『第四次川中島合戦』啄木鳥戦法の検証
未だかつて誰も描いたことのなかった武田信玄別働隊の斎場山襲撃経路図。本邦初公開!
(禁無断転載)

●国立国会図書館近代デジタルライブラリーより 著作権保護期間満了書

 啄木鳥戦法という言葉の初出は、江戸後期に信濃で書かれた『甲越信戦録』であろう。但し、『甲越信戦録』には、二種類ある。川中島合戦の実録がないことに気付いた三代将軍徳川家光(1623年-1651年在職)の命により、越後長岡城主牧野備前守忠精の家臣山本主計が編集して出版献上した『甲越信戦録』五巻。これがオリジナル。この書に旧武田方家臣は、『甲陽軍鑑』『武田三代記』『信玄全集』と記述が異なると異議を唱えたが、足利11代将軍義澄の末子、南光坊僧正の「甲州の記したものは武田の悪事や非分を覆い隠し、虚談が過ぎるが、謙信は事実と異なる記述を嫌ったゆえ、事実相違ない」と進言し、家光が実録として認めた経緯があるが、真偽のほどは分からない。
 そして、約200年後の江戸後期、文化7年(1810)以降に川中島で書かれた作者不詳の『甲越信戦録』八巻。前記の『甲越信戦録』を元にして、『甲陽軍鑑』、『武田三代記』、『北越軍記』、『本朝三国志』等の12の版木本と、『川中島評判記三巻』、『諸家見聞記』、『佐久間竹庵記』等の写本に加え、地元の口伝をもとにして執筆された戦記物語であり、創作も多い。俗名「妻女山(さいぢょやま)」という記述は、この書と同時代の土産物『川中島合戦図会』により善光寺平に広まったと見られる。啄木鳥戦法も然り。
 『甲陽軍鑑』には、啄木鳥戦法という言葉は出てこない。ここでは、明治16年に『甲越信戦録』を忠実に木版本にした西沢喜太郎編『実録甲越信戦録』を意訳してみた。

 山本勘助が信玄に「この度の軍術木啄(ぼくたく・きたたき・啄木鳥)の木をつついて虫を取るに朽つる穴を構わず後ろの方を嘴にてたたき候 故に虫は前に現るを喰い候 この度の軍法ははばかりながらこれに等しく存せられ候と申し上げる。」と提唱したと書かれている。さらに、「半進半退の繰分と唱え、味方二万余の御勢を二手に分けて、一万二千を大正(たいせい)の備え、八千余人を大奇(たいき)の備えとし、一万二千の大正をもって夜中に妻女山に押し寄せ、不意に切って入らば、さすがの謙信もこれに驚き山を逃げ下り、川を渡るところを、味方八千余人と引率し川中島に備えを立て、越後勢が犀川の方へ渡らんとするところを待ち構えて、ことごとく討ち取ることは、礫(つぶて)をもって鶏卵を打ち砕くに等しい。味方の勝利は疑なし。」と続く。
 しかし、海津城での炊飯の煙を見た謙信は夜襲があると気づく(実際は忍びの偵察により判明したと思われる。)。「諸葛孔明名付けて半進半退の術と云い、日本にては繰り分けの術と云えり。」と見破ったと記されている。これは、中国春秋時代、呉の将軍・孫武が書いた兵法書『孫子』の軍争篇の一説、「辞卑而益備者、進也、辞彊而進驅者、退也、輕車先出居其側者、陳也、無約而請和者、謀也、奔走而陳兵車者、期也、半進半退者、誘也」。つまり、『辞卑くして備えを益す者は、進むなり。辞彊(つよく)して進駆する、者は、退くなり。軽車先ず出でてその側に居る者は、陣するなり。約なくして和を請う者は、謀るなり。奔走して兵車を陳(つら)ぬる者は、期するなり。半進半退する者は、誘うなり。』という文章からの引用である。
 啄木鳥戦法という言葉は、どこにも出てこない。

 おそらく『甲越信戦録』の作者によって、江戸時代後期に命名されたであろう啄木鳥戦法であるが、キツツキにそのような習性はない。森で観察すると分かるが、キツツキは、幹の周りを螺旋状につつきながら登っていく。ドラミングの際の音の変化で樹皮の下に虫がいるかどうか分かるのだそうだ。虫がいるとみるや猛烈なドラミングを開始し、虫が逃げるより速く木に穴をあけ、長い舌にひっかけて引きずり出し食べてしまう。おそらくこの螺旋状につつきながら登っていく様を、裏をつついて反対に追いやると勘違いしたのであろう。
 では、啄木鳥戦法は無かったのだろうか。それまでの信玄は、謙信の気勢をそぐような動きばかりしていた。謙信がいないところを見計らって信濃を攻略し、謙信が責めてきても真正面から迎え撃つことはしなかった。それが信玄の戦い方であった。領土拡大が目的であれば、このような作戦はとらなかったと思われる。俗に武田別働隊といういいかたをするが、一万二千を大正の備え、八千余人を大奇の備えとあるように、むしろ別働隊のほうに人数をさき、必ず謙信の首を取るという強固な意志が感じられる。別働隊には、高坂弾正はじめ地の利を知る信州先方衆がつとめた。
 啄木鳥戦法は、よく歴史本で描かれているような象山の尾根を辿ったり、清野の山裾を徘徊するような小さな作戦ではなかったようだ。また、一万二千の軍勢が狭い尾根を一列に行進するような滑稽な様でもなかったはず。鏡台山から斎場山、薬師山、赤坂山までの埴科山脈〔戸神山脈(大嵐之峰)、鞍骨山、鷲尾山、天城山、唐崎山〕と麓の一帯を使った壮大な作戦だったのではないだろうか。
 『甲越信戦録』に書かれている内容は、古い地名が出てくるので地元の人でもなかなか理解できないが、その経路を図式化すると、この作戦の規模の大きさと信玄の並々ならぬ謙信撃退の執念が感じられる。もちろん史実だとすればの話だが。
 
 『甲陽軍鑑』には、この啄木鳥戦法の詳細は全く書かれていない。別働隊を率いたという高坂弾正が元となるものを綴ったというにしては不可解だが、国語学者の酒井憲二氏による木版印刷本ではない写本の『甲陽軍鑑』研究によると、小幡景憲が手に入れた原本は、痛みが激しく読みとれない部分も多くあったと記されているという。別働隊に関する部分が、判読不能かごっそり抜けていたとしても不思議はない。啄木鳥戦法はなかったという説もあるが、修正ならともかく、全くの無から創作したにしては、地名の記載があまりにも細かく具体的である。真偽のほどは別にして、意外なほどその経路の詳細が検証されたことがない(細かな地名が分からないと不可能だからか)啄木鳥戦法を図式化すると、想像以上に大規模な戦略であったことが分かる。

 江戸後期の『甲越信戦録』には、別働隊の動きをこう記してある。
 「武田方の妻女山夜討の面々は、子の刻に兵糧を遣い、子の半刻(月が隠れる午前1時頃)に海津を出べし。経路は西条の入より、唐木堂(坂城日名の方へ出る道なり)越に廻るべし。これより右手の森の平にかかり、大嵐の峰を通り、山を越えて妻女山の脇より攻め懸かるなり。この道は、甚だ難所なれども、ひそひそ声にて忍び松明を持ち、峰にかかり、谷に下り、あるいは山腹を横切り、次第に並ぶ軍勢これぞひとえに三上山を七巻き纏いしむかでの足卒苦して打ち通る。」
 「唐木堂」とは、西條から坂城日名へ越える峠道の途中で、旧西條村字稲葉の上の字森野にある地名。高遠山北面、戸神山(三瀧山)西面のかなり標高の高い場所になる。「右手の森の平」とは、戸神山北の大嵐山との間にある高低差のない平坦な尾根のことだろう。ここから鞍骨や倉科へ通じる。
 「峰にかかり、谷に下り、あるいは山腹を横切り」とある。峰にかかりとは大嵐の峰や鞍骨の尾根を表し、谷に下りは倉科や生萱の谷へ下りたことを表し、山腹を横切りとあるのは鞍骨城の南面の道や堂平を横切って陣場平に攻め込んだことを指すのではないだろうか。西条の唐木堂から坂城日名の方へ出る道は、戸神山(三瀧山)で倉科へ下る傍陽(そえひ)街道とも繋がる。倉科に下れば、倉科坂を二本松峠から天城山へ登るもよし、倉科尾根に登って堂平経由で陣場平へ攻め込むもよし、倉科から生萱の山裾を巡り、土口笹崎から攻め上がるもよし、斎場山(妻女山)の上杉軍も各所に分かれて布陣しているわけだから、それに見合う部隊を各所へ攻撃に充てればいいわけである。
 倉科の天城山の西にある二本松峠下の谷には、「兵馬」という地名があり、里俗伝に武田別働隊が西条から戸神山脈を越えてきた兵を集めて斎場山襲撃に備えたところといわれている。

 そして、上杉軍の動きは、こう記してある。
 「越後方は、月の入りを待って、静かに用意をして、丑の中刻(午前3時頃)妻女山を出給う。直江、甘粕、柿崎宇佐美の諸将は下知し、十二ヶ瀬、戌ヶ瀬を渡った。謙信公も戌ヶ瀬を渡るなり。直江山城守は、小荷駄奉行として、人夫に犀川を渡らせ、自分は丹波島に留まる。甘粕近江守は一千余人で東福寺に留まり、妻女山に向かいし敵兵が出し抜かれて、やむなく川を渡ろうとするのを阻止するため川端に陣を備えた。」

 また、『信濃史料叢書』の『眞武内傳』附録一 川中島合戦謙信妻女山備立覺には、「九月九日の夜、信玄公の先鋒潜に西條山の西山陰に陣す」とあり、夜襲に備えて予め西条の入か唐木堂辺りに先鋒隊が潜んでいたと記されている。西條山とは、高遠山から狼煙山のことである。軍勢の多さからすると、主に唐木堂越と大嵐山への二つのルートで登り、大嵐の峰(戸神山脈)で更に隊を分けて、一部は尾根づたいに、一部は倉科、生萱、土口に下りて、数カ所から妻女山へ向かったと見るのが妥当だと思われる。
西条山は、生萱村誌に「高飛(高遠山)、火峯(ノロシ山)の山脈(属西条山)」とあるので、高遠山から狼煙山、舞鶴山への山脈を指すと思われる。また、榎田良長『川中島謙信陳捕ノ圖 一鋪 寫本 』では、やはり高遠山中腹辺りに西条山の記載がある。
★戸神山は『埴科郡誌』の命名によるものだが、その名称と位置については、疑問も多い。戸神山についてはブログ・モリモリキッズの「武田別働隊はいずこへ、三滝山と戸神山の謎!」と「続 武田別働隊はいずこへ、三滝山と戸神山の謎!」に詳しく書いてある。

 
 倉科と傍陽を戸神山越えで結ぶ傍陽街道(明治の村誌には幅九尺とある)や、倉科と清野を二本松峠を越えて結ぶ倉科坂(清野街道)などは、近代まで盛んに使われていた道であるし、清野の赤坂山の麓の道島から、赤坂山(現妻女山)を登り、東風越(長坂峠)から斎場山を巻いて長尾根から薬師山へ辿り、土口へ下りる道は、斎場越・清野道などと呼ばれ、江戸時代には大名行列も通ったとされる重要交通路である。当時は、電車やバスがないのだから、峠を越えて行き来することは普通のことであった。そのため、峠道もよく整備されていたと思われる。 特に笹崎の先は、現在のように堤防はなく、洪水の度に通行できなくなったそうであるから、山越えの道は欠かせなかった。谷街道も、江戸時代の絵図によると、現在のように笹崎と千曲川の間ではなく、笹崎の先端の尾根を越えていた。五里ケ峯に一部が残る「勘助道」のように軍道もあったのではないだろうか。西条から鏡台山を越えて坂城の日名へ抜ける道は、俗に「猿飛越」といわれたそうである。

 『川中島五箇度合戦之次第』には、「信玄は、戸神山中から信濃勢を忍ばせて、謙信陣の背後を突かせようとする。」とある。戸神山中とは、埴科郡の中心にある1269mの鏡台山から北へ1185mの戸神山(三滝山)を経て、977.5mの大嵐山(杉山)から御姫山を巻いて鞍骨山、天城山、斎場山に至る峰をいい、戸神山脈という。また、大嵐山(杉山)の南北の尾根は大嵐の峰ともいう。
 上杉軍を川中島へ追いやるには、妻女山後背の天城山(ここを妻女山と誤記した絵地図や歴史研究本が多数)はもちろん、矢代への退路を断つため唐崎城と雨宮の渡の間を塞ぐ必要がある。そこで一部は土口側から襲撃したのではないかと私は考える。第四次川中島の合戦は、永禄4(1561)年9月10日。これは現行暦に直すと10月28日とされる。信州ではまもなく小雪が舞う季節である。両雄にとって決戦は待ったなしの状況にあったと考えていいだろう。
 霧は千曲川、犀川で発生し、やがて自然堤防を溢れて里へ山へと押し寄せる。川中島の濃霧は大河ドラマのように山から霧が出るわけではない。忍び松明での行軍は決して容易なものではないと思うが、霧が出る前の夜は必ず晴れて空気が澄む。当日の月齢は、概算で9日目ぐらい、半月よりやや大きい程度。晴天ならばそこそこの明るさはあったと推察できる。行動を起こしたのは月の入りを待ってからとあるが、妻女山からは見えないところなので、先鋒隊が西條山の西山陰に潜んだのは、もっと早い時間ではなかったかと思われる。
 しかし、それほどの壮大な計略が、謙信によって読み取られ、ほぼ無人の妻女山へ攻め入った別働隊の驚愕の表情と血の気が引いたであろう様は、想像に難くない。
 いずれにしても、川中島合戦は江戸時代の分厚いフィルターがかかっており、史実と創作が混在している。しかも、秀吉による国替えなどにより信濃武士が全国に散らばり、史料が散逸してしまい地元にないのも研究を困難にしている。眠っているかも知れない第一級史料の発見や、さらなる古文書などの分析研究が待たれる。
▲江戸時代の人が伝える上杉軍斎場山布陣経路図(青線)・武田別働隊斎場山襲撃経路図(黄線)
倉科からは、戸神山から真田の谷へ越える傍陽(そえひ)街道があった。倉科から清野へは、倉科坂(清野街道)があった。
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