斎場山(妻女山)からの360度パノラマ
●パノラマ地図は、左から、北西-北-東-南-西-北西の360度。作図上の関係で斎場山上空25mで設定しているので戸神山が見えているが、実際は見えない。山名・地名は、古いものを記載した。川中島合戦軍記や物語でお馴染みの地名を選んだ。
 千曲川は、雨宮と清野で、現在よりも大きく南流していた。千曲川は、一級河川としては比類無いほど水量の増減が大きい。第四次川中島合戦の際は、秋の長雨の後の渇水期にあたり、水量はかなり少なかったと推察される。
 戌ケ瀬とは、犬でも渡れる浅い瀬を意味する。猫ケ瀬はもっと浅いということ。十二 ケ瀬は、いくつもに分流し、中州がたくさんあった事が推察される。
 陣場平が平坦である様や、堂平が海津城からは見えないこと、なにより斎場山の見晴らし良さが際立つ。やはり本陣としては最適な場所だったと思われる。
 雨宮の斎場橋は、古代科野の国の国府が雨宮か矢代にあったと云われる頃、この地の大王がこの橋を渡って斎場山へ土口から斎場山へ登り、袷祭に訪れたと伝わる。
■「国土地理院の数値地図25000(地図画像)『松代』」をカシミール3Dにて13歳の林大樹が制作。

●斎場山は、科野国の国府が埴科にあったかもしれないとされる古代(その後小県に移る)天神山祗を祀る聖なる霊場。科野国造(しなののくにのみやつこ)が袷祭した重要な場所であったと伝わる。
また、平安時代になってからも、大穴郷などの重要な斎場であったと思われる。土口将軍塚・斎場山古墳・坂山古墳・堂平古墳群・笹崎山古墳・北山古墳などがある。
 雨宮廃寺と雨宮坐日吉神社、笹崎山(一名薬王山)政源密寺と會津比賣神社の関係など、仏教が伝来し、盛んになった大和・奈良時代から、
平安時代における菅原道真の建議による遣唐使の廃止により神道の隆盛と国風回帰、それに伴う寺社の盛衰等が、此の地でもあったと思われる。
 『日本三代実録』貞観四年(862)三月の項に三月戊子(廿日)信濃国埴科郡大領金刺舎人正長(かなさしのとねりまさなが)・小県郡権少領外正八位下 他国舎人藤雄等並授、借外従五位下 とある。
里俗伝によると、埴科郡の郡司の筆頭・大領の金刺舎人正長が大穴郷にいたということである。
 同じく『日本三代実録』によると、会津比売については、貞観8年6月甲戌朔条 (866)授信濃国無位武水別神従二位 無位会津比売神 草奈井比売神並従四位下 とある。
会津比売命(あいづひめのみこと)は、会津比売神社御由緒によると科野国国造・建五百建命の妻とされるが、諏訪大社祭神建御名方命(たけみなかたのみこと)の次男熊野出速雄命(くまのいずはやおのみこと)の妻女でこの地の産土神(うぶすながみ)ともいわれる。定かではない。
森将軍塚古墳が建五百建命の墳墓、土口将軍塚古墳が会津比売命の墳墓とも云われる。また、天城山の坂山古墳が出速雄命の、斎場山古墳が会津比売命の墳墓という説もある。いずれも定かではない。今後の調査研究が待たれる。

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