| 妻女山(赤坂山)から妻女山(斎場山)512mを望む 2007.1.2 |
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| ●麓には、妻女山のいわれになったという会津比売神社があります。神社には、斎場権現という木札が継承されています。 「斎場山と称するいわれは、山麓に「会津比売神社(あいづひめじんじゃ)」があり、信濃国造(シナノクニノミヤツコ)健五百建命(タケイオタツノミコト)の妻女といわれる、諏訪大神の後裔「会津比売命」が祭神であるところから。 国造の妻女を斎き祀るということからこの称がおこったと思われる」ということです。また一説には、諏訪大社祭神建御名方の次男熊野出速雄命(クマノイズハヤオノミコト)の妻という伝承もあります。 ●岩野の里の一角に、薬王山政源寺と称する寺があり、境内の広さは四町(4ha)余りで、七堂伽藍が建ち並び壮大なものであった。(注:相当大きな寺院である) 御本尊は、十二の大誓願をもって、人々の病苦を救い、福徳を授けて、仏法の道を広められる薬師瑠璃光如来であった。伝えによれば、弘法大師が出羽(山形県)の湯殿山に参拝されての帰路、たまたま信州をお通りになった。 折しも、疫病がはびこり、病に倒れる人が相次ぎ、死人で道まで埋まる程であった。大師は、この惨状を憐れんで、一刀三禮(一刀刻む毎に三度禮拝)して、薬師如来を彫刻し給い、難病の解去を祈願されたところ、さしもの、疫病も、たちまち治まり平癒してしまった。 村里の人たちは、その霊験の著しさに感嘆し、堂宇(堂の建物)を建て境内を荘厳にしたので、参詣する者が増えてひきもきらず、年間、終日お香の煙りが絶えることもなかった。(岩野薬師如来縁起より) ●武田の立場で書かれた『甲陽軍艦』に対し、それを元に上杉の立場で書かれた『北越軍団』では、上杉謙信は総軍を鞍掛山に挙げ、下米宮(あまみや・雨宮)街道と海津城の連絡を断ち、西条山(さいじょざん・妻女山)の背後から赤坂山に出る水の手をせき止めて堀を造る。(写真下の辺りか、清野大里の辺りか)海津の城を十町ほどの眼下に見下ろし、乗っ取るべき勢いを見せる。というようなことが書かれていますが、上杉は、鞍骨山から天城山、斎場山から赤坂山まで、ずらっと兵士を並べ旗を立てたのでしょうか。なんだかとても劇画チックですが、どうも1582年の上杉景勝が北条を追い返した時のことと混同しているような気もします。 |
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