會津比賣神社御由緒 2007.1.2
會津比賣神社御由緒(長野市岩野区所在)

 当社は国史記載即ち国史現在の神社なり。祭神会津比売の命は信濃の国の初代国造建五百建命*の后なり。東面の妻女山の地名はこの妻女より出でしものなり。
 然して命は信濃一の宮諏訪明神の御孫なり。十代崇神天皇(紀元前二八年)**の御代初めての府を此の地の東南にあるお薬師さんあたりに置かれ、国造である建五百建の命は地宰の官として、国作りの任に当たり祭政を執り行わせられた。
 また会津比売の命は良妻賢母の範として、夫の命と共に此の岩野を中心として、農業生活を開拓し、政治に参画善政を行わせられたと伝えられる。現在は神社の上、斎上山脈の項上の西方にある、荘厳塚と称する所の御車形出陵が命の墓なり。最近発掘の土口の古墳は、皆この命に縁りあるものなり。その辺りにお薬師さんの古堂あり。此の所(現神社より三丁余り南の山腹)に、二神の夫妻の住居があったと伝えられる。また隣村雨宮の日吉神社の御神事(春の祈年祭の附まつり昭和五十八年国の重要文化財に指定)の春のまつり執行、松代城に登城の折、二百四名を一隊とする行列は岩野の地、神前に至りて山陵遥拝をなし、神踊りをひと舞いして神霊を慰め申し、敬意を表ししと記録にあり。
 県道に添いて岩野区より二キロ余の南方に、雨宮村山添いに唐崎社ありて、国造建五百建命を合祀してあり。慶長年間北国街道改修により、槐の古本うっそうと繁りしが、県道開発のため伐採せられ、現今は朝日城跡の山麓に移し祀られてあり。春の祈年祭には、神踊りの終りの舞をなしてここにまつりが終る。是を登れば有明山項に至る、将軍塚と称する古墳ありて、これを中心として多数の古墳あり。これらは皆建五百建の命に縁りあるものなり。これを初代の国造たる首長の豪族の墓であると、断ずる考古学者も多くあり。貞観八年清和天皇の御代(西暦八五九年)、会津比売命に『従四位の下』を贈らる。かくて、此の会津比売命の御神格の尊きを、深く偲び奉る次第なり。
 又長男の命は二代目の信濃の首長となり、父命に次いで善政をされしものと云う。弟の命は能登の国造となりしという。か様にして会津比売の命は、此の地の厚き崇敬を受けし妻女なりと、推意し奉るのである。慶応四年辰年四月代々奉仕せし、妻女権現の祀宮片岡稚臣が、宮中参殿の砌、神祇宮領上下部長宮より、妻女権現の縁りを問われて、つぶさに答え、改めて会津比売神社の社名の詔勅を賜わるという。

◎国史現在社***とは六国史(日本書記外)にその名の見ゆる神社にして、朝廷の尊崇を受け由緒を重んぜらる。国造は古代(五世紀後半より六世紀にかけて)の初代の首長であり、領土領民を有し、天皇に奉仕する豪族でありしが、孝徳天皇の御代大化の改新により、国司、郡司を置かるに及んで地位を失い、専ら祭祀の上司として残った。


 此の地に生まれ育ちて、地についた神格たる先人の産土神(うぶすながみ)を、朝な夕な尊崇し奉る人々の幸を、ひしひしと身に覚ゆる次第なり。(このような神社は日奉で数社のみ)

〈あとがき〉
 以上懸案の御由緒を上梓するに当り、当地在住の考古学者柳沢和恵先生の監修を請い、当所区長塚田厚氏、氏子総代主任青木鼎氏の御協力を得たことに感謝の意を表します。
    昭和五十九年十二月二十日
                       会津比売神社宮司 片岡 三郎

*建五百建命(たけいおたつのみこと):『古事記』には、綏靖天皇〔すいぜいてんのう、神武天皇29年(紀元前632年)欠史八代の天皇の一人で実在しないと云われている〕の兄神八井耳命(かむやいみみのみこと)は阿蘇君の祖なりとある。『舊事紀』の『國造本紀』には、崇神天皇の御代に、神八井耳命の孫の速瓶玉命を阿蘇の國造に定め賜ふとある。神八井耳命の子は健磐龍命と云ひ、「延喜式」の神名帳に祭られて居る神であるとい云われている。同じく『國造本紀』に、神八井耳命の孫の建五百建命を、崇神天皇の御代、科野國造に定め賜はつたと記してある。然るに、この建五百建命と健磐龍命とは同じ神であると云われている。
**崇神天皇(すじんてんのう):『古事記』『日本書紀』に記される第10代の天皇。在位は、崇神天皇元年(紀元前97年)1月13日 - 同68年(紀元前30年)12月5日といわれる。実際は318年(または258年)の没とする説もある。3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王と捉える見方が多い。
***国史現在社」とは、式外社だが、『六国史』にその名前が見られる神社のことを、特に国史現在社(国史見在社とも)と呼ぶ(広義には式内社であるものも含む)。『六国史』とは、『日本書紀』、『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』、『日本文徳天皇実録』、『日本三代実録』。

森将軍塚古墳が、建五百建命の墳墓とすると、その室(妻)会津比売命の墳墓が土口将軍塚古墳というのは年代が合いません。両古墳の創建年代が100年以上違うからです。諸説ありますが年代順に、森将軍塚古墳--川柳将軍塚古墳--倉科将軍塚古墳--有明山将軍塚古墳--土口将軍塚古墳--大室古墳群・斎場山古墳といわれています。土口将軍塚古墳までは、古代科野国の大王の墓とみるのが妥当かと思われます。森将軍塚古墳の構造から見て会津比売命は、妻であれば同古墳に埋葬された可能性が高いのではないでしょうか。
  ではなぜ、会津比売神社が斎場山の山上(御陵願平)にあったと伝わるのか、古来神社は古墳のように山上にあるものでした。しかし、なぜ森将軍塚から距離のある斎場山に神社を建立したのか。それは、平安時代の貞観年間に、無位となっていた出速雄命、会津比売命の官位授与を申請した当時の埴科郡の大領であった金刺舎人正長が関与しているのではないかという推理ができます。金刺氏は諏訪系統の流れで、会津比売命の後裔になります。『日本三代実録』には貞観4年(862)に、埴科郡大領外従7位金刺舎人正長とあります。
 雨宮坐日吉神社の三年に一度の春季大祭で行われる御神事の「橋がかりの踊り」は、沢山川(生仁川)の「斎場橋(往古は数町上の生仁橋で行われた)」で行われるが、斎場橋は、郡司が雨宮から斎場山へ参る際に渡る橋としての命名と思われます。往古斎場山の表参道は南であり、そのため祭壇への登り口の意味で土口という地名があるといいます。祭祀を執り行っていたのが金刺舎人正長ではないでしょうか。そして 会津比売神社があった場所が、御陵願平。後の斎場山古墳は、金刺舎人正長のものかもしれません。これは科学的な考察では全くなく単なる推測にすぎませんが。
  また、斎場山古墳には7基(明治の村誌に49と記載)、南の天城山北尾根には数基、川柳将軍塚古墳の近くに6基、円墳があったと思われる有旅茶臼山には9基の塚が付属していて、いずれも同じような構成です。俗に旗塚などと呼ばれますが、古墳ではないので、大化の薄葬礼以降の権力者の墳墓ではないでしょうか。これらの共通性には興味深いものがあります。有明山や、その南にある久保峰にも同様の塚が見られます。

●『松代町史』には、大国主命により諏訪に追放された子の健御名方命の子・出速雄命(いずはやおのみこと)の御子が会津比売命であると書かれています。出速雄神は、貞観二年(860)二月に信濃国従五位下の位を授かっており、斎場山(旧妻女山)の麓にある會津比賣神社の祭神・會津比賣神は、貞観八年六月に従四位下を授かっています。両神ともに産土神として信仰されてきました。松代の古名・海津は、会津または伊豆(出速)からきているとの説もあります。出速雄命は、熊野出速雄命として松代町豊栄皆神山神社に祀られています。熊野は後年付加されたものです。
●『日本三代實録』によると、その後、出速雄神は貞観十四年(872年)四月に従五位上に、元慶二年(878年)二月に正五位下を授くとなっています。
『松代町史』によると、当時の埴科郡の大領は、會津比賣神と同じ諏訪系統の流れを汲む金刺舎人正長であったため、産土神としての両神社の叙位を申請したものと思われるということです。親子とすると子の方が官位が高いのはなぜなのでしょう。それは、会津比売命が天皇系の科野国造 武五百建命と結婚したことによるものと思われます。ひょっとしたら政略結婚のようなものだったのかもしれません。その金刺舎人正長は、貞観四年(862)に、埴科郡大領外従七位を授かっています。
●しかし、その後平安時代の延長5年(927年)に編纂された『延喜式』には、皆神神社、會津比賣神社共に載らない式外社となっています。金刺氏の権力の失墜や委譲に伴って神社の格式が落とされたのかもしれません。その後、戦国時代に皆神神社、會津比賣神社は上杉謙信の庇護の下にありましたが、本陣となった斎場山(御陵願平)にあった會津比賣神社は、敵将武田信玄の兵火にあい、その後麓に小さく再建されたと伝わっています。斎場山西にある御陵願平は、長野市の史跡に指定されていますが、まだ発掘調査は行われていません。
引用:會津比賣神社御由緒(長野市岩野区所在)

●会津比売神社。祭神は、「會津比賣命(アイヅヒメノミコト)」です。『會津比賣神社御由緒』には、信濃の国の初代国造建五百建命の后なりとあります。また、諏訪大社祭神建御名方の次男出速雄命(クマノイズハヤオノミコト)の御子ということです。全国に同名の神社は無く、特異なお宮です。
●境内には、蚕の神様・保食命(ウケモチノミコト)の社もあります。養蚕が盛んな頃は、繭玉もまかれました。現在は長芋の神様として祀られています。春秋の祭には、神楽が奉納されます。昔は参道にたくさんの出店が並び、それは賑やかで子供たちの楽しみでした。

この写真の本文ページ ■MORI MORI KIDS ■MORI MORI KIDS Nature Photograph GalleryI ■CAPINO CAPINO(C) in Nagano and Tokyo Japan since 08.04.2003
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