上杉謙信斎場山布陣想像図
未だかつて誰も描いたことのなかった江戸時代の人が伝える上杉軍斎場山布陣図。本邦初公開!(禁無断転載)
●『甲越信戦録』等の記述や地元の伝承による上杉軍の布陣の形を想像図にしてみた(史実とは証明できない)。この時、千曲川対岸には、横田、小森、東福寺、杵渕、水沢まで武田軍が対陣し、謙信の善光寺や越後への退路を断っていた。信玄の全軍が海津城下に入ってからは、謙信は当然陣形を変えたと思われる。
 「一の手は、直江山城守が赤坂の下。二の手は、甘粕近江守が清野出埼を陣として月夜平(物見場)まで。三の手は、宇佐見駿河守が岩野十二川原に。四の手は、柿崎和泉守が土口笹崎に。五の手は、村上入道義清が務める。(雨宮坐日吉神社に布陣)」とある。本陣西脇の御陵願平(龍眼平)や斎場山から陣馬平への平地は、上杉謙信の本隊が固めたと云われる。
 本陣というものは、全軍の動静を一望にできる場所に設営するというのが常道であるから、陣馬平では、前の斎場山が邪魔になって岩野(斎場原)や茶臼山、千曲川対岸が見えず、赤坂山では、やはり斎場山が邪魔になって薬師山や、低すぎて後背の陣馬平が見えない。やはり斎場山古墳上が、最も本陣に相応しい場所といえるのではないだろうか。但し、信玄が全軍を海津城に入れてからは、城がよく見える陣場平に本陣を移した可能性もあり、それが陣場平が本陣跡と地元で伝わる所以かもしれない。『甲陽軍鑑』の編者といわれる小幡景憲彩色の『河中島合戰圖』には、陣場平辺りに謙信公御陣所として、門のある柵に囲まれた陣所の中に立派な社殿のような建物(陣城・陣小屋)が七つほど描かれている。妻女山とは、女人断ちの謙信ならではの命名のという伝承もあるが、間違いなく後世の作り話である。
 和田峠越えから上田原に出た信玄は、腰越で高坂弾正の使者に謙信が斎場山に布陣するのを聞き、千曲川右岸の谷街道を通って海津城へは行けないことを悟る。上田から真田、地蔵峠を越えて海津城へ向かうことを進言された信玄だが、左岸を進み、小牧山、室賀峠、山田、若宮、猿馬場の東方を経て茶臼山(有旅茶臼山とあるが、石川茶臼山の説もある)に布陣する。そして、雨宮に真田、戌ケ瀬に飯富、横田に甘利、御幣川に内藤、小森に原、東福寺・水沢に望月、海津城に高坂と、斎場山山塊を囲むように千曲川対岸にずらりと布陣、謙信の退路を断ったと云われている。
 尚、上の写真において、岩野十二ヶ瀬は赤坂山の先という説もあるが、十二という地名が写真の文字の場所に実際にあるので、この辺りで間違いないだろう。当時の千曲川は、天明年間「国役御普請」が行われ谷街道が麓に開かれるまでは、赤坂山(妻女山)にぶつかるように流れていた。赤坂山の北側は、広大な千曲川の氾濫原で、斎場山や赤坂山は天然の要害であった。雨宮の渡には、唯一橋があったという説もある。土口には宇佐見駿河守が作らせたといわれる宇佐見橋が今もある。
解説:『甲越信戦録』とは、三代将軍家光の命で越後長岡城主牧野備前守忠精の家臣山本主計が編集して出版した『甲越信戦録』五巻を主軸として、江戸後期、文化7年(1810)以降に書かれた作者は不詳の伝承も取り入れた全八巻の戦記物語。史料としての価値は低いが、全てが作り事というわけではない。川中島の地元の人の想いも込められた良書であるが、啄木鳥戦法(本来は中国春秋時代の呉の将軍・孫武が書いた兵法書『孫子』の軍争篇の半進半退の術)や妻女山(本来は斎場山)などの創作も多い。妻女山の名称を広めたのは、この書と土産物に売られた川中島合戦絵図であるが、命名者は他にいる。
 上の写真で千人窪が二カ所あるが、地名として残っているのは上のチゲ窪(千ゲ窪が転訛)であり、下のものは江戸時代の絵地図に記載されている場所である。地元では、千人窪、千ゲ窪、千人ゲ窪など色々な呼び方がある。宇佐美橋は、現在はコンクリート製で、車で渡れる。誤ってうさぎ橋という。
斎場山全景を見るには、麓の岩野橋と新赤坂橋の中間の土手から見るのがベスト。本陣であったと伝わる斎場山を中心として、左に赤坂山(現妻女山)、右に笹崎山(現薬師山)のパノラマが見られる。その場所で上の布陣図を想像するのもいいだろう。展望台だけで帰る人がほとんどだが、お薦めのビューポイントである。



●更に、『信濃史料叢書』第四巻の『眞武内傳附録』(一)川中島合戦謙信妻女山備立覚*においては、赤坂の上に甘粕近江守、伊勢宮の上に柿崎和泉守、月夜平に謙信の従臣、千ケ窪の上の方に柴田(新発田)道寿軒、笹崎の上、薬師の宮に謙信本陣とある。伊勢宮とは、西幅下の笹崎の近くにあったらしく、祖母がよく伊勢宮の畑に行って来ると言っていたと父から聞いた。その土地は後年洪水で流失した。笹崎には、岩野側に水天宮・金比羅・水祖弥都波能売神・罔象女神(みずはめのかみ)、土口側には、その昔洪水後の測量の基準となった袖振観音(縁切り地蔵)がある。千ケ窪(千人窪)の上の方とは、陣馬平のことであろう。謙信本隊は、妻女山から御陵願平(龍眼平)、薬師山までおよび、夜は薬師堂で休んだと云われている。但し、当時会津比売(會津比賣)神社は山上にあったという伝承もあり、御陵願平にあったかもしれない堂宇で休んだのかもしれない。
*備え立て(陣立てに同じ)
解説:『眞武内傳』は、松代藩士竹内軌定による真田氏史書。成立は江戸時代の享保16年(1731年)。藩主は第四代真田信弘。附録(一)川中島合戦謙信妻女山備立覺に、「甲陽軍鑑に妻女山を西條山と書すは誤也、山も異也。」とある。丸山清俊(1821〜1897)が謄写収集のものが県立長野歴史館に収蔵されており、そこには妻女山の記載が見えるが、原本でも妻女山であったかは不明。もし原本も斎場山ではなく妻女山であれば、妻女山という名称は、西条山が別の山であると知る松代藩による創作であったということになる。天保9年(1838)江戸幕府の命で作られた『天保国絵図信濃国』も妻女山という記載になっているので、松代藩が介在したとみるのが妥当と思われる。この時の城主は松平定信の次男で養子の第八代藩主真田幸貫(さなだゆきつら)である。

●「斎場山」は、『甲陽軍鑑』に「西條山」と誤記されたために、後年「妻女山」と改称されることとなった。「妻女山」の初出は、現在調べた限りでは、江戸中期初めの正保4年(1647)幕府の命により作られた『正保国絵図』である。制作には松代藩が関わっている。「祭場山」は、土口と生萱村誌のみに見られるので、本来の読みである「さいじょうざん」を「さいじょざん」としたことに異議をとなえた村民による同音読みの山名である。『甲陽軍鑑』が「西條山」と誤記したのは、戦国当時、あるいは江戸初期の呼称が「さいじょざん」ではなく「さいじょうざん」であったためであろう。「さいじょ」では「西條」という文字は浮かばない。妻女・才女・犀女・斎所などとなろう。呼称が「さいじょう」であったからこそ「西條」と誤記したのである。
 しかし、当地には西条という集落があり、「にしじょう」と読み「さいじょう」とは決して読まない。「西條山(にしじょうやま)」には、いくつか説がある。西条氏の竹山城(西条城)があったことから象山のこととする説。舞鶴山の城跡こそが西条城であるという説から狼煙山であるという説。また、榎田良長彩色の『河中島古戰場圖』では、西条村南の最高峰・高遠山に西条山と記してある。「狼煙山」の本名を西条山とする説もある。狼煙山は別名を高テキ山ともいう。明治の生萱村誌には、高遠山から狼煙山の山脈を西条山というとある。いずれにしても「西条山」は、「妻女山」とは、全く異なる山である。
●『甲陽軍鑑』には、各所に「年号万次第不同みだり候へども」とか「人の雑談にて書記候へば、定て相違なる事ばかり多きは必定なれども」とかいうことわりが記してある。口伝や口述筆記による間違いがあると自ら記しているのである。戦国時代においては、読みが合っていれば漢字の表記の違いは問題とされなかったという。
●「妻女山(さいじょざん・さいぢょやま)」という呼称は、江戸や上方ではなく、西條山が別の山であると知る地元の有力者によって創作された俗名である可能性が極めて高い。江戸や上方では、その後も間違ったまま西條山と記されている。
 また、上杉謙信が、命名したというまことしやかな伝承がある。謙信が会津比売神社を庇護していたことは史実のようだが、その後武田に支配され神社も焼かれているのであるから、謙信が命名し「妻女山」という名前だけが残ったのは、いかにも不自然。武田の支配になり、上杉方の村上義清・清野・屋代・寺尾などの侍は、みな越後へ逃れ、後には武田に味方した信州勢や甲州勢が入ってきたのであるから。武田滅亡後に、一旦は上杉景勝と共にこの地に戻るが、ほどなく上杉の会津移封に伴って家臣共々この地を去り、再び戻ることはなかった。謙信に山に名前を付けている暇はなかったと思われる。なにより謙信の時代に妻女山という記述は、現存する史料には皆無である。
●「妻女山」という名称は、前記のように1647(正保4)年、幕府の命により松代藩が作成させた『正保国絵図』に初めて見られる。そして、江戸時代中期前半に、近松門左衛門の人形浄瑠璃・歌舞伎による荒唐無稽な脚色の『信州川中島合戦』や『本朝廿四孝』などによる一大川中島ブームが起きる。しかし、そこに記されているのは「西條山・西条山」であり、「妻女山」ではない。「妻女山」という名称は1800年以降、江戸時代後期になって地元の軍記物や絵地図に頻繁に見られるようになる。但し、上方や江戸の浄瑠璃や歌舞伎の脚本、浮世絵などは西條山のままである。初出はまだ確定できないが、「妻女山」は、江戸時代前期後半から中期初期の、西條山が斎場山とは別の山であると知る地元の有力者の創作であることはほぼ間違いない。松代藩が介在していることも濃厚である。明治初期の土口村誌に「近俗作となる妻女山はもっとも非なり」と書かれているのは、江戸時代はさすがに御上には逆らえず明治時代になって、廃藩置県後、真田が松代から去ってやっと記することができたと推察される。
地元では、斎場(さいじょう・いつきなるば・ゆにわ)という古代からの由緒有る名称を大切に思っていた人々が少なからずいたということである。また、1647(正保4)年の地図が初見であることや、土口村誌の「近俗作となる妻女山は尤も非なり」という記述から妻女山という命名が江戸初期以降のものだということが大凡推察される。戦国時代に妻女山という名称はまだなかった。斎場山のみである。それが西條山と誤記され広まった。
 「斎場山」へは、スズメバチも熊もいない(猪はいるが…)冬枯れの最も見通しの良い季節に現地に行ってみるとより分かる。昔は今のように植林されておらず、茅がはびこっていたと云われている。夏場はヤブになり全体が見通せない。

出典:『甲越信戦録』岡澤由往訳 龍鳳書房刊・『 実録甲越信戦録』西沢喜太郎編 長野松葉軒 明16年刊・『信濃史料叢書』第四巻 1913(大正2)年編纂全五巻 眞武内傳附録(一)川中島合戦謙信妻女山備立覺 『真武内伝』は、松代藩士竹内軌定による真田氏史書。附録は 柘植宗良編纂。成立は江戸時代の享保16年(1731年)頃。物語性が強いが、地元だけに地名の記述は正確と思われる。また、当時大流行していた人形浄瑠璃・歌舞伎による荒唐無稽に脚色された川中島の戦や、木版本により増刷された『甲陽軍鑑』の誤記に対する地元としての検証の意味もあったのかも知れない。

解説:細かな布陣場所や、未確認の地名、千曲川の旧流など、不確定要素がたくさんあるので、これが歴史的事実というわけではない。よく妻女山(赤坂山)展望台で、こんな狭いところに13000人も布陣したのですか?押しくら饅頭になってしまいますよね、などという観光客の方がおられるが、上の図を見ていただければ、その謎も少しは解けるのではないだろうか。また、これだけの軍勢を長きに渡って布陣したにしては、遺構が見られないというものがいるが、陣場平には平坦地の端に古い石垣があり、御陵願平は、人工的に作られたと思われる二段の平坦地がある。堂平古墳群の横穴は、貯蔵や砦として使われた可能性もある。ただ、この辺りは里山で今は森林だが、昔は養蚕や畑のために広く開墾されていたことを考慮しなければいけない。その折に遺構が壊された可能性もおおいにある。
* 上の写真は筆者所有の「米軍撮影の空中写真(昭和23年10月22日撮影)」。

■上杉軍(13000人)
●総大将:上杉政虎
 柿崎景家、本庄実乃、色部勝長、新発田治時、山吉豊守、安田順易、長尾政景、斎藤朝信、加地春綱 、中条藤資、村上義清、北条高広、宇佐美定満
●直江実綱(小荷駄護衛)甘粕景持(殿・しんがり)
斎場山から見た360パノラマ立体地図はこちら。これが謙信が本陣から見た風景。

■武田軍
●旗本本隊(8000人)
●総大将:武田信玄
 武田信繁、武田義信、武田信廉、武田義勝、穴山信君、飯富昌景、内藤昌豊、諸角虎定、原昌胤、跡部大炊介、今福善九郎、浅利式部丞、山本勘助
●妻女山別働隊(12000人)
 高坂昌信、馬場信房、飯富虎昌、小山田信茂、甘利昌忠、真田幸隆、相木昌朝、芦田信守、小山田昌辰、小幡尾張守

『松代町史』
【第四次川中島合戦】
 妙法寺記は甲斐国都留郡木立村妙法寺の古記録にして文正元年より永禄四年に至る九十六年間の出来事が記してあり、これによると川中島合戦は、天文二十四年と永禄四年の二回行われたのみである。世に天文二十三年とあるは二十四年の誤伝にして、永禄四年九月十日とあるのも妙法寺記によれば十月十日である。

 この永禄四年の戦いは甲越の両雄が川中島に於いて雌雄を決せんとした大戦にして上杉謙信はこの年の八月八日(妙法寺記に依れば九月か)約一万五千の兵を率いて越後春日山を発し、富倉峠を越えて信濃に入り、自ら兵八千を下知し千曲川の東岸に沿うて高井郡大室村(現埴科郡寺尾村に合わせらる)
(現在は長野市松代町大室)に宿営した。高坂昌信は謙信春日山を発すと聞きこれを防がんと途中まで兵を出して奮闘すれども越軍の威風に当たるべくもあらざるより引き返して海津城に楯籠(たてこも)った。越軍大室にありて城中の動静を伺い遂に出発して可候峠を越えた。されど城兵戦うことの不利を知り固く城を守って出でず。故に越軍一挙にして山を下り小稲澤(藤澤川)鰐澤(関谷川)を渡り多田越(象山の南)を越えて清野に出で十六日に妻女山に陣を取った。この時既に直江山城守は先鋒として赤坂の上(現在の妻女山)より滑澤橋(清野村道島勘太郎橋:古い石橋が現存)に備え、甘粕近江守は月夜平(陣場平より物見台にかけて)に、宇佐見駿河守は岩野の十二河原(斎場原から千曲川河原)に、柿崎和泉守は土口笹崎(薬師山)に陣を構えて殺気天に満ちた。一方武田晴信は同月十八日嫡子太郎信義、武田逍遙軒、同左典厩信繁を初めとし家臣長坂、飫富、山縣、山本、両角、馬場、真田、跡部等二万余人を引具して甲州石和城を発して信濃に入り更級郡茶臼山に陣を取り機を見て二十八日広瀬渡(埴科郡寺尾村柴)を渡りて海津城に入れば総勢実に二万五千に達すという。そして九月十日(妙法寺記は十月十日)午前二時頃晴信その兵を分かち高坂、飫富、馬場、小山田(備中守)、真田、甘利、蘆田、小山田(弥三郎)、相木、小幡の十将に一万二千の兵を授けて謙信の陣営妻女山を襲わしめ、自ら八千の兵を督して川中島に出で越軍の退路を要撃せんとした。然るに謙信早くもこれを察し、甲州軍の海津城を出づるとほぼ同時刻に擬兵を山上に設け全軍雨宮の渡を渡り川中島に出で濃霧に乗じて甲州勢に切って掛かり、ここに甲越の貔貅(ひきゅう)が火花を散らして戦うに至った。さる程に謙信はこの一戦にこそ晴信の首級を挙げて凱歌を奏せんものと乱軍の中に晴信を見出し単騎これに肉迫して互いに一騎打ちの勝負を闘わせ晴信既に危うく見ける折り柄家臣原大隅守駆け来たり晴信を助けた。為に謙信は流星光底長蛇を逸せるが、この戦い甲州軍大敗して晴信の弟左典厩信繁、山本勘助、両角豊後守その他侍大将多く討死を遂げた。一方妻女山に向える高坂昌信等の別働隊は謙信の陣営に至り見れば敵軍ゲキ(門構えの中に目と下に犬という字)として声なく、却(かえ)って川中島に矢叫びの音喧(かまびす)しきを知りて大いに驚き、急ぎ千曲川を渡って越軍の側面を襲ったので謙信は戦いの己に利あらざるを悟り宇佐美、直江、甘粕等を殿軍に残し置きその身は逸早くも春日山へ帰って終わった。甲州勢は越後の殿軍を追撃して散々にこれを打敗り凱歌を奏して海津城へ引揚げてこの戦は終わった。これ川中島最後の大合戦にして史上に名高いものである。後永禄七年甲越の和議成るという。

出典:『松代町史』上巻 昭和4年4月30日発刊 *原文を読みやすいように校正済み
解説:『松代町史』の布陣は、『甲越信戦録』とほぼ同じであることが分かる。有旅茶臼山の茶臼ヶ城は『甲越信戦録』が初出である。現妻女山(赤坂山)には、直江山城守が布陣したという。「直江山城守は先鋒として赤坂の上より滑澤橋(清野村道島勘太郎橋)に備え」とあるが、赤坂山より松代城下への入口にあたる道島勘太郎橋辺り(現在の中道島、長野電鉄の線路の北側に古い石橋が現存)まで布陣したということ。千曲川の旧流は、長野電鉄の北側に沿うように流れていたといわれている。滑澤橋は、清野山から千曲川に流れ込む小川にかけられた橋で、清野と松代の境にあった。尚、妻女山という記述は、『妙法寺記』の原本では妻女山ではなく、西條山であったと思われる。西條山が別の山と知る松代だからこそ妻女山と書き換えたのであろう。
『妙法寺記』:文正元(1466)年から永禄4(1561)年までの記事。都留郡木立村妙法寺に伝わることによる名称。最も古い写本は信憑性が高いといわれるが、異本も多く木版本は改刷の度に書き換えられている可能性もある。妙法寺は、日蓮上人の弟子が創立した寺で、創建は弘安元(1278)年。

『川中島謙信陳捕ノ圖』
 下の図(上の写真とは天地左右が逆)は、江戸時代後期に描かれた榎田良長による『川中島謙信陳捕ノ圖』である。この絵の他に榎田により『川中島信玄陣捕之圖』と川中島全体を描いた『河中島古戰場圖』がある。信玄茶臼山布陣が描かれているので、『甲越信戦録』を参考にしたものであり、江戸後期、文化7年(1810)以降の作だということが分かる。江戸時代の人達が、川中島合戦をどう捉えていたのかのかを知る貴重な絵図であると思う。山はあまり変化がないと思われるが、千曲川の流れは江戸時代後期の戌の満水(1742)以降のものである。戦国時代は、千曲川は絵図の池と描かれたところに向かって赤坂山にぶつかるように流れていたかもしれない。池は千曲川の旧流の跡であり、千曲川から池までの字が川式という地名で残っている。
                               ◆
 『川中島謙信陳捕ノ圖』では、ほぼ絵の中心に二段の墳丘裾のある斎場山が本陣として描かれており、西へ御陵願平、土口将軍塚古墳(前方後円墳)、笹崎山(薬師山)が、実際の地形と同様に描かれている。また、岩野の南、前坂から韮崎の尾根に乗り斎場山へ向かい東風越に至る険路も描かれている。この道は、現在では麓の岩野集落の古老しか知らない道である。前坂の登山口には、戦前までは斎場山を所有していた荘厳山正源寺らしき堂宇も見える。また、斎場山の北の麓には、會津比賣神社の社殿らしきものが描かれている。江戸時代には既に現在の場所に移されていた。往古山上にあったというが、謙信の庇護を受けていたため、信玄によって焼き討ちされ、後に麓に小さく再建されたと言い伝えられている。
 現妻女山(赤坂山)は、特に記載が無く、削平地であることが分かる。当然のことであるが、現在ある戊辰戦争の慰霊のために建立された妻女山松代招魂社は、まだない。現妻女山の北(下)には池があるが、蛇池といい、ここから千曲川近くの十二までの字を川式といい、千曲川の旧流の跡である。蛇池は、現在は高速道路。昭和40年ころは、割と大きな池で雷魚が棲んでいた。蛇池の右上に小さなお堂が見えるが、謙信槍尻之泉であろうか。江戸時代後期には、妻女山霊水騒動が勃発。霊験あらたかな清水として、遠方から水を汲みに来る人が絶えなかったという。その泉は、明治22年にその場所に清野避病院が建設されたときに飲料水として使用されたために壊された。以後は現在の場所に移るが、大河ドラマ「天と地と」以前は、現在より10mほど上にあり、桑畑の中から清水がチョロチョロと湧き出ているだけであった。物語は創られるものである。
 斎場山の西の端、笹崎の先は現在削られ国道が通っているが、この図では笹崎の先は千曲川に落ちており、旧谷街道(北国街道東脇往還)は笹崎の尾根を越えて通っていたことが分かる。現地には街道の跡とも推察される削平地が一部残っている。慶長18年(1613)斎場橋から土口の謡坂への道が新設され、後の文化年間(1804〜1818)には、松代藩家臣の伊藤一右衛門の建議により、謡坂の切り下げと笹崎の峠道を千曲川沿いに迂回する道が造られた。(長野県町村誌)笹崎の先に十二ノ瀬とあるが、これは誤り。正しくは戌ケ瀬であり、十二ノ瀬(十二ケ瀬)は北と記された辺りで、現在も十二という地名が残る。十二も瀬があるほど中州があり、広く分流していたということであろう。なぜこういう記載になったというと、戌ケ瀬という地名は、現在は更に上流の篠ノ井橋のたもとにあり、瀬が時代と共に上流へ移動していったからだとも推察される。あるいは流路の変化により名称だけが移動したのかもしれない。戌の満水以降に笹崎から下流の瀬直しも行われているので、戦国時代の流路とは全く異なることは確かである。千曲川の右端の先は、猫ケ瀬があった辺りで、中州であったと思われる猫島という地名が松代PA辺りに残っている。猫ケ瀬とは、猫でも渡れるほど浅い瀬という意味である。
                               ◆
 また、千人窪(千人ガ窪)は、地名としては清野小学校の奥の上部、小字妻女山に千ガ窪(長野地名研究所尾の地図には誤ってチゲ窪)という名で残っているが、この図では尾根を一つ越えた南、宮村の奥に千人窪と記されている。千人窪からは、陣場平へ至る山道が描かれており、陣場平にも布陣したことが描かれている。その南の上の台地が月夜平と記されており、これは現在の地名と一致する。月夜平の奥には、清野の大村から二本松峠(坂山峠)経由で倉科へ越える倉科坂(清野街道)が描かれている。その左手には清野氏の鞍骨古城がある。
 斎場山の上、土口の谷を挟んで南と記されている辺りが、鞍骨城の支城・天城城があった天城山(てしろやま・手城山)である。現在は、坂山古墳の跡が残る。西(絵図右)へ下って唐崎城があった唐崎山(朝日山)。唐崎の先端を越えて小さな峠があるのは、戦国当時、千曲川がこの山際を流れていたからである。坂の名前を謡坂(うとうざか・宇藤坂)という。絵の川の流れは戦国当時ではなく、この絵が描かれた江戸時代後期の様子であろう。沢山川(生仁川)が山際を流れている。唐崎の峠を越えると、道は西に折れて沢山川にかかる斎場橋を渡る。
 すると右手に「雨宮の御神事」で有名な雨宮坐日吉神社(あめのみやにいますひよしじんじゃ)が見える。「雨宮の御神事」は、平安時代に怨霊を鎮めるために始まり、室町時代の田楽風の踊りと行列が伝承されているといわれ、国の重要無形民俗文化財に指定されている。その祭のクライマックスのひとつが、逆さまにつり下げられた氏子が川で水しぶきを上げる「橋がかり」の奇祭であり、唐崎斎場橋で行われる(昔は、更に数町上流の生仁橋で行われた)。渡ると雨宮村である。雨宮の渡は、斎場橋の数百メートル北北西になる。雨宮宿を過ぎて更に西へ進むと矢代城のあった一重山を回って矢代村に着く。ここ矢代宿で谷街道は北国街道(善光寺参拝と佐渡と江戸を結ぶ金の道、加賀百万石の大名行列も通った)とつながる。一重山の尾根づたい、大穴山には、神武天皇の皇子・神八井耳命(カムヤイミミノミコト)の後裔で古代科野之国の祖、建五百建命(タケイオタツノミコト)の墓ともいわれる4世紀代築造、信濃最大の前方後円墳「森将軍塚古墳」がある。
                               ◆
 この図では、陣場平は特に削平地として広く黄色では描かれていないが、これは信玄の軍勢が千曲川対岸にいたときの布陣図だからであろう。陣場平は、東風越のすぐ南、斎場山の南西に広がる標高490〜520mの高原で、大きく二段に分かれており、上段の北の縁は切岸状になり、上部には積石塚古墳があり古い石垣が残る。また、ここは大正元年陸軍陸地測量部の測量により546mの標高点が置かれた場所であるが、現地には当時の地形図に描かれたような丸い頂上は昔も今もない。軍部の意図的な創作である可能性も否定できない。
 『甲陽軍鑑』の編者といわれる小幡景憲彩色の『河中島合戰圖』には、陣場平辺りに謙信公御陣所として、門のある柵に囲まれた陣所の中に立派な社殿のような建物が七つほど描かれている。当時の戦では、たとえ一日の野陣でも陣城、或いは陣小屋を設営するのが常道だったというから、絵図ほど立派ではなかったとは思うが、陣場平辺りに陣城を建てたことはあり得るだろう。陣場平の削平地や石垣は、その名残かもしれない。但しこの辺りは桑畑にされたので土留めとして石垣が使われたり改造されたりした可能性はある。
 謙信は、妻女山陣取の前に、海津城下や妻女山の周囲で、乱取りや焼き討ち、陣所の建材を集める小屋落しを行ったと記録にある。また、斎場山西の御陵願平の二段の平地にもなにか建物があったと推察される。信玄によって戦後焼き討ちされたという往古の會津比売神社かもしれない。
 謙信は、信玄が全軍を海津城に入れてからは、城がよく見下ろせる陣場平や天城山へ通じる尾根に兵の多くを移動させた可能性がある。全軍が海津城にいるわけだから、山陰になる笹崎に大軍を置いたままでは海津城への威嚇にはならない。後に上杉景勝は北條氏直の川中島出陣に備えて海津城を出て清野鞍掛山(鞍骨山)の麓赤坂山(現妻女山)に陣したと伝えられている。この陣形を謙信がとった可能性は否定できないし、後の景勝が謙信の陣形を真似たということも充分に考えられる。話として大変面白いが、史実と証明する術は、今のところ全く無い。

■『川中島謙信陳捕ノ圖 一鋪 寫本 』(かわなかじま けんしん じんとり の ず) 榎田良長 彩色
 本題は『信州(刀三つという字)妻女山川中嶋合戦之砌謙信陳捕ノ圖』
 榎田良長の図会は、他に川中島全図を描いた『河中島古戰場圖 一鋪 寫本』と『川中島信玄陣捕之圖 一鋪 寫本』がある。いずれも狩野文庫所蔵。
 小幡景憲彩色『河中島合戰圖』も同文庫所蔵。東北大学附属図書館狩野文庫データベースで閲覧可能。
 出典:東北大学附属図書館狩野文庫(平成20年5月23日掲載許可取得済)流用転載厳禁!

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