| 妻女山字図 | ||
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| ●上の地図で、緑色が字「妻女」で岩野の分。桃色が字「妻女山」で清野の分。岩野側の「山裏(山浦)」と「妻女」は、実際はもう少し複雑に入り組んでいる。 岩野村の字では、「山裏(浦)」という字に妻女・赤石、『長野県町村字地名大鑑』には記載がないが、斎場山への険路の登山口に前坂という地名がある。「妻女」という字には天上・ノケダン・舟窪という地名がある。「妻女」に斎場山という地名の記載がないが、命名した者達が、おそらく会津比売命、あるいは別の王の眠る斎場山に畏敬の念を感じて、天上と名付けたのであろう。天上とは、仏教の六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)の最高位をいう。斎場山こそは、まさに天上といえる場所なのである。地元では、さらに敬意を込めて御天上と呼ぶ。ちなみに、この輪廻の道から外れたものを俗に外道(魔縁)という。個々の字名、地名については、更に調査中である。また、行政区分が合併により大きくなり、本来の字という名称は無くなったが、岩野村の段階では、妻女は字である。 清野村の「清野山」には、「妻女山」という字に赤坂山・チゲ窪(千ガ窪)・稲荷山・妻女という地名がある。また、「月夜平」には水ノ平という地名がある。いずれも第四次川中島合戦の軍記に登場する地名であるが、今は地元の人でも地権者や歴史好きでなければ知らない人が多い。 『信濃史料叢書』第四巻に「一笹崎の上薬師の宮、謙信本陣也。 此下東風越と云う所あり、其下北にをりて十四五間行て水あり。」とある。笹崎の上薬師の宮とは、現在の薬師堂の位置ではなく、もっと広い御陵願平辺りにあった可能性もある。東風越とは、斎場越しの岩野と土口を跨ぐ峠のこと。「本陣(斎場山)の下に東風越があり、そこを北に下りてから(現在の会津比売神社西に下りる沢がある)25mほど行って水あり」とは、正しく謙信槍尻之泉のことである。 本来の妻女山の南、土口の埜(や=野の古字)には「妻女台団地」がある。現妻女山しか知らない人は、なぜ妻女なのかと不思議に思うだろうが、本来の妻女山の麓にあるのだから理にかなった名称である。これを命名した人の見識の深さが知れる。また、雨宮音頭には、「天城(てしろ)招くよ妻女山」という歌詞があるが、これは本来の妻女山のことである。天城山から現妻女山(赤坂山)は見えない。斎場山は、お互いの古墳が呼応するようによく見える。一説には夫婦の墓、或いは父子の墓とも云われている。 尚、笹崎の先端に神社のマークと建物の印があるが、この神社は存在しない。水天宮ならもっと岩野側にあり、袖振観音ならば高速のトンネルのすぐ南側にある。いずれも祠程度のものである。むしろ社殿のある会津比売神社の記載が無いのが不自然である。残念ながら国土地理院の地形図には、以外と間違いが多い。 ●斎場山こそが、地元で代々上杉謙信の本陣跡と伝承されてきた場所であり、床几塚、謙信台、龍眼塚(御陵願塚)ともいう。円墳の上に楯を敷き、周囲に陣幕を巡らせて猿楽に興じたという。千人窪(転訛してチゲ窪)は、清野の字妻女山にある地名だが、江戸後期の絵図では、更に尾根をひとつ越えた宮村南の谷を千人窪と描いてある。また、妻女山(斎場山)の南西という古誌の記述もあり、土口側にもあったのかもしれない。上杉軍13000人の兵が布陣するわけだから、千人窪が複数有っても不思議ではない。但し、はっきりと地名として残っているのは清野側のチゲ窪だけである。 また、武田別働隊が、戸神山脈から妻女山への険しい山道を大群で越えられるはずが無いという歴史研究家がいるが、倉科坂、唐木堂越えに見られるように、昔は峠越えは当たり前のことだった。主なる峠越えの道や尾根道は、牛馬を牽いて歩ける広さがあり、急斜面は綴れ折りの道があった。以前わが家がよく登った旧甲州街道の小仏峠や、大菩薩峠に通じる旧青梅街道などをみると、そのことがよく分かる。幕末の頃、わが家の先祖の娘二人が清野と倉科へそれぞれ嫁いだが、二人は倉科坂を使って頻繁に行き来していたそうである。父の話では、妻女山から鞍骨を巻き、戸神山脈を通ってなんども鏡台山へキャンプに行ったということだ。驚くべきは、大正時代には、埴科郡(松代・屋代・戸倉・坂城など3町14村)の小学校高学年が、埴科郡の中心に位置する鏡台山にキャンプ登山をし、頂上の広場(北峰)で合同の運動会をしたという。 思うに、戦国時代の馬は短足で足腰の強い木曽馬のような種であるし、歴戦の武将が通れぬはずはない。加えて鞍骨の巻き道は、尾根の南面を通るため、鎧の音や馬の嘶きは妻女山には届かなかったはずである。私達が鞍骨に登ったときに、妻女山から天城山で大掛かりに猪の駆除が行われていた。二日で40頭余りが駆除されたというが、鉄砲の音は一度も聞こえなかった。また、戸神山脈に登った別働隊は、その数からして尾根上で隊を分けて一部は倉科へ下り、生萱・土口から妻女山一帯を急襲したと思われる。斎場山の上杉軍も一箇所に固まっていたわけではなく、斎場山脈と斎場原各地に布陣していたと云うのだから。そういう攻撃方も成り立つのではないか。 ●『長野県町村誌』第二巻東信篇【岩野】に、「【妻女山】高及び周囲未だ実測を経ず。村の南の方にあり。嶺上より界し、東は清野村に属し、西南は土口村に属し、北は本村に属す。山脈、南は西條山に連り、西は生萱村の山に接す。樹木鬱蒼。登路一條、村の南の方山浦より登る。高二十一町、険路なり。」とあるが、上の図の岩野駅南から登る険路・前坂のことである。外部の人はもちろん、地元でも知る人は少なくなった。養蚕が盛んな時代は、数十キロの肥料を背負ってこの道を登ったという。現在はほとんど登る人はいないが、この記述により妻女山は斎場山であったということが分かる。西南は土口という記述からも明白。現妻女山展望台を巻いて登る広い林道は、昭和30年以降に通じたものであることを忘れてはいけない。それ以前は、林道は単なる作業道で、他には謙信槍尻之泉から招魂社裏手の斜面に登る作業道が何本かあったのみである。 ★前坂から斎場山へ険路を登ったフォトルポ ●上図右上に「猫ケ瀬」があるが、猫でも渡れるほど浅い瀬という意味である。千曲川は、一級河川としては類を見ないほど水量の増減が激しい。「猫ケ瀬」は、往古は「龍王ノ渡」といったと『信濃史料叢書』にあるが、龍王という地名は、更埴ICの南西にあり、千曲川の旧流沿いである。『信濃宝鑑』には、「龍王城址」として、「雨宮県村字雨宮の西北千曲の南辺小字諸王(長野県町村字地名大鑑では龍王)にありて、湟形を存せり、天正中清野清壽軒の息、佐左衛門佐信昌居城せりと云う。」とある。清野氏の居城ということで、清野沖にある「猫ケ瀬」を「龍王ノ渡」と勘違いしたのであろうか。森に清野氏の建てた禅透院があるように、雨宮もまた岩野と同様に清野氏の支配下にあった。唐猫ノ瀬と猫ヶ瀬の混同もあるのかもしれない。尚、旧流は上の地形図の長野電鉄河東線の文字に沿って流れていたということなので、当時の「猫ケ瀬」は、赤字の辺り・中道島であろう。猫島という中州であったと思われる地名が残る。 また、「唐猫」とは「土口瀬」のことで、笹崎の下(上流側)になる。「雨宮ノ渡」とは、「唐猫ノ瀬」のことであるとある。「戌ケ瀬」は、岩野橋の辺りと解説してある本が多いが、現在、篠ノ井橋の右岸上流側のたもとに「戌ケ瀬」の字があるので、本当はその辺りかもしれないが、浅瀬の場所は変わるため、後年地名のみが上流へ動いたのかも知れない。「岩野十二ケ瀬(十二河原)」は、現在の「川式か赤坂河原」辺りと思われる。川式に十二という地名が今も残る。十二の河原があるほど分流して中州が多かったと思われる。河川敷の等高線にその痕跡が残る。川筋が当時とは異なるので、場所は現在の地図とは完全には一致しないが、どうやら旧流沿いに古い地名は残っているようだ。 ●字名は、中世から江戸時代に継承された村名や地名を明治時代になって大字小字として継承されたものだが、小字は検地の行われた年度によって変わることも多く、必ずしも現在の地域や名称と一致しない場合がある。また、農民の呼称をそのまま記述しているため、元の意味が分からず漢字表記ができないものも少なくない。例えば、岩野の字芦原には、「ケカチ」という地名があるが、地元でこれを漢字で書ける人はいない。しかし、「ケカチ」という地名は全国にあり、その語源は「飢渇(けかつ)」で、意味は飢饉である。つまり、飢えた痩せた土地を意味する。また、転じて飢饉の際にも作物が採れるいい土地という意味にも使われることがある。さらに、字笹崎には、「御陵安平」という地名があるが。これは正しくは「御陵願平」であり、それが間違って伝えられたものである。その上転訛して現在は「龍眼平」或いは「両眼平」という。清野や西条には「野郎泣セ」という地名があるが、これは屈強な男も泣くような急斜面をいうのだろう。鞍骨城の南面は「北の人」という不思議な地名だが、大嵐山の北面には「南の人」という地名がある。由来が知りたいものだ。山名も、西条でいう大嵐山を倉科では杉山といい、戸神山を三滝山という。尾根の反対側で山名が違うというのは、全国津々浦々よくあることである。上の地図の字名や地名は、集落の皆が知っているわけではない。そこに畑や山を持っていなければ、普段使うことはないので知らない場合も多い。例えば、「今日は起目の畑に行って来る。」「妻女の山に樹を植えてくる。」とか言うわけである。畑を持っていなければ使うこともないので覚える必要もない。実際は、もっと細かな地名があり、時に転訛して呼ばれる。例えば「前坂」は、「めえざか」のように訛る。そればかりでなく、前述の「ケカチ」のように口伝で伝わると、元の漢字が分からなくなるものもあるわけである。自然地名は、使われてこそ意味がある。地域文化(歴史・自然・環境・開発・保護など)のために、地元自治体も地図作成者も、登山者やハイカー、自然愛好家だけでなく一般の市民の方も、自然地名に、もっと感心と責任を持って欲しいと思う。 ●現在、市町村境は山脈や山を境に決められることも多いが、車や電車のない古来は、氾濫源の平野より峠越えの方が早く、通行も活発であった。埴科郡がその良い例で、鏡台山を中心に、松代、屋代、戸倉、坂城(2町15村、後に5町10村)で構成されていた。例えば松代にとっては、千曲川対岸の篠ノ井、長野よりも歴史的に、また生活的にも埴科の方が身近であったということである。これは、全国に見られる。親戚が、新しい国道沿いではなく、山を超えた村に多くいるという事例が見られるのである。嫁取坂などという地名も残る。自動車や鉄道ができて、生活圏や交通が一変し、歴史的なつながりが切れてしまった例は、全国に無数にある。生活圏や行政区が、見通しの良い盆地ではなく、山を中心にしてその周囲でまとまるという事は、現代人の感覚ではなかなか理解しがたいことであるかもしれない。 ■国土地理院の数値地図25000(地図画像)『松代』を使用。黒い文字以外は筆者が記載。 参考文献:『長野県町村字地名大鑑』長野県地名研究所 昭和62年11月3日刊 注:全ての地名が載っているわけではない。 参考文献:『信濃史料叢書』第四巻 1913(大正2)年編纂全五巻 眞武内傳附録(一)川中島合戦謙信妻女山備立覺 |
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| ■国土地理院の数値地図50000(地図画像)『長野』大正元年測量と昭和35年修正を使用。禁無断転載! | ||
| ■岩野村管轄沿革 | ||
| 貞観中(850年頃)埴科大領、外従五位下金刺貞長の領地たり。口碑に此の人同郡雨宮村に住す。金刺貞長は神八井耳命(カムヤイミミノミコト・神武天皇の子)の孫なり。其後養和(1181年頃)は左大弁師能領となり、後忠清法師の領となれり。爾後(ジゴ・その後)多く年所経て、大佛陸奥守貞直の領地となると云う。貞直、元弘三年(1333年・南北朝の頃)北條氏に従い滅亡す。後領主不詳。近古に至り、村上氏武威盛なるに及びて同氏の領地となる。大塔記に応永七年(1400年)九月川中島大半、村上氏の領分とあり、本村其族清野氏の領地となる。天文二十二年(1553年)八月清野美濃守入道清寿軒、村上義清に従い、武田晴信と上田原に戦い、敗れて義清は越後に走り、上杉景虎に頼る。晴信侵入する連年、天文、弘治年間(1555年)清野氏の居城を陥る。清寿軒また逃れて越後へ走る。舎弟治部小輔武田氏に降り、西條村に移り、本村武田氏の所領となる。永禄三年(1560年・軍鑑に天文二十二年とあるは誤りなり、今松代通記付録に拠る)武田氏、山本晴幸に命じ、海津城を築き、春日弾正忠昌宣移りて城代となり、本村を管轄し、後其領に帰せしと見ゆ。天正六年(1578年)其男源五郎之に代わる。天正十年(1582年)三月武田勝頼滅びて、織田信長の所有となり、其臣森勝三長可(後武蔵守長一)海津城に移りて領す。六月信長弑(シイ)せられ、長可西上す。七月上杉景勝大挙して、北條氏直を村上郷に破り、奥四郡(更級、埴科、水内、高井)を取り、幕下に与う。村上源五景國、海津城代となる。後上條義春、須田満親交代管理す。本村其私領に属せしか不詳。慶長三年(1598年)三月豊臣秀吉上杉氏の封を奥州會津へ移し、田丸中務大輔直昌海津城へ移して領す。五年森右近太夫忠政之に代わる。八年作洲津山城に移り、松平上総介(後少将)忠輝代わりて領す。十五年越後福島城に移り、其臣松平遠江守吉成(花井左衛門)松城に居城して之を管轄す。十五年其男花井主水吉雄襲管す。元和二年(1616年)七月忠輝故有て封を除かれ、松平伊予守忠昌、松城城に来て領す。爾後(ジゴ・その後)信濃守幸民まで十世襲領す。明治二年(1869年)六月藩籍を奉還し、松代藩となり、四年七月松代縣となり、十一月長野縣管轄となる。 出典:『長野県町村誌』第2巻東信篇 昭和11年発行 調査:明治13〜15年 岩野戸長窪田金作氏への聞き取り調査より |
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