天城山(てしろやま) 2007.1.2
●天城山(坂山)694.6m。左へ1キロ約40分で鞍骨城。右へ一度下がって大岩を超え、さらに尾根を下ると唐崎城跡。向こう側へ下ると鷲尾城跡。天城山手前に見える黒い陰は、陣馬平まで続く堂平です。天城山山頂には、坂山古墳があります。

■『信濃宝鑑』中巻 天城墟
 土口村大字土口の東南手城山腹にありて、塹湟土塁の形跡を存せり。伝え云ふ、往昔の領主大伝陸奥守貞直の居城たりしが、更級郡山田の領主月影判官の為に攻略せられたりと云う。

■岩野村管轄沿革
 貞観中(850年頃)埴科大領、外従五位下金刺貞長の領地たり。口碑に此の人同郡雨宮村に住す。金刺貞長は神八井耳命(カムヤイミミノミコト・神武天皇の子)の孫(やしゃ孫という説もあり)なり。其後養和(1181年頃)は左大弁師能領となり、後忠清法師の領となれり。爾後(ジゴ・その後)多く年所経て、大佛陸奥守貞直の領地となると云う。貞直、元弘三年(1333年・南北朝の頃)北條氏に従い滅亡す。後領主不詳。近古に至り、村上氏武威盛なるに及びて同氏の領地となる。大塔記に応永七年(1400年)九月川中島大半、村上氏の領分とあり、本村其族清野氏の領地となる。天文二十二年(1553年)八月清野美濃守入道清寿軒、村上義清に従い、武田晴信と上田原に戦い、敗れて義清は越後に走り、上杉景虎に頼る。晴信侵入する連年、天文、弘治年間(1555年)清野氏の居城を陥る。清寿軒また逃れて越後へ走る。舎弟治部小輔武田氏に降り、西條村に移り、本村武田氏の所領となる。永禄三年(1560年・軍鑑に天文二十二年とあるは誤りなり、今松代通記付録に拠る)武田氏、山本晴幸に命じ、海津城を築き、春日弾正忠昌宣移りて城代となり、本村を管轄し、後其領に帰せしと見ゆ。天正六年(1578年)其男源五郎之に代わる。天正十年(1582年)三月武田勝頼滅びて、織田信長の所有となり、其臣森勝三長可(後武蔵守長一)海津城に移りて領す。六月信長弑(シイ)せられ、長可西上す。七月上杉景勝大挙して、北條氏直を村上郷に破り、奥四郡(更級、埴科、水内、高井)を取り、幕下に与う。村上源五景國、海津城代となる。後上條義春、須田満親交代管理す。本村其私領に属せしか不詳。慶長三年(1598年)三月豊臣秀吉上杉氏の封を奥州會津へ移し、田丸中務大輔直昌海津城へ移して領す。五年森右近太夫忠政之に代わる。八年作洲津山城に移り、松平上総介(後少将)忠輝代わりて領す。十五年越後福島城に移り、其臣松平遠江守吉成(花井左衛門)松城に居城して之を管轄す。十五年其男花井主水吉雄襲管す。元和二年(1616年)七月忠輝故有て封を除かれ、松平伊予守忠昌、松城城に来て領す。爾後(ジゴ・その後)信濃守幸民まで十世襲領す。明治二年(1869年)六月藩籍を奉還し、松代藩となり、四年七月松代縣となり、十一月長野縣管轄となる。
引用:『長野県町村誌』第2巻東信篇 昭和11年発行 調査:明治13〜15年 岩野戸長窪田金作氏への聞き取り調査より。

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