| 笹崎山薬師如来の縁起 2007.1.2 |
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| ●薬師山(笹崎山)にある薬師堂(瑠璃殿)。正式名称は、笹崎山(一名薬王山)政源密寺。 「笹崎山薬師如来の縁起」 その昔、岩野の地は松井の郷、縣の庄、藤沢の里と称し、西は笹崎山をもって土口に境し、東は赤坂山(妻女山)をもって清野に接しており、山並の姿は鳥が翼を広げたようであった。 笹崎山から赤坂山にかけて山麓をめぐって千曲川の清流が洋々と流れていた。 このような、岩野の里の一角に、薬王山政源寺と称する寺があり、境内の広さは四町(4ha)余りで、七堂伽藍が建ち並び壮大なものであった。(注:信濃国府上田の国分寺に次ぐほどの大きな寺院である。すぐ東の斎場山では、古代信濃国造が袷祭したところであるから、麓に大伽藍があっても不思議はない。信濃以前の科野は、屋代・雨宮が中心だったという説もある。) 御本尊は、十二の大誓願をもって、人々の病苦を救い、福徳を授けて、仏法の道を広められる薬師瑠璃光如来であった。 伝えによれば、弘法大師が出羽(山形県)の湯殿山に参拝されての帰路、たまたま信州をお通りになった。(注:弘法大師・空海 774-835) 折しも、疫病がはびこり、病に倒れる人が相次ぎ、死人で道まで埋まる程であった。 大師は、この惨状を憐れんで、一刀三禮(一刀刻む毎に三度禮拝)して、薬師如来を彫刻し給い、難病の解去を祈願されたところ、さしもの、疫病も、たちまち治まり平癒してしまった。(注:828年(天長5年)頃か、実際は弘法大師の弟子、伴国道を鎮東按察使として陸奥・出羽の東国へ赴任させている) 村里の人たちは、その霊験の著しさに感嘆し、堂宇(堂の建物)を建て境内を荘厳にしたので、参詣する者が増えてひきもきらず、年間、終日お香の煙りが絶えることもなかった。〔注:仁和4(888)年の千曲川大洪水(『類聚三代格』17赦除事・仁和4年5月28日詔)〕 この当時以来、幾多星霜を経て時代が変わり、四百年ほど過ぎた頃、千曲川の大氾濫に遭って境域が流失してしまった。〔注:別の洪水・年月不詳〕 (注:養和元年(1181)6月、木曽義仲が平家方の城資茂の大軍と横田川原に戦う時に、ここ笹崎山に陣を取り、大勝の後、戦死者のために、守本尊「袖振先手観音」を安置した。『源平盛衰記』その後里俗、石像薬師仏建立する。『岩野村誌』 流失はこの前か後か不明) このため、一度は、笹崎山麓に移ったが、またもや道路決壊等の災害を受けてしまい、更に山の頭上に移転をした。 山頂にあった堂宇は、創建の当時程ではなかったとはいえ、なかなか立派なもので眼を見張るばかりであった。(注:ここで上杉謙信が休んだと伝えられる) 永禄四年(1561年)甲越激戦の折り、不幸にして兵火の難を受け堂宇のことごとくが焼失してしまった。(注:武田信玄が焼き討ちしたとされる) そこでやむなく、山頂より東北へ四百メートル余り離れた現在の如来堂と称される地簿に仮のお堂を設けてお遷しをした。(注:弥勒堂跡と称される場所がある) その後、再び元の山頂へお戻ししたけれども、往時の壮観な状態に復元することが出来ず、僅かに小さな、茅屋があって、お花や線香が供えられるだけであった。 昭和になって、村出身のある方が、寺の栄枯盛衰を嘆き、仏の啓示によって薬師如来瑠璃堂の確立を発起し、昭和七年十月に新築寄進をしたもあである。昭和四十四年、同氏の家族によって補修を加え現在に至ったものである。 引用:平成八年五月十二日 長野市松代町岩野 笹崎山(一名薬王山)政源密寺 信徒総代 翻案記述岩野区長より抜粋。一部校正。 |
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