岩野・林采女(釋林齊)の墓 2007.1.2
●岩野薬師山(笹崎山)・林采女(釋林齊)の墓。天正10年(1582)3月2日没。墓の様式は、幕末から明治初期にかけてのもので、おそらく古文書に基づいて作り直したもであり戦国時代のものではないが、他にかなり古いと思われる五輪の塔を模した戦国時代の様式の墓もある。

■信濃戦国年表(戦国時代以前は、史実に里俗伝も混じっています)

紀元前148年(開化天皇10年)・第十代崇神天皇は(実際は318年、または258年の没とする説あり)*建五百建命(タケイオタツノミコト)を科野国造に任命して国府を上田に置き天神地祇を敬ひ神地神戸を定めて国土開発をおこなはしめた。科野大宮社を創祀。斎場山にて祀りを行う。妻女は會津比賣命という。その子健稲背命は科野国造を賜り、諏訪神社を祭る金刺、神氏につながる。
                 *『先代旧事本紀』の『国造本紀』では科野国造建五百建命は、神八井耳命(カミヤオイミミノミコト)の後裔(やしゃ孫)**
                 **神八井耳命--武宇都彦命--武速前命--敷衍彦命--建五百建命--速甕玉命・建稲背命
801  延暦20年・・・・・・・征夷大将軍、坂上田村麻呂が(801)正法寺と号した清水庵地蔵堂を岩野に建立。この年、蝦夷(えみし)を討って降伏させる。
828  天長5年頃・・・・・・・弘法大師の弟子、伴国道を鎮東按察使として陸奥・出羽の東国へ赴任。湯殿山に参拝しての帰路、信州を通過。
                 折しも、疫病がはびこり、死人で道まで埋まる程だった。一刀三禮し、薬師如来を彫刻し給い、難病の解去を祈願。疫病も治まる。
                 村人は、霊験の著しさに感嘆。堂宇を建て境内を荘厳にした。参詣する者が絶えることがなかった。『笹崎山薬師如来縁起』
866  貞観8年6月・・・・・・甲戌朔条無位会津比売神に従四位下を授く。『三代実録』
888  仁和4年・・・・・・・・千曲川大洪水にみまわれる。『類聚三代格』17赦除事・仁和4年5月28日詔
1181 養和元年6月・・・・・・木曽義仲が平家方の城資茂の大軍と横田川原に戦う時に、笹崎山に陣を取り、大勝戦死者のために、守本尊「袖振先手観音」を安置
1334 建武元年・・・・・・・・信濃守護職小笠原貞宗が府中(松本)に井川館を設けて林城城主となる。

【室町時代】
1400 応永7年・・・・・・・・信濃の新守護、小笠原長秀の強圧的な支配に、村上満信・仁科氏を中心に
北信、東信の国人ら大文字一揆党の「大塔合戦
」がおきる。
                 守護軍は破れ長秀は京に敗走し罷免される。
1440 永享12年1月・・・・・林忠満(藤助、藤五郎・藤八郎ともいう)が、逗留していた徳川家康の九代前の先祖有親(後の松平)・親氏父子に兎の吸い物を供する。
                 有親親子開運の基と成り、後に徳川家における正月元日に兎の吸い物をもって吉例とする習わしとなる。『徳川礼典録』
1467 応仁元年ーーー1477 文明9年・・・・・・・応仁の乱。信濃小笠原一族は本・支流が三つ巴となって抗争を続ける。

【戦国時代】
1541 天文10年・・・・・・・信州四将(小笠原長時・村上義清・諏訪頼重・木曽義康)甲信国境に16000を挙兵、武田晴信8000に破れる。諏訪氏は滅びる。
1542 天文11年3月・・・・・小笠原長時、瀬沢の戦いで武田信玄に敗れる。
1546 天文15年7月・・・・・村上義清、中沢彦次郎宛に清野信秀(はじめ清秀。伊勢守。国俊の子)が武田方についたと書状を出す。
                 村上義清の臣、林能登守(和合城主)死去。戸倉町羽尾に林氏太祖・明徳寺に城館址。坂城に末裔あり。
1548 天文17年2月・・・・・上田原合戦。武田晴信、村上義清に敗れ板垣信方戦死、晴信も負傷。
          3月・・・・・織田勢と今川勢による小豆坂の戦で、林藤助討死。(天文16年8月という古文書もあり)
          7月・・・・・小笠原長時、塩尻峠の戦いで村上善清と結び武田晴信に大敗。
1549 天文18年4月・・・・・晴信は村井に陣を布いた。これに対して長時は「桔梗ケ原」で応戦、草間肥前守、泉石見守らを討たれ、長時は林城に退く。
                 これにより、洗馬の三村入道、山家、坂西、島立、西牧の諸家は晴信に降った。
                 節を曲げず長時に属したのは、犬甘、二木一族、平瀬らの諸士のみである。
                 しかし、武田晴信からの投降の誘いがあったときも、同じ甲斐源氏だが「格が違う」とはねつける。
1550 天文19年7月・・・・・武田晴信に林城を攻撃され、小笠原長時が林城を放棄自落する。
                 敗因は長時が「武道に優れていたが、我侭・自分勝手であった」「戦功の賞与を願ったら、これを罵った」と伝わる。
                 一方晴信は、「人は石垣人は城」で信玄堤にみられるように臣下を掴んでいた。軍師の駒井高白斎が、勝鬨の儀式を執行する。
          10月・・・・戸石城の戦いで武田信玄大敗。深志城奪還を試みるが村上勢が勝手に陣払いし、小笠原軍1000は孤立。
                 残っていた武田軍10000を撃退。しかし、すでに大勢は定り、長時は自害を決意。
                 これをみて、二木豊後守重高は諌止し、二木氏の中洞の小屋に逃亡を勧め、重高も随った。
                 晴信は中洞小屋に攻め寄せたが、落とすことはできず天文22年まで、二木一族は長時を守ってよく武田方の攻撃を防いだが、落城する。
1551 天文20年・・・・・・・武田方についた真田幸隆が謀略により村上氏の戸石城を落城させる。清野・寺尾氏が味方する。
                 これにより、武田の善光寺平進出の足がかりとなり、川中島合戦に至る。
1552 天文21年・・・・・・・関東管領上杉憲政越後に走り、小笠原長時は長尾景虎(上杉謙信)を頼る。
                 小笠原長時、実弟・小笠原信定に迎えられ信濃・鈴岡城に入るが武田晴信に攻撃される。
                 小笠原長時、三好長慶を頼り上洛し将軍・足利義輝の知遇を得る。摂津芥川城に入る。
                 山縣昌景(旧姓は飯富源四郎)、騎馬150騎を預かる侍大将となる。
1553 天文22年4月・・・・・【第一次川中島の合戦】(布施の戦い)
                 村上義清の要請で上杉謙信は、川中島に出陣。合戦後上洛し、後奈良天皇より「私敵治罰の綸旨(りんじ)」を得る。
          5月・・・・・小笠原長時、桔梗原の戦いで武田信玄に敗れて没落。七歳の貞慶は父とともに越後へ、次いで京へ落ちのびる。
          10月・・・・ヲ林織部が桔梗ヶ原の戦いで手柄をたて、山縣三郎吉清より感状と永500貫匁をもらう。(感状写しは二十一年)
                 武田晴信は川中島への拠点・青柳城を改修、上杉と戦う。南信を制圧。
1555 天文24年・・・・・・・【第二次川中島の合戦】(犀川の戦い)両軍は200日に渡り対陣した。
     (弘治元年)      信濃国善光寺の栗田鶴寿が武田方に寝返り、武田勢力が信越国境真近に迫る。4月、景虎は善光寺奪回のため、川中島へ出陣。
                 今川義元の仲介により和睦が成立。謙信が善光寺の仏像・仏具を越後春日山の御堂に移す。
1556 弘治2年・・・・・・・・景虎が出家隠遁を図る事件勃発。その間に晴信は多数の北信濃国人衆を調略により寝返らせる。
1557 弘治3年・・・・・・・・【第三次川中島の合戦】(上野原の戦い)晴信の北信濃へ勢力伸張に反撃すべく、長尾景虎は出陣。
                 更科八幡宮(武水別神社/長野県千曲市)に願文を捧げて武田氏討滅を祈願。武田晴信への憎悪を顕わにする。
                 晴信は決戦を避け、決着はつかず。将軍・足利義輝が和睦の御内書を送る。晴信は見返りに信濃守護職を要求、就任する。
1558 永禄元年・・・・・・・・晴信は、信濃守護の責務を果たすためと大義名分をたて、和睦を無視して北信濃へ出陣。
1559 永禄2年・・・・・・・・上杉景虎が上洛し、足利義輝より関東管領の就任を許される。武田晴信が出家して武田信玄と改名。
1560 永緑3年・・・・・・・・景虎は、10万の兵を有し北条氏康の小田原城を包囲するも落とせず。この間に武田信玄は北信濃に侵攻、海津城を完成させる。
1561 永禄4年・・・・・・・・景虎は、相模国・鎌倉の鶴岡八幡宮で、上杉家家督相続と関東管領職就任の儀式を行い、名を上杉政虎と改める。
       8月8日・・・・・・【第四次川中島の合戦】(八幡原の戦い)上杉政虎(長尾景虎、上杉謙信)が13000の軍を率いて越後春日山を発つ。
                 牟礼宿で荷駄隊と兵1000を善光寺に布陣させ、千曲川を渡り飯山通りを南下。 
                 大室から、当時の重要交通路、候可(そろべく)峠を越えて関谷川を渡り、多田越から清野に入り、妻女山各所に布陣したとといわれる。
       8月16日・・・・・上杉政虎が信濃海津城西の妻女山(斎場山)513mを占領し布陣する。
                 赤坂下、岩野十二川原、笹崎、陣馬平、堂平、千人窪、月夜平等に軍を置く。
                 妻女山古墳上に床几を置き、夜は700m西方の薬師堂で休んだという。
       8月18日・・・・・謙信出陣の報を受けた武田信玄が18000の軍を率いて信濃川中島に出陣する。      
       8月24日・・・・・武田信玄が信濃川中島に到着、茶臼山から千曲川左岸一帯に布陣し謙信の退路を断つ。しかし、謙信は動かず夜毎猿楽に興ずる。     
       8月29日・・・・・武田信玄全軍が広瀬の渡しより信濃海津城に入城する。謙信は斎場山南東の陣場平に陣城を築く。  
       9月9日・・・・・・武田信玄が軍議を開き、席上山本勘助が「啄木鳥の戦法(半進半退之術)」を献策、採用される。
                 武田信玄が高坂昌信を主将とする奇襲部隊12000を、上杉軍が籠る妻女山への攻撃に向かわせた。
                 武田の別働隊は、西条の入から唐木堂越という鏡台山を通って坂城の日名へ抜ける道を登り、
                 右手森の平から大嵐の峰を通り、山を超えて、谷を下りて、妻女山(斎場山)の脇より謙信本陣に夜討ちをかける。
                 信玄は8000の兵と八幡原へ。
       9月10日・・・・・上杉政虎は、海津城の炊飯の煙の多さで夜襲を察知し、主力を率いて深夜に下山。
                 濃霧の中、雨宮の渡しを越えて車懸り(くるまがかり)の陣をひいて攻撃態勢を整える。 夜明けと同時に武田勢に襲いかかる。
                 上杉方の荒川伊豆守が武田信玄に斬りかかる。中間頭の原大隅守が槍で謙信を刺すがそれて馬の尻を突く。
                 武田信玄は鶴翼の陣をひいて対抗するが、上杉軍の猛攻に武田信玄の弟信繁、参謀・山本勘助が戦死。信繁享年37歳、勘助享年不詳。
                 高坂昌信率いる別働隊が十二ケ瀬を渡るときに待ちかまえていた謙信の甘糟近江守隊千騎の猛攻撃を受けるが突破。
                 一気に上杉軍の後方から襲いかかる。形勢は逆転し、直江実綱の小荷駄隊2000は潮時をみて犀川を渡り、旭山城の麓に陣を張る。
                 上杉政虎もこれ以上の戦闘続行は不利とみて、善光寺に引き上げた。結果、信濃は信玄に制圧される。
                 上杉政虎が、永禄4年末に将軍義輝の一字を賜り、上杉輝虎と改名。
1563 永禄6年・・・・・・・・山縣昌景、山縣三郎兵衛尉昌景と名を改める。
1564 永禄7年・・・・・・・・【第五次川中島の合戦】(塩崎の対陣)上杉輝虎が川中島に出陣するが、武田信玄は決戦を避けて対陣し、にらみ合いで終わる。
                 信玄は東海道や美濃、上野方面に向かって勢力を拡大。輝虎は関東出兵に力を注ぐ。以後川中島で大きな戦いは起こらず。
1565 永緑8年・・・・・・・・将軍・足利義輝が殺害され、小笠原長時は再び上杉謙信のもとへ逃げる。
1568 永禄11年9月・・・・・織田信長が足利義昭を擁して大軍を率い、上洛を果たす。
          11月・・・・武田信玄は今川氏との同盟を破棄して駿河国に乱入。激怒した北条氏康は、駿河国へ出陣し戦となる。甲相駿三国同盟は崩壊。
1570 元亀元年・・・・・・・・上杉政虎が出家して上杉謙信と改名。(川中島合戦で、行人包みの僧体として戦国絵巻や浮世絵に描かれているのは間違い)

【安土桃山時代】
1572 元亀3年9月・・・・・・山縣三郎兵衛尉昌景、三方が原の合戦で徳川家康を撃退。
                 後年、武田家滅亡後、家康は山縣隊の旧臣をそっくり井伊直政に仕官させている。
                 また家康は、本多信俊の子、信勝の幼名を山縣と称せさせた。家康の脳裏には 昌景の印象が相当に強烈だったものと思われる。
1573 元亀4年・・・・・・・・武田信玄死す。
1575 天正3年5月・・・・・・山縣三郎兵衛尉昌景、長篠の合戦で死す。
1578 天正6年3月・・・・・・上杉謙信死去。小笠原長時は、茗名氏を頼り会津に向かう。・・・・・・ヲ釋林齊(林采女)妻死去。
         6月・・・・・・上杉景勝と武田勝頼が和睦する。
1579 天正7年・・・・・・・・小笠原貞慶は会津に赴き、父長時に会って、小笠原家の家宝および家伝の文書を譲られる。
                 武田勝頼の妹菊姫が上杉景勝に嫁ぐ。
1582 天正10年3月・・・・・武田勝頼自害し武田家は滅ぶ。
          3月・・・・・武田氏旧領は、織田信長の武将のものとなり、川中島は森長可のものとなる。
          ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ヲ3月2日釋林齊(林采女)死去。
          6月・・・・・本能寺の変で織田信長が明智光秀に殺される。
          6月・・・・・上杉景勝が川中島を占領。
                 越後に居た貞慶の叔父小笠原貞種が、上杉軍の援を受けて木曽氏より深志城を奪還。
          7月・・・・・貞慶は本能寺の変後、家康の求めに応じて信濃に入り、小笠原旧臣たちを率いて深志城を攻撃、念願の深志入城を果す。林城も改修。
              ・・・ヲこの時、箕輪、下条、溝口、犬飼等と共に林家の武将が参戦したと伝わる。その後、江戸時代の松本城主に小笠原秀政、忠真がなる。
                 上杉景勝により、前海津城代の春日勝賀(春日弾正の虎綱の子)が北条氏に内通した疑で殺される。北条氏川中島へ。
                 上杉景勝は北條氏直の川中島出陣に備えて毎津城を出て清野鞍掛山(鞍骨山)の麓赤坂山に布陣。北条氏退却。
1583 天正11年〜12・・・・小笠原貞慶(家康方)と上杉景勝との間で、青柳城と麻績城の取り合いが4回繰り返された。
1583 天正11年2月25日・・酒宴で家臣の妻にちょっかいを出し、家臣に小笠原長時は殺害される。(享年69歳)
1585 天正13年・・・・・・・秀吉が関白となる。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・真田信之、昌幸が徳川家康の大軍を迎撃、打ち破る。
1586 天正14年・・・・・・・秀吉が大政大臣となり、豊臣の姓を賜る。上杉景勝が秀吉に謁見。
1592 文禄元年・・・・・・・・文禄の役始まる。上杉景勝等が朝鮮に出兵。
1593 文禄2年・・・・・・・・小笠原民部少輔貞頼(長時の孫)が小笠原諸島を発見。
1595 文禄4年・・・・・・・・小笠原貞慶、古河で死去。50歳。古河の隆岩寺に墓あり。
1598 慶長3年1月・・・・・・豊臣秀吉は、奥州会津九十三万石の蒲生秀隆を、宇都宮十八万石に移し、上杉景勝をその後がまに据えた。
                 景勝の分国であった北信濃四郡には、海津城に須田相模守満親、長沼城に島津淡路守忠直、飯山城に岩井備中守信能、
                 牧島城の芋川越前守親正らが在職していたが、これらの諸将にはそれぞれ新領地に配置を定め、その他の地士たちにも、
                 謙信以来の勲功に報ゆるために、それぞれ高禄を給した。
                 海津城将だった須田満親に23000石、清野助次郎長範に14000石、その他西条氏、寺尾氏、大室氏らも優遇して禄を給せられた。
                 かくて北信濃の武士たちは妻子一族を連れて会津に移った。
         8月・・・・・・秀吉死す。
1600 慶長5年・・・・・・・・関ヶ原の合戦
1600 慶長5年・・・・・・・・海津城へ家康は森長可の弟忠政を入れ、待城と改名するが、領地に過酷な総検地を行い農民の恨みを買う。その後、松城と改名。
1601 慶長6年・・・・・・・・上杉景勝は、直江兼続と共に上洛し家康に謝罪。上杉氏の存続は許されたが、直轄所領全てを召し上げられる。
                 唯一安堵された兼続直轄の所領である置賜、信夫、伊達の3郡からなる出羽米沢30万石藩主として減移封される。

【江戸時代】
1603 慶長8年・・・・・・・・松代は家康の六男・松平忠輝の領地となる。その後領主が転々と代わる。
1614 慶長19年11月・・・・大阪冬の陣
1615 元和元年5月・・・・・・大阪夏の陣 貞慶の子、小笠原秀政・その子、忠脩戦死。秀政享年47歳。
1622 元和8年・・・・・・・・徳川秀忠の命で上田城から真田信之が移封され、孫の幸道のときに松代城と改名。以後明治まで10代真田氏十万石の領地となる。
1631 寛永8年・・・・・・・・保科正之(二代目将軍・徳川秀忠の庶子)高遠藩3万石の藩主となり、正四位下・肥後守・左近衛中将を拝受。林家のものが仕える。
1636 寛永13年・・・・・・・保科正之出羽国山形藩20万石を拝領。
1643 寛永20年・・・・・・・保科正之陸奥国会津藩23万石を拝領、南山五千五百石余の幕府領を預かる。
1750 寛延3年・・・・・・・・会津五代藩主容頌7歳で藩主となる。55年間治める。
1742 寛保2年・・・・・・・・5代藩主真田信安。大洪水「戌の満水」起きる。後の大規模な瀬直しで、藩の財政を逼迫させ、領民に多大な辛苦を強いる。
1787 天明7年・・・・・・・・会津藩家老・田中玄宰、城下の豪商林光正とともに人材の育成に努め産業を振興し、藩政改革を図る。
1823 文政6年・・・・・・・・松代藩8代藩主に真田幸貫(松平定信二男)就任。
1841 天保12年・・・・・・・真田幸貫、水戸藩主・徳川斉昭の推挙により外様大名としては異例の老中になる。佐久間象山を重用する。
1843 天保14年・・・・・・・「天保の改革」失敗により水野忠邦が失脚。翌年、徳川斉昭の謹慎とともに真田幸貫は老中を辞任。
1847 弘化4年・・・・・・・・「善光寺地震」により北信濃は壊滅的な被害を受け、松代藩の財政は破綻同然となる。
1855 嘉永6年・・・・・・・・ペリー来航。ヲ会津林家、森木唱嘉次に依頼し「林家譜説」をまとめる。
1855 安政2年・・・・・・・・松代藩9代藩主・真田幸教公が「文武学校」を開校。
1863 文久3年・・・・・・・・真田幸教は幕府からイギリスの軍艦の警備を命じられる。
1864 元治元年・・・・・・・・公武合体派の佐久間象山が尊王攘夷派により京都の三条木屋町で暗殺さる。直後、松代藩は尊皇攘夷に固まる。
1868 慶応4年(明治元年)・・戊辰戦争勃発。真田幸民は新政府軍として参戦。飯山、長岡、会津若松城攻めに参戦。勝利。3万石を拝領。
                 1598年の史料を読むと、後に多くは米沢に移ってはいるが、会津戦争は、ある面松代同士の戦いであったともいえるのである。

【明治時代】
1868 明治元年・・・・・・・・「戊辰戦争」勃発。松代藩戦死者52名。
1869 明治2年・・・・・・・・真田幸民、版籍を奉還し、新政府から松代藩知事に任命さる。赤坂山(妻女山)に戊辰戦争の戦没者を祀る招魂社石碑建立。
1869 明治2年・・・・・・・・「商法社」設立。生糸・蚕種の生産・販売等始めるも失敗。増税に民衆が決起し翌年「松代騒動(午札騒動)」勃発。幸民は謹慎処分。
1871 明治4年・・・・・・・・7月廃藩置県により松代藩は松代県 となる。
1871 明治4年・・・・・・・・11月長野県誕生、松代県は解体され幸民は解任。真田の松代支配は終わり、松代は政治の中心地でなくなる。
1872 明治5年・・・・・・・・松代城廃城となり、城内の土地・建物を順次払い下げられ、桑畑として開墾され、建物も取り壊される。
1873 明治6年・・・・・・・・松代城放火により焼失。

MORI MORI KIDS ■MORI MORI KIDS Nature Photograph GalleryI ■CAPINO CAPINO(C) in Tokyo Japan since 08.04.2003
Ads by TOK2