斎場山(旧妻女山)・斎場山古墳 2007.1.2
■斎場山(旧妻女山)の由来
●斎場山(513m)。これが本来の妻女山頂です。「古代この山は、斎場山といい、天神山祗を祀る聖なる霊場であった」といいます。
妻女山は、本来は斎場山で、のちに祭場山とも。麓の会津比売神社を庇護した上杉謙信が妻女山と命名したという説がありますが、これは作り話です。謙信がここにいたのはひと月もないわけですし、命名したとしても、その後信玄の支配下になり、謙信についた武将はみな越後などに逃れ、残ったのは信玄方の武将や甲州から移住させられた民。妻女山という名前だけが残るのも不自然です。
実際は、妻女山という名称が初出するのが江戸時代中期ですから、その頃の創作です。しかも、松代藩が深くかかわっています。
戦国時代においては、下の招魂社のある妻女山(411m)は、この斎場山の中腹であり赤坂山といいました。
しかし、明治初期に招魂社ができ、妻女山と呼ばれるようになったものと思われます。下の妻女山は、古い図面には赤坂山と記載されており、ここまでの林道建設の際に、岩野の責任者であった上原氏(故人)が、そのことを確認しているという言質をお孫さんから得ています。
●妻女山(513m)は、「明治初期には、円形の祭祀壇凡四十九箇あったという。信濃国造(くにのみやつこ)、続いて埴科郡領が斎場・斎壇を設けて、郡中一般が袷祭(祖先を会わせ祭る)した処といわれ、
旧蹟も多く認められるが、その詳細は定かではない。」と旧岩野村から長野県に報告されています。尚、大正元年の5万分1地形図では、標高546mとして陣馬平の小ピークを差しているようにも見えますが、実際は妻女山の文字の尻が妻女山古墳の近くにあるので斎場山を指していると思われます。546という数字は、単なる三角測量の際の「標高点」で妻女山の山頂ではありません。そもそも地形図にあるような山頂そのものが存在しません。地形図自体が誤りです。昭和35年の改訂版(下図右)では、標高点は無くなり(妻女山頂なら無くなるはずがありません。)、現在の地形図では、山頂そのものの閉じた線が無くなり(存在しないのであるから当然です)、標高点は、さらに南の594mに移動しています(妻女山が動くはずはありません。)。
更に穿った見方をすれば、当時の測量のミスではなく、1903年(明治36年)に刊行の、日本陸軍参謀本部編集『日本戦史叢書』川中島の戦(日本戦史学会編・豊文館・明44.7)を都合良く補足するために、ありもしない妻女山が、天城山から赤坂山の尾根上に、軍部によって捏造された可能性も完全には否定できません。
また、以前ゼンリンの地図(google map)では、ここ(斎場山)を薬師山としていましたが、訂正を申請し、薬師山の記述を地形図と同様に、会津比売神社の文字の間違いを修正する旨の回答を得、修正されました。斎場山の記載については、地形図に準ずるということですので国土地理院の承認が下りてからということになります。
●「斎場山と称するいわれは、山麓に『会津比売神社(あいづひめじんじゃ)』があり、信濃国造健五百建命の妻女といわれる、諏訪大神の後裔『会津比売命』が祭神であるところから。
国造の妻女を斎き祀るということからこの称がおこったと思われる」ということです。
●妻女山(さいじょさん・さいじょざん)地元では後者。斎場山(さいじょうさん・さいじょうざん)。『甲陽軍鑑』の西条山という記述は、斎場山(祭場山)を西条山と口述筆記の際に誤記したものと思われます。(信濃史料叢書より)同様に、妻上山という記述も斎場山の当て字にすぎません。祭場山というのは、俗名妻女山に対抗して地元の者が作った俗名のようです。尚、当地では西条は、にしじょうと読みさいじょうと読むことはありません。
*ここは個人の私有地であり、大切な遺跡(北信濃で最大級の円墳)です。大規模な団体で訪れて踏み荒らしたり、道を作ったり、無断で木を切ったり、標識を立てたり、何かを持ち帰ったりしないでください。また、夏場はオオスズメバチが営巣し、頻繁に猪と日本羚羊が、希に熊が出没します。

■妻女山(斎場山)古墳について
●山頂直下にあたる韮崎下の平地からの比高約160mにある円墳。規模は径25.6m、高さ5m余りの大円墳で、その昔盗掘の難にあったらしく墳墓の中心に南南東方向に、
長さ5m、幅約2mの窪地ができていて、主体部の盗掘壙であることが明瞭である。墳丘裾は二段となり、周囲を巡って設けられている。
盗掘壙の状況から察すると、縦長のもので、壁石を取り除いた跡の散乱がないことから、粘土郭ではなかったかと考えられるが、詳細は不明というほかない。
遺物については伝承もないので、これも全く不明である。里人伝えて「両眼塚」という。(一説には、昔麓に塚掘り六兵衛なるものがいて、盗掘を重ね酒にかえて飲んでしまったという)

■第四次川中島合戦
●上杉謙信が、この妻女山古墳の墳丘上に床几を据えて、海津城をはじめ武田方の動静を望見したと伝えられています。よって「床几塚」または俗に「謙信台」とも呼ばれます。夜は、西へ下った薬師堂で休んだと伝えられています。
●昭和23年に米軍が撮影した航空写真を見ると、ここが西へ長尾根(薬師山・笹崎)、北に岩野十二川原、北東へ赤坂山、南東へ陣馬平と堂平、南へ千人が窪と上杉軍が布陣した中央にあたり全てが見渡せ、本陣としては最適な場所であることが明瞭です。
●春日城を発った上杉謙信は、牟礼宿で善光寺に向かう兵糧方と別れ布野(長野市朝日布野)で千曲川を渡り、福島宿(須坂市福島)、川田宿と飯山通りを南下。旧谷街道の重要交通路、可候(そろべく)峠を越えて大室から東条へと進軍。
その時、直江山城守が、まだ武田信玄のいない海津城を攻めることを進言するも、「弱兵の城を攻めるは、卑怯未練の働き、臆病者のする業」と取り合わず、無視して進軍。関谷川(蛭川)を越え、多田越え(竹山と法泉寺の間)し、清野に入り、妻女山に布陣する。一の手は、直江山城守が赤坂の下。二の手は、甘粕近江守が清野出埼を陣として月夜平まで。三の手は、宇佐見駿河守が岩野十二川原に。四の手は、柿崎和泉守が土口笹崎に。五の手は、村上入道義清。
上杉謙信本陣は、ここ妻女山(斎場山)に構えた。謙信は、信玄が茶臼山に布陣し、横田、小森、東福寺、水沢まで固め、善光寺からの補給路を断つも全く動ぜず。やがて信玄は、広瀬の渡しから全軍を海津城に入れ、軍議を開く
●武田信玄は、山本勘助の進言により、啄木鳥の戦法を採用。12000の別働隊が、子の半刻(午前1時頃)に海津城を出陣し、西条の入から鏡台山を通って坂城の日名へ抜ける唐木堂への道を登り、右手森の平から大嵐の峰(鏡台山から南へ延びる峰、西条の南南西に977.5mの大嵐山がある)を通り、鞍骨山、天城山を巻いて妻女山(斎場山)の脇より謙信本陣に夜討ちをかける。(史実であれば、忍び松明での夜行軍は、さぞ辛苦の連続だったろうと思われます)武田信玄8000は、寅の上刻に八幡原へと出陣する。◆こちらの航空写真をご覧いただければ、ここ斎場山が上杉軍の最も高い位置で中心にあり、まさに本陣に最適な場所であることがお分かりいただけると思います。
●しかし、武田の戦法を見破った謙信は、月の入りを待って、勇士100人を残し、丑の中刻(午前3時頃)静かに妻女山を下り、未明に濃霧の中、千曲川の雨宮の渡し、狗ケ瀬、あるいは十二ケ瀬を渡り八幡原へ進撃。武田軍別働隊は、辛苦の行軍をして、やっとの思いで妻女山へと進撃するももぬけの殻。あわてて山を下りるも、今や遅しと東福寺で待ちかまえていた甘粕1000人と激戦になる。
●早朝、上杉謙信が八幡原の信玄を急襲し合戦となる。初めは上杉の優勢。やがて甘粕軍を敗った別働隊が到着し、午後は信玄が優勢。謙信は、善光寺への退却を余儀なくされる。 信濃は武田に制圧される。 この戦で武田信玄の弟信繁が戦士。参謀・山本勘助は、猛然と敵に襲いかかり戦死。『甲越信戦録』より。尚、地元に伝わる伝承もこれとほぼ同じです。
武田信玄別働隊の動きは、鞍骨城から見た鏡台山のこちらの解説を
『妙法寺記』の第四次川中島合戦の記述翻訳は、こちらのページをご覧ください

■上杉謙信は、武田信玄は何を求めて信州善光寺平に攻め入ったか
●謙信は、武田信玄の狙う領土の拡張への危惧はもちろん、村上義清などに頼られた義の厚い謙信による武田制圧も大きな理由でしょう。天文23年、武田、今川、北条の三国同盟が締結されると、武田は北信濃への攻略に全勢力を投じるようになります。また、関東管領の職に就き、朝廷・幕府という旧体制の公権力を後ろ盾にした上杉謙信は、大義名分を持って武田征伐に望むことができたわけです。というか、それしか道がなかったともいえます。
●経済的にみれば、確かに越後は米どころ(作付け面積は少なく湿地が多かったといわれますが、人口も現在の13分の1ほど)、佐渡金山は、まだ完全に支配下にはなかったようですが、それ以上に越後上布として有名だった青苧(あおそ)の運上金が多く裕福。しかし、雪が多く麦ができません。上杉謙信は平素うどんも食したことがないといわれています。しかし、若い頃の謙信には、領土欲があまりなかったようでもあります。謙信の死因は、「不慮の虫気」脳溢血らしいのですが、塩辛い鮭の食べ過ぎでしょうか。馬上杯を傾けるなど、かなりの酒好きでもあったようです。
●かたや甲州にも金山はありましたが、火山灰地が多く、米が豊富に収穫できません。犀川扇状地の川中島は米も麦も収穫できます。北信の川中島は雨が少なく昔から良質の小麦の産地です。高度経済成長前までは米麦二毛作で、伊賀筑後オレゴンの名産地として全国に名をはせていました。加えて鮭が大量に遡上して捕れました。当時、鮭は貴重品でした。他にサクラマスや鰻も豊富でした。信玄は、北信濃を手に入れると鮭を税として4割徴収したそうです。武田にとっても上杉にとっても肥沃な川中島は魅力的な地だったのではないでしょうか。また、信濃制圧を足がかりとして、越後の海を、さらには上洛を目指したのかも知れません。しかし、その陰で雑兵による「乱取り」が行われました。火を放たれ、略奪が横行し、男共は殺され、女子供は売り飛ばされ。川中島領民の受けた辛苦は計り知れないものだったに相違ありません。
●また、真田幸隆と村上義清の激しい対立が、武田信玄を信州へと向かわせる口実になってしまったのも否めません。それ以前の信濃小笠原三家の内紛も、戦国時代への対応を遅らせてしまったといわれています。

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