岩野橋から望む茶臼山 2007.1.2
●茶臼山は崩落が激しいので、戦国当時の面影は、全く留めていないと思われます。かつては、右に北方、左に南峰があったのですが、大正時代時大規模な山崩れを起こし、
現在南峰は、ご覧の通り小さなピークとなってしまいました。子供の頃は、よく化石を掘りに行ったものです。茶臼山の北峰と南峰の間に見えるのは、神話の山、虫倉山(1378.1m)。

●第四次川中島合戦の時に、上杉謙信が斎場山(妻女山)に布陣したことを聞いた信玄は、あえて地蔵峠を越えて海津城に入らずに、和田峠を越えてから千曲川左岸を北上し、有旅村の上の茶臼ヶ城に本陣を構えました。
麓には塩崎城、横田には横田城があり、軍勢を川中島に充満すべく、横田、小森、東福寺、水沢まで固め、善光寺への補給路を断ったといわれています。
 何故謙信は、千曲川を渡り信玄の懐ともいえる妻女山に布陣したのでしょうか。思うに海津城が眼下に見て取れること、北に千曲川が自然の要害として構え、南に天城、鞍骨、大嵐の峰がそびえ、西は笹崎、東は赤坂山があって道は細く、
矢代、松代よりの往来を止めることができます。天城山(てしろやま)から四方八方に伸びる尾根は、東に鞍骨から鏡台山・地蔵峠、南に鷲尾城から倉科、西に唐崎城から雨宮、北に妻女山から長坂笹崎、赤坂山と複雑に尾根と谷が入り組んでいます。
まさに籠城するにうってつけの場所と考えたのではないでしょうか。また、あえて敵の懐に布陣するは、なにか深い戦略があるのではと武田方に思わせることもできます。
また、同じ年の4月に、謙信が関東に出陣している隙を衝いて信玄に、野尻湖南東の割ケ岳城を攻め落とされたことへの報復の思いもあったかもしれません。
 上杉軍は、旧谷街道(千曲川右岸)を南下して可候峠、多田越えをして斎場山(妻女山)に布陣したと伝えられています
。歴史家の中には、善光寺より南下したという人がいますが、裾花川を渡り、犀川を渡り、犀川支流の4本の川と氾濫源を越え、最後に千曲川を渡らなければなりません。
戦国の世においては、地蔵峠が鎌倉時代まで北国街道であったように、流れの定まらぬ湿地帯の氾濫源を行くよりは山越えのほうが容易であったことを忘れてはなりません。
あの松姫でさえ3月の寒空に大菩薩の峰を越えて八王子に抜けているのですから。 やわな現代人を基準にしてはいけません。
(注:武田信玄が最初に海津城に入ったという異説もあります。その場合は、善光寺から茶臼山の山際を南下し雨宮の渡から斎場山(妻女山)に布陣したとみるのが 妥当でしょう)
●甲越の軍勢が入ってくるまでは、川中島には土地の名前を持つ士豪(小領主)がいました。肥沃な扇状地を持つ川中島は、更埴古墳群や大室古墳群に見られるように、古代より栄えた地でした。
村上方の清野氏もそうです。初め武田方につきましたが、後に上杉影勝の会津移封と共にこの地を去っています。よって清野には清野という性がありません。
清野性は、新潟、福島、山形に見られます。同じく川中島にある地名の性も無いか、あっても希少です。
士豪は、甲越どちらかにつくことを余儀なくされ、あるものは滅び、あるものはこの地を捨てたわけです。
そして領民は、逃げまどい、男達は殺され、女子供は陵辱されたり売り飛ばされたりしました。あるものは山を超え遠く山中に実を潜めたことでしょう。
したたかな者は、戦場でものを売り、また、戦後は死者から金目のものを全て剥ぎ取ったとか。
上杉方だった多くの寺社が武田の手によって焼かれたといいます。上杉も松代に火を放っています。
そして、武田が川中島を抑えると、長い戦いで欠けた領民を補うために甲州から多くの領民を移住させたとあります。戦国の名だたる武将の本性はそういうものです。

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