津比売命は、会知早雄命(現埴科郡坂城町鼠宿に神社)の娘で、信濃国造建五百建命の室(妻)とある(埴科郡誌・諏訪旧蹟誌)。尚、1996(平成8)年、会津比売神社新社殿建立の折りに「妻女権現」と記された木札が確認されている。斎場山(妻女山)と会津比売命の関係を示すものとして興味深い。また、『松代町史』には、諏訪大社祭神建御名方の次男熊野出速雄命(クマノイズハヤオノミコト)の海津垂跡説も記されている。それには、出速雄命(伊豆早雄)の御子が會津比賣命(出速姫神)であり、産土神として祀られているとある。松代の古名を海津というのは、伊豆または會津から起こったものではないかと記している。會津比賣神社御由緒参照
 建五百建命には二人の息子がいた。兄は速瓶玉命(ヤミカタマノミコト)と云い、阿蘇の地にくだり、崇神天皇の代に阿蘇国造を賜る。弟の健稲背命(タケイイナセノミコト)は科野国造を賜ったと云う。健稲背命の系図は、科野国造、舎人、諏訪評督、郡領、さらに諏訪神社を祭る金刺、神氏という信濃の名門へ続くと云われる。いずれも神話の域を超えないものであるが、記しておきたい。平安時代貞観年間、埴科郡の大領が金刺舎人正長のおりに、に出速雄命神が従五位上、會津比賣神が従四位下を授かっている。金刺氏は諏訪の末裔であり、それ故叙位を申請したものと記されている。
                                 ◆
 原初科野は、埴科と更級辺りであった。斎場山は、その中心にある。長野県考古学会長であられた故藤森栄一氏は、『古墳の時代』の中において、「四世紀頃、川中島を中心に、大和朝廷の勢力が到来して、弥生式後期の祭政共同体の上にのっかって、東国支配の一大前線基地となっていたことは事実である。」と記しておられる。その痕跡は、森将軍塚古墳・川柳将軍塚古墳・土口将軍塚古墳などに見ることができる。また、屋代遺跡群から七世紀の国司や郡司の命令が書かれた木簡が出土したことも付記しておかなければならない。
 そういうわけで、後年、征夷大将軍坂上田村麻呂が地蔵堂を建立したり、荘厳山政源密寺という上田の信濃国分寺に匹敵するような寺院があったのだということが推察される。弘法大師が立ち寄ったという伝説があるが、弘法大師の弟子、伴国道を鎮東按察使として陸奥・出羽の東国へ赴任させているので、実際は弟子だろう。笹崎山薬師如来の縁起参照
                                 ◆
 妻女山を語るに、戦国時代のみを注視していてはいけない。古代より全時代を通して俯瞰する必要がある。妻女山は、諏訪大社とも深い関係にある。戦国時代、「1488年(長享二)清野氏(正衡の頃か)諏訪社の下社秋宮宝殿造営の郷と定められている。」とあり。諏訪と清野は、かなり遠いが、この地はかつて科野国の斎場の中心であった。太古の昔から諏訪や大和朝廷とは深い関係にあり、その歴史と伝統は戦国の世までも継承されていたということではないだろうか。各時代における斎場山(妻女山)の山名の変遷を抜きにしては、この地の歴史は語れないのである。
 斎場山が妻女山になったのは江戸中期正保4年(1647)、『正保国絵図』が初出と思われる。赤坂山がはっきりと妻女山と称せられるようになったのは、明治以降からである(地図上では昭和47年以降)。つまり、戦国時代の妻女山を語るに於いては、赤坂山を妻女山としてはいけないということである。また、妻女山という名称もその時代にはまだなく、斎場山であったということである。読みが同じであるために、戦国時代の文章にはよくあるように西條山と誤記(宛字)されたのであろう。その西條山という山(正しくは山域・高遠山から狼煙山をいう)が、同じ松代藩内にあったことで、余計に混乱を引き起こしたのである。
                                 ◆
 1982〜1986年にかけて、長野市と更埴市(現千曲市)の教育委員会による土口将軍塚古墳の合同調査がなされたが、その報告書には、土口将軍塚は岩野と土口の境にある妻女山から西方に張り出した支脈の突端にあると記してある。つまり、円墳のある頂が、旧妻女山であり正式名称は斎場山なのである。それ以外に本来の妻女山はない。尚、斎場山が本来の名称であり、祭場山や妻女山は後世の俗名である。
 平成19年2月7日に、土口将軍塚は、埴科古墳群のひとつとして国指定史跡となった。信濃の国の起源とされる科野の国の史跡としての重要性が認められたのであろう。つまり、斎場山の山名記載が一層重要なものとなってきたわけである。土口将軍塚、斎場山古墳、堂平古墳群などは、千曲市により詳細な学術調査が行われ、2007年に報告書が完成している。しかし、堂平古墳群の蟹沢西上下の積石塚古墳群や二基の清野古墳と数基の塚、陣場平の積石塚古墳などは未調査である。(報告書では、斎場山の地名を誤って竜眼平とし五量眼塚古墳と命名しているが、ここは竜眼平ではなく斎場山である。よって千曲市教育委員会による五量眼塚古墳の名称は間違いである。また、竜眼平の正式名称は、御陵願平である)
 また、斎場山は、アサギマダラなど幾種類もの蝶が舞う自然豊かな、貴重な里山であることも記しておきたい。
*崇神天皇は、諸説あるが、実際は3世紀から4世紀初めに実在した大王という説が有力。科野は、信濃と呼ばれる前の呼称。
**神八井耳命--武宇都彦命--武速前命--敷衍彦命--建五百建命--速甕玉命・建稲背命、或いは神八井耳命の孫が建五百建命とも云う。『國造本紀』に、「神八井耳命の孫の建五百建命を、崇神天皇の御代、科野國造に定め賜はつた」とある。
***『日本三代実録』に「貞観8年6月甲戌朔条 (866)授信濃国無位武水別神従二位 無位会津比売神 草奈井比売神並従四位下」とある。
土口将軍塚は、会津比売命の墳墓という説もあるが、斎場山古墳が墳墓であるという説もある。だが建五百建命の室(妻)であれば、森将軍塚古墳に埋葬された可能性が高いのではないか。その他の古墳は代々のこの地の王の墓とみるべきであろう。
 現在の妻女山(411m)が、本来は赤坂山であり、本来の妻女山は、斎場山古墳のある頂き(513m)であるという事については、地元でも多くの人が知る事実であり、妻女山が本来は斎場山であるということも、ゆっくりではあるが、次第に共通認識となってきている。また、現妻女山は謙信本陣跡でも陣馬平でもない。戦国時代の妻女山(斎場山)が、江戸時代後期から明治時代に赤坂山へ名称が移動したのだから当然である。
 山名の記載追加、変更に関しては、現在、地元でも世間一般でも、赤坂山については妻女山という呼称が既に100年以上に渡り定着しているので、これを変える必要は地元の人も概ねないと考えている。地名が妻女山というのも、その根拠となる。間違いではない。但し、本来は赤坂山であるという記録は残さなければならない。薬師山も古来は笹崎山と称していた。土口将軍塚のある山も荘厳山と称していたようだ。時代により名称が変化することは、合理的な理由がある限り致し方ないことである。現在の妻女山が確定している限り、すぐ近くに同名の山を置くことは、さらなる混乱を招き兼ねないので、古墳の頂を妻女山と新たに記載することは考えにくいし、認められないであろう。ここは本来の名称の「斎場山」または「祭場山」とすべきである。
 いずれにしても現在最大の問題は、岩野から見て最も高い頂き「斎場山」に、国土地理院の地形図に名前の記載がないということである。これは例えれば、長野市の飯縄山、松代の皆神山、上田の太郎山、東京の高尾山に名前がなかったらと考えると分かる。岩野や土口の人々にとっては、現状はそういうことなのである。これを古来の通り、「斎場山」と記することにこそ意味があると考える。それにより、戦国時代のみがクローズアップされてきた「斎場山」の歴史に、古墳時代の陽も当たるというものであり、多くの歴史家や歴史マニアが誤解していた謎も解けようというものである。
 會津比賣神社の宮司であり、斎場橋で行われる奇祭「橋がかり神事」で知られる雨宮坐日吉神社(あめのみやにいますひよしじんじゃ)の片岡三郎宮司監修岩野編纂による『會津比賣神社御由緒』のむすびには、こう記されている。「此の地に生まれ育ちて、地についた神格たる産土神(うぶすながみ)を、朝な夕な尊崇し奉る人々の幸を、ひしひしと身に覚ゆる次第なり。(このような神社は日本で数社のみ)」。「斎場山」の名前を復活させることは、ここ信濃の国の起源・科濃の国に光を当てることである。また、この地に生まれし者のアイデンティティを確かにすることであり、村興し町興しの側面もある。なにより「斎場山」を伝え知る言葉少なき里人の切なる願いでもある。
上の写真をクリックすると岩野十二河原辺りから見た斎場山の180度のパノラマ拡大写真が開く。斎場山を中心にして、赤坂山と薬師山が鳥が大きく羽根を広げるように横たわっている様が分かる。また、斎場山を頭頂として御陵願平(龍眼平)が目、薬師山を鼻先とし、天城山、鞍骨山を胴として、躰をくねらせて横たわる龍のようにも見える。
下の写真をクリックすると斎場山パノラマ写真と山座同定が開く。斎場山(斎場山脈)を中心として謙信の軍勢が、左手の赤坂山、右手の薬師山、麓の斎場原に布陣した様が想像できるのではないだろうか。この写真の中央やや右、最も高い山が現在名無しの状態にある斎場山(俗名妻女山・現在は地形図上では名無し)。
●土口将軍塚古墳のシルエットがはっきりと分かるパノラマ写真は、こちらをクリック!
妻女山・斎場山・天城山の位置関係が分かるカット
●左は、斎場山からの360度パノラマ3D地図。「国土地理院の数値地図25000(地図画像)『松代』」をカシミール3Dにて制作。

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