| 上杉謙信 斎場山布陣想像図(赤坂山は、現在の妻女山) |
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| ●『甲越信戦録』による上杉軍の布陣の形を想像図にしてみた。 「一の手は、直江山城守が赤坂の下。二の手は、甘粕近江守が清野出埼を陣として月夜平まで。三の手は、宇佐見駿河守が岩野十二川原に。四の手は、柿崎和泉守が土口笹崎に。五の手は、村上入道義清が務める。(雨宮神社に布陣)」とある。本陣脇の龍眼平や斎場山から陣馬平への平地は、上杉の本隊が固めたと思われる。 本陣というものは、全軍の動静を一望にできる場所に設営するというのが常道であるから、陣馬平では、前の斎場山が邪魔になって岩野や茶臼山が見えず、赤坂山では、やはり斎場山が邪魔になって薬師山や、低すぎて後背の陣馬平が見えない。やはり斎場山古墳上が、最も本陣に相応しい場所といえるのではないだろうか。但し、信玄が全軍を海津城に入れてからは、よく見える陣場平に本陣を移した可能性もあり、それが陣場平が本陣跡と一部地元で伝わる所以かもしれない。妻女山とは、女人断ちの謙信ならではの命名のようにも思えるが、間違いなく後世の作り話であろう。 和田峠越えから上田原に出た信玄は、腰越で高坂弾正の使者に謙信が斎場山に布陣するのを聞き、千曲川右岸の谷街道を通って海津城へは行けないことを悟る。上田から真田、地蔵峠を越えて海津城へ向かうことを進言された信玄だが、左岸を進み、小牧山、室賀峠、山田、若宮、猿馬場の東方を経て茶臼山に布陣する。そして、雨宮に真田、戌ケ瀬に飯富、横田に甘利、御幣川に内藤、小森に原、東福寺・水沢に望月、海津城に高坂と、斎場山山塊を囲むように千曲川対岸にずらりと布陣、謙信の退路を断ったと云われている。 解説:『甲越信戦録』とは、江戸後期、文化7年(1810)以降に書かれた作者は不詳の伝承も取り入れた全八巻の戦記物語。史料としての価値は低いが、全てが作り事というわけではない。川中島の地元の人の想いが込められた良書。 ●更に、『信濃史料叢書』第四巻の『眞武内傳附録』(一) 川中島合戦謙信妻女山備立覚*においては、赤坂の上に甘粕近江守、伊勢宮の上に柿崎和泉守、月夜平に謙信の従臣、千ケ窪の上の方に柴田(新発田)道寿軒、笹崎の上、薬師の宮に謙信本陣とある。伊勢宮とは、西幅下の笹崎の近くにあったらしく、祖母がよく伊勢宮に行って来ると言っていたと父から聞いた。笹崎には、岩野側に水天宮・金比羅・水祖弥都波能売神・罔象女神(みずはめのかみ)、土口側には、その昔洪水後の測量の基準となった袖振観音(縁切り地蔵)がある。千ケ窪の上の方とは、陣馬平のことであろう。謙信本隊は、妻女山から御陵願平(龍眼平)、薬師山までおよび、夜は薬師堂で休んだと云われている。但し、当時会津比売(會津比賣)神社は山上にあったという伝承もあり、御陵願平にあったかもしれない堂宇で休んだのかもしれない。*備え立て覚え(陣立て覚えに同じ) 解説:『眞武内傳』は、松代藩士竹内軌定による真田氏史書。成立は江戸時代の享保16年(1731年)。 ●「斎場山」が、いつ「祭場山」になり、「妻女山」になったかは、はっきりとは解明されていないが、恐らく江戸後期だと考えられる。『甲陽軍鑑』が「西條山」と誤記したのは、当時の呼称が「さいじょざん」ではなく「さいじょうざん」であったためであろう。「さいじょ」では「西條」という文字は浮かばない。妻女・才女・犀女・斎所などとなろう。呼称が「さいじょう」であったからこそ「西條」と誤記したのである。しかし、当地には西條という集落があり、「にしじょう」と読み「さいじょう」とは決して読まない。西條山(にしじょうやま)は、狼煙山(のろしやま)の本名であり妻女山とは、全く異なる山である。『甲陽軍鑑』には、各所に「年号万次第不同みだり候へども」とか「人の雑談にて書記候へば、定て相違なる事ばかり多きは必定なれども」とかいうことわりが記してある。口伝や口述筆記による間違いがあると自ら記しているのである。 「妻女山」というのは、江戸時代中期前半の近松門左衛門の人形浄瑠璃・歌舞伎による荒唐無稽な脚色の『信州川中島合戦』や『本朝廿四孝』などによる川中島ブームの折りに、江戸や上方ではなく、西條山が別の山であると知る地元のものによって創作された俗名の可能性が極めて高い。江戸や上方では、その後も西條山と記されている。 また、上杉謙信が、会津比売神社を庇護していたことは史実のようだが、その後武田に支配され神社も焼かれているのであるから、謙信が命名し「妻女山」という名前だけが残ったのは、いかにも不自然。武田の支配になり、上杉方の村上義清・清野・屋代・寺尾などの侍は、みな越後へ逃れ、後には武田に味方した信州勢や甲州勢が入ってきたのであるから。武田滅亡後に、一旦は上杉景勝と共にこの地に戻るが、ほどなく上杉の会津移封に伴って家臣共々この地を去り、再び戻ることはなかった。謙信に山に名前を付けている暇はなかったと思われる。「妻女山」という名称は、1800年以降、江戸時代後期になって地元の軍記物や絵地図に見られるようになる。初出はまだ確定できないが、この頃の創作であることはほぼ間違いないだろう。明治初期の土口村誌に「近俗作となる妻女山はもっとも非なり」と書かれているように、実に商業主義的な作為の臭いがする名称である。 「斎場山」へは、スズメバチも熊もいない(猪はいるが…)冬枯れの最も見通しの良い季節に現地に行ってみるとより分かる。昔は今のように植林されておらず、茅がはびこっていたと云われている。夏場はヤブになり全体が見通せない。また、下記の『妙法寺記』の記述とも比べてみて欲しい。尚、岩野十二ヶ瀬は、赤坂山の先という説もあり、戌ヶ瀬は、更埴市(現千曲市)の小字では、篠ノ井橋の右岸上流側のたもとの地名となっている。雨宮の渡には、唯一橋があったという説もある。土口には宇佐見駿河守が作らせたといわれる宇佐見橋がある。 解説:細かな布陣場所や、未確認の地名、千曲川の旧流など、不確定要素がたくさんあるので、これが歴史的事実というわけではない。よく妻女山(赤坂山)展望台で、こんな狭いところに13000人も布陣したのですか?押しくら饅頭になってしまいますよね、などという観光客の方がおられるが、上の図を見ていただければ、その謎も少しは解けるのではないだろうか。また、これだけの軍勢を長きに渡って布陣したにしては、遺構が見られないというものがいるが、陣場平には平坦地の端に古い石垣があり、御陵願平は、人工的に作られたと思われる二段の平坦地がある。堂平古墳群の横穴は、貯蔵や砦として使われた可能性もある。ただ、この辺りは里山で今は森林だが、昔は養蚕や畑のために広く開墾されていたことを考慮しなければいけない。その折に壊された可能性もおおいにある。また、戦国時代には、現在のような落葉松、檜などの大規模な植林は行われず、茅葺き屋根の茅を採るために山には茅が生えていた可能性もあり、植生が現在とは全く異なっていたと考える必要がある。 * 上の写真は「米軍撮影の空中写真(昭和23年10月22日撮影)」。 |
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■上杉軍(13000人) ●総大将:上杉政虎 柿崎景家、本庄実乃、色部勝長、新発田治時、山吉豊守、安田順易、長尾政景、斎藤朝信、加地春綱 、中条藤資、村上義清、北条高広、宇佐美定満 ●直江実綱(小荷駄護衛)甘粕景持(殿・しんがり) ★斎場山から見た360パノラマ立体地図はこちら。これが謙信が本陣から見た風景。 ■武田軍 ●旗本本隊(8000人) ●総大将:武田信玄 武田信繁、武田義信、武田信廉、武田義勝、穴山信君、飯富昌景、内藤昌豊、諸角虎定、原昌胤、跡部大炊介、今福善九郎、浅利式部丞、山本勘助 ●妻女山別働隊(12000人) 高坂昌信、馬場信房、飯富虎昌、小山田信茂、甘利昌忠、真田幸隆、相木昌朝、芦田信守、小山田昌辰、小幡尾張守 |
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『妙法寺記』 【第四次川中島合戦】 妙法寺記は甲斐国都留郡木立村妙法寺の古記録にして文正元年より永禄四年に至る九十六年間の出来事が記してあり、これによると川中島合戦は、天文二十四年と永禄四年の二回行われたのみである。世に天文二十三年とあるは二十四年の誤伝にして、永禄四年九月十日とあるのも妙法寺記によれば十月十日である。 この永禄四年の戦いは甲越の両雄が川中島に於いて雌雄を決せんとした大戦にして上杉謙信はこの年の八月八日(妙法寺記に依れば九月か)約一万五千の兵を率いて越後春日山を発し、富倉峠を越えて信濃に入り、自ら兵八千を下知し千曲川の東岸に沿うて高井郡大室村(現埴科郡寺尾村に合わせらる)(現在は長野市松代町大室)に宿営した。高坂昌信は謙信春日山を発すと聞きこれを防がんと途中まで兵を出して奮闘すれども越軍の威風に当たるべくもあらざるより引き返して海津城に楯籠(たてこも)った。越軍大室にありて城中の動静を伺い遂に出発して可候峠を越えた。されど城兵戦うことの不利を知り固く城を守って出でず。故に越軍一挙にして山を下り小稲澤(藤澤川)鰐澤(関谷川)を渡り多田越(象山の南)を越えて清野に出で十六日に妻女山に陣を取った。この時既に直江山城守は先鋒として赤坂の上より滑澤橋(清野村道島勘太郎橋)に備え、甘粕近江守は月夜平に、宇佐見駿河守は岩野の十二河原に、柿崎和泉守は土口笹崎に陣を構えて殺気天に満ちた。一方武田晴信は同月十八日嫡子太郎信義、武田逍遙軒、同左典厩信繁を初めとし家臣長坂、飫富、山縣、山本、両角、馬場、真田、跡部等二万余人を引具して甲州石和城を発して信濃に入り更級郡茶臼山に陣を取り機を見て二十八日広瀬渡(埴科郡寺尾村柴)を渡りて海津城に入れば総勢実に二万五千に達すという。そして九月十日(妙法寺記は十月十日)午前二時頃晴信その兵を分かち高坂、飫富、馬場、小山田(備中守)、真田、甘利、蘆田、小山田(弥三郎)、相木、小幡の十将に一万二千の兵を授けて謙信の陣営妻女山を襲わしめ、自ら八千の兵を督して川中島に出で越軍の退路を要撃せんとした。然るに謙信早くもこれを察し、甲州軍の海津城を出づるとほぼ同時刻に擬兵を山上に設け全軍雨宮の渡を渡り川中島に出で濃霧に乗じて甲州勢に切って掛かり、ここに甲越の貔貅(ひきゅう)が火花を散らして戦うに至った。さる程に謙信はこの一戦にこそ晴信の首級を挙げて凱歌を奏せんものと乱軍の中に晴信を見出し単騎これに肉迫して互いに一騎打ちの勝負を闘わせ晴信既に危うく見ける折り柄家臣原大隅守駆け来たり晴信を助けた。為に謙信は流星光底長蛇を逸せるが、この戦い甲州軍大敗して晴信の弟左典厩信繁、山本勘助、両角豊後守その他侍大将多く討死を遂げた。一方妻女山に向える高坂昌信等の別働隊は謙信の陣営に至り見れば敵軍ゲキ(門構えの中に目と下に犬という字)として声なく、却(かえ)って川中島に矢叫びの音喧(かまびす)しきを知りて大いに驚き、急ぎ千曲川を渡って越軍の側面を襲ったので謙信は戦いの己に利あらざるを悟り宇佐美、直江、甘粕等を殿軍に残し置きその身は逸早くも春日山へ帰って終わった。甲州勢は越後の殿軍を追撃して散々にこれを打敗り凱歌を奏して海津城へ引揚げてこの戦は終わった。これ川中島最後の大合戦にして史上に名高いものである。後永禄七年甲越の和議成るという。 出典:『松代町史』上巻 昭和4年4月30日発刊 *原文を読みやすいように校正済み 解説:『妙法寺記』の布陣は、『甲越信戦録』とほぼ同じであることが分かる。後の『甲越信戦録』が先の『妙法寺記』を手本にしたのであろう。現妻女山(赤坂山)には、直江山城守が布陣したという。「直江山城守は先鋒として赤坂の上より滑澤橋(清野村道島勘太郎橋)に備え」とあるが、赤坂山より松代城下への入口にあたる道島勘太郎橋辺り(現在の中道島)まで布陣したということ。千曲川の旧流は、長野電鉄の北側に沿うように流れていたといわれている。尚、妻女山という記述は、『妙法寺記』の原本でも妻女山であったかどうかは定かではない。異本も多く、斎場山、あるいは祭場山が、江戸時代に妻女山と書き換えられた可能性もある。 『妙法寺記』:文正元(1466)年から永禄4(1561)年までの記事。都留郡木立村妙法寺に伝わることによる名称。最も古い写本は信憑性が高いといわれるが、異本も多く木版本は改刷の度に書き換えられている可能性もある。妙法寺は、日蓮上人の弟子が創立した寺で、創建は弘安元(1278)年。 |
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