土口将軍塚から千曲川を望む 2007.1.2
●昔、千曲川は、現在よりも雨宮の渡しがあった長野電鉄河東線の雨宮駅の辺りから土口をかすめて北へ、横田神社の東へと今よりも南北方向に流れていました。そのため流れが変わった現在でも、対岸に岩野の住民の畑がたくさんあります。
 川中島は、千曲川より犀川の方が水量、流出土砂も多く、犀口の標高も高いため、川中島扇状地は、本流の高瀬(現在の犀川)のほか御幣瀬、原瀬、中瀬、四瀬の四筋が乱流していたと伝えられています。
 そのため千曲川は、南の山裾よりに押しつけられるように流れていました。この岩野の畑でも場所によっては深く掘ると犀川の白い土が出てくると父が言っていました。
 今でも秋になると、川面一面に濃い霧が立ちこめます。現在は高い堤防があるので、それを越えて集落に霧が立ちこめることは少なくなりましたが、昔は堤防が無かったため、山裾まで霧で覆われたことでしょう。
 その濃霧を利用して上杉謙信は、雨宮の渡しを渡ったわけですが、霧はまた音も消してくれるので好都合だったのでしょう。
 またこの辺りは流速が遅く、昔から土砂がたまりやすいので、「歩渡(かちわたり)」といって歩いて渡れるところだったそうです。私の子供の頃も、岩野橋上流に、季節によっては歩いて渡れるところがあったのを覚えています。また、砂利採取のダンプカーが、川を渡っているのを見たことがあります。戦国時代も、馬は小さいですが、渡れないことはなかったと思います。ただ、雨宮の渡には、木橋があったが武田信玄が、上杉謙信の退路を断つために焼き落としたという言い伝えもあるので、粗末な橋があったのかも知れません。また渡し船があったところもあるでしょう。戦後ですが、岩野橋も木橋の時は、洪水で流れると村人が交代で先導を務め、ワイヤーでつながれた渡し船を漕いだものです。昔の千曲川

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