土口将軍塚古墳(荘厳塚) 2007.1.2
●岩野では、土口荘厳塚といいます。このあたりは、埴科古墳群といってかなりの数の古墳が確認されています。そのほとんどが古い時代に盗掘されてしまっています。父の話によると、昔麓に塚掘り六兵衛という男がおり、古墳を掘り返しては副葬品を売って酒に代えて飲んでしまったということです。歴史に対する認識もその程度というか無かったのでしょう。古代史の研究家によると、この北信濃の古墳群は、日本の古墳文化は西より東へ伝わったという通説にあてはまらないものがあるそうです。朝鮮半島から渡来するに、対馬海流に乗ると、北九州ではなく能登半島や新潟に上陸することは充分に考えられることです。
●この古墳は、5世紀中頃のものと考えられています。この上により新しいとされる斎場山古墳(竪穴式円墳)、さらには天城山に坂山古墳(竪穴式円墳)、その中腹には堂平古墳(横穴式円墳)と積み石塚古墳群があります。
 崇神天皇の代に、大和朝廷より科野国の国造に任命された神八井耳命の子の建五百建命(タケイオタツノミコト)(別名、健磐龍命タケイワタツノミコト)がいます。後に国府は上田に移り、松本に移っています。
 建五百建命には二人の息子がいました。兄は速瓶玉命といい、阿蘇の地にくだり、崇神天皇の代に阿蘇国造を賜っています。弟の健稲背命は科野国造を賜っています。健稲背命の系図は、科野国造、舎人、諏訪評督、郡領、さらに諏訪神社を祭る金刺、神氏とつながっていくのです。
 当時科野は、埴科を中心として上田から善光寺平をいいました。斎場山は、その中心にあります。会津比売は、その建五百建命の妻女であると伝わっています。よって信濃国造がお祀りした斎場山の麓に神社を建立したのです。つまり、斎場山古墳と天城山の坂山古墳は、その当時のものかもしれないということです。
●1973年に県指定史跡。1982〜1986年にかけて、長野市と更埴市(現千曲市)による合同調査が行われました。当時の報告には、「長野市松代町岩野と更埴市土口(どぐち)の境にある斎場山から西方に張り出した支脈の突端に近く、標高454mの尾根上に立地した前方後円墳である。ここは北側の平地面との標高差が90m余りあり、善光寺平一円を眺望できる景勝の地でもある。」とあります。妻女山が岩野と土口の境にあると書いている通り、妻女山は円墳のある頂だと分かります。2007年2月7日に埴科古墳群(森将軍塚古墳・有明山将軍塚古墳・倉科将軍塚古墳・土口将軍塚古墳)は、 国指定史跡となりました。

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