千曲川の土手から妻女山(赤坂山)・斎場山(妻女山)513mを望む 2007.1.2
●こうして見ると、現妻女山(赤坂山)は、麓から60mしかないことがよく分かると思います。
さらに100m高い本来の妻女山(斎場山・妻女山古墳)や陣馬平の眺めの良さが際立ちます。
伝承では、初め信玄軍が千曲川対岸に布陣していた時は、斎場山を本陣として笹崎山から赤坂山までと麓に兵を並べ、
信玄全軍が海津城と城下に入ってからは、陣場平に陣城を築いたということです。
大室と加賀井の間には、旧谷街道の重要交通路、可候(そろべく)峠があり、軍勢が通れるほどの道があったといわれています。
同じく地蔵峠も旧北国街道で、信玄の重要通行路。同じように広い道があったといわれています。
同様に武田別働隊が登ったという西条の入から唐木堂越え、鏡台山を超えて坂城の日名へ抜ける道も、立派なものがあったのかも知れません。
この道は、松代から坂城への重要交通路であったと思われます。
また、その街道は三瀧山の尾根で真田の傍陽(そえひ)から倉科へ抜ける傍陽街道が交差していました。明治の倉科村誌には、幅約3mの道路と書かれています。
戦国当時も現在の林道に匹敵するような街道があったのかもしれません。
そこまで来れば鞍骨や倉科への道は清野氏の庭も同然。倉科へ下りて山裾を辿るか、天城(てしろ)を巻いて堂平へ下れば妻女山はすぐ目の前です。
鞍骨城から見る武田別働隊の動き

●狼煙(ノロシ山)は、別名を高テキ山といい、武田信玄が海津城を築城してから甲州との連絡のために狼煙をあげさせた山です。
このノロシ山から高遠山までの山脈を、俗に西条山といいます。斎場山(妻女山)とは全く別の山です。
狼煙は、謙信が越後から急に出陣したときに、甲州に告げることに使われました。
ノロシは、狼煙山から葛山(坂城)、腰越山中久保(長和町長久保)、和田峠(旧中山道)、金沢(茅野)、若神子(山梨県須玉町)へ
と伝えられ石水御館(甲府)へ伝えられたということです。
各砦には、足軽20人を常駐させていたといわれています。
当時、千曲川は、この撮影地から赤坂山の先端に向けて流れていたといわれています。昭和30年代までは、千曲川の旧流跡の沼・蛇池がありました。
よって千曲川が天然の要害となり、妻女山の上ばかりでなく、斎場原、岩野十二川原や清野奥の月夜平などにも布陣し、
千曲川を挟んで川中島の武田の軍勢と対峙していたといわれています。

●それぞれの畑には名前がありますが、たとえば新赤坂橋と堤防が交わる手前辺りの畑は、「起目沖(沖目沖)」といいますが、
「戌の満水」寛保2年(1742)の大洪水以降の松代藩による大規模な瀬直しにより、千曲川が北に移動したことにより、川の底の土地が
起きあがった、隆起して畑になったことから「起目沖」という名称になったのです。それぞれの畑の名称を調べていくと、そこの履歴や起源が分かることがあります。
また、この辺りの山の端は、笹崎、韮崎、関崎というような名前が多く見られますが、それは善光寺平が昔、大きな湖(海)であったからといわれています。
場所によっては畑に出ることを沖へ出るとか、沖に行くといいます。沖には開けたところへ出るという意味もあります。
岩野の畑の名前には、「韮崎沖」「中道沖」「芦原沖」「幅下沖」「前窪沖」「西幅下沖」「川式道」「起目沖」「赤坂河原沖」「北川向沖」「西川向沖」などがあります。
通常は、沖を省略して呼ばれるので、地元でも沖がつくことを知らない人も多いと思います。
向というのは川向こうという意味での名称です。旧流の時は、川のこちら側だったということです。

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