妻女山(斎場山) その1 2007.1.2
「妻女山は往古赤坂山といい、本当の妻女山は斎場山といった。」
 1月2日(火)、初登山は、歴史の山「妻女山」へ。妻女山は、第四次川中島合戦の折りに上杉謙信が陣を布いた処として有名ですが、実は妻女山は、ふたつあります。しかし、そのことを知っている人は意外に少ないのです。
 一般に知られているのは、招魂社と展望台のある標高411mの妻女山。国土地理院の地形図にもそう記載され、地元の人もそう呼んで久しいため、案内板もあらゆるマスコミも、多くの歴史研究家さえ、ここを妻女山といっています。しかし、この山は昔は「赤坂山」という山でした。『清野村誌』には、「招魂社は、妻女山の中腹にあり岩野村に跨る」と書かれています。つまり招魂社のある場所は、本来の妻女山の山頂ではないのです。
 では、本当の妻女山はというと、さらに20分ほど南西に登った標高513mの妻女山古墳のある頂きなのです。ここは、麓の『岩野村誌』や『土口村誌』によると、「古代この山は、斎場山といい、天神山祗を祀る聖なる霊場であった」と記されています。


 「明治初期には、円形の祭祀壇凡四十九箇あったという。信濃国造(くにのみやつこ)、続いて埴科郡領が斎場・斎壇を設けて、郡中一般が袷祭(祖先を会わせ祭る)した処といわれ、旧蹟も多く認められるが、その詳細は定かではない。」と旧岩野村から長野県に報告されています。
 また、「斎場山と称するいわれは、山麓に『會津比売神社(あいづひめじんじゃ)』があり、信濃国造健五百建命の妻女といわれる、諏訪大神の後裔『會津比売命』が祭神であるところから。国造の妻女を斎き祀るということからこの称がおこったと思われる」ということです。*
 信濃にしては暖冬の里山を、息子とふたりで古墳時代と戦国時代の歴史を辿りながら歩いてみました。

■星印
のある写真をクリックすると拡大します。解説なども載っています。ぜひご覧ください。
* 会津比売命は、科野国の祖と云われる健御名方命の子・出速雄命の妻という説もあります。また、会津比売神社には、妻女権現という木札が伝わっています。斎場山古墳が、会津比売のものと云われる所以となっています。

■妻女山の真実については、★妻女山の位置と名称についての特集ページをご覧ください。
 拡大写真のページ妻女山の改称問題についての考察 本当の妻女山は、ここだ!
●清野氏の要害・鞍骨城の鞍骨山と天城山登山は、07年12月31日のフォトルポをご覧ください。武田別働隊の経路を推察してみました。

■今回のコース
千曲川堤防--国道403号線(谷街道)--薬師山登山口--薬師山(笹崎山437.7m)瑠璃殿--土口将軍塚古墳(荘厳塚454m)--御陵願平(龍眼平)--斎場山(513m)妻女山古墳・床几塚--林道(杏の里ハイキングコース)--妻女山(赤坂山411m)--会津比売神社--妻女山登山口(351.6m)
■全行程:約1時間・休憩を含む 気温:0度ー2度 標高差:約162m
■登山地図にないコースです。★二万五千分の一地形図必須・季節によっては、熊・猪・スズメバチ・マムシ対策も。
★狩猟期は、ハンターが入ります。いずれも個人所有の山なので、マナーを守ってください。
●今回の歴史的記述には、岩野・清野・土口の村誌や伝承等と、母校でもある「清野小学校開校百年誌」等を参考にしています。


■第四次川中島合戦
(第一級史料が無く『甲陽軍鑑』『川中島五箇度合戦之次第(川中島五戦記)』『北越軍談』等の軍記物や『上杉家御年譜』、地元の伝承等を参考にするしかないため詳細な真相は不明)
1561(永緑4年)
8月8日・・・・・・上杉謙信が13000の軍を率いて越後春日山を発つ。兵糧軍1000を善光寺に置き、飯山通りを南下、可候峠を越える。
8月16日・・・・・謙信が妻女山(斎場山)を占領し、陣馬平、堂平、千人が窪、赤坂下、月夜平、岩野十二川原、笹崎、長坂に布陣する。
8月18日・・・・・謙信出陣の報を受けた武田信玄が18000の軍を率いて信濃川中島に出陣する。
8月24日・・・・・武田信玄が川中島に到着、茶臼山に本陣を置き、雨宮の渡し西岸中心に川中島一帯に布陣、謙信の退路を断つ。
8月29日・・・・・謙信全く動ぜず。信玄は八幡原経由で広瀬の渡しから信濃海津城に全軍入城する。
9月09日・・・・・信玄が軍議を開き、山本勘助が「啄木鳥の戦法」を献策、採用になる。
9月10日・・・・・【第四次川中島合戦】
          上杉謙信は、戌の刻(午後8時頃)海津城に飯焚く煙立つを見て武田の夜の急襲を悟る。
          謙信は、兵に飯を三食分づつ用意させる。篝火を焚き武田の目を欺かんとする。
          謙信は、丑の中刻(午前3時頃)妻女山を下り濃霧の中、千曲川の雨宮の渡し・狗ケ瀬を渡り八幡原へ進撃。
          武田軍別働隊12000が子の半刻(午前1時頃)既にもぬけの殻となった妻女山へと進撃。
          信玄は8000の兵と共に八幡原に布陣。早朝、上杉謙信が急襲し合戦となる。初めは上杉の優勢。
          別働隊が到着し、午後は武田が優勢。謙信は、善光寺への退却を余儀なくされる。 信濃は武田に制圧される。
          この戦で信玄の弟信繁、参謀・山本勘助が川中島合戦で戦死。信繁享年37歳、勘助享年不詳。
●戦国時代の日本の推定人口は、約1000万人前後。江戸時代は、約3000万人前後といわれています。
■川中島合戦について書かれた本は、たくさんありますが、『川中島の戦』甲信越戦国史 小林計一郎著 長野郷土史研究会発行が、現代のものとしては、もっとも面白い一冊といえるでしょう。初版は、昭和34年発行で改訂版が出て、その後色々な出版社からも出されたようです。改訂版が有限会社龍虎より発刊され川中島古戦場八幡原の売店
龍虎で入手できます。訪れた際にはぜひどうぞ。


●10:03 千曲川の堤防から見る妻女山(斎場山)。左奥に見えるのは尼厳(あまかざり)山。と奇妙山。麓に松代城下。手前は岩野の集落。松代藩の奨励で、信州で最初に薩摩芋を作ったところです。また、戌の満水以降、恩田木工が奨励して長芋の名産地になりました。

千曲川にかかる岩野橋(戌ケ瀬の辺り)。渡ったところが横田、その先に御幣川(おんべがわ)と会(あい)。遠くに武田信玄が布陣した茶臼山が見えます。★茶臼山・上杉謙信はなぜ妻女山に布陣したか(上の写真をクリックすると拡大版が開きます)

●千曲川右岸の堤防を上流へ進むと、前方に斎場山から西へ続く長尾根が見えます。先端は笹崎といいます。この尾根の向こうが土口、雨宮です。薬師山登山口は、この先ですが、ここから一旦左へ下りて403号線沿いにある「戌の満水」の碑に立ち寄りました。
 
●有名な寛保2年(1742)の大水害「戌の満水」の石碑です。★戌の満水とは・・・。

●岩野で被害が大きくなったのは、当時の川の流れが、笹崎で北上し、大きく岩野を回るようにして妻女山へぶつかるように流れていたため、対岸へ水が溢るだろうと予測し、土口の坂が決壊するという危機感が村人になかったためといわれています。山へはいつでも避難できるという油断もあったのでしょう。
 
●403号線と千曲川堤防の合流する地点にある久保モータースの向こうの家との間が登山道入口です。土口将軍塚の小さな標識があります。遠くに篠山が見えます。この上には埴科古墳群のひとつ笹崎山古墳があります。今は国道が拡幅されていますが、江戸時代以前は、山が千曲川に落ちており、谷街道は山を超えていました。跡が登山道の右下に見えます。

●10:10 薬師山登山道入口。長野電鉄河東線、薬師山トンネルの右手から登ります。春秋の祭りには、伝統の「仏恩講(ぶっとんこう)」により祀られ、供養の団子が供えられます。この空き地には露天が出て、お祭り気分を盛り立てたものです。この山の端は笹崎、東へ斎場山へと続く尾根を「長尾根」といい、清野妻女山(赤坂山)の東へ越える道を「斎場越し」、清野では「土口坂」、土口では「清野坂」、一般には「長坂」といって海津城西部の重要な交通路でした。
 
●登山口から振り返る長野電鉄河東線、岩野駅方面

●薬師山(笹崎山)中腹より対岸の横田川原を見たところ。★信濃の戦国時代
 
●さらに上には、大本家の稲荷神社。この上が薬師山ですが、本来は笹崎山といいます。

●10:31 薬師山頂(437.7m)。地元では、「おやくっしゃん」と親しまれている薬師堂(瑠璃殿)があります。「瑠璃殿」とは薬師如来を瑠璃光如来と称することから。南側の土口の古大穴神社から登ってくる参道もあります。古くは、養和元年(1181)6月、木曽義仲が平家方の城資茂の大軍と横田川原に戦う時に、ここ笹崎山に陣を取り、大勝の後、戦死者のために、守本尊「袖振先手観音」を安置した。(源平盛衰記)その後里俗、石像薬師仏建立する。(岩野村誌)とあります。★笹崎山薬師如来の縁起

●応永七年(1400)信濃の新守護(婆娑羅大名)小笠原長秀と村上満信、仁科氏ら国人衆たちの大文字一揆党が戦った大塔合戦もありました。そして村上氏が勝利し、善光寺平を支配します。中野の高梨氏は、さらに北の信濃を支配しました。
●この薬師山には、謙信が第四次川中島合戦の折りに寝床としたとされる大きな堂塔があったと岩野では伝えられています。本陣のあったといわれる斎場山(旧妻女山)は、これより尾根づたいに700mほど東になります。

●10:34 尾根を200mほど東へ歩くと「土口将軍塚古墳」。標高は、454m。前方後円墳で見えるのは後円部。
 
●平成19年2月7日に国指定史跡になりました。岩野では荘厳塚(しょうごんづか)ともいいます。

●北面と南面には巻き道。個人の所有地です。
 
●南方、土口の眺め。埴科古墳群最大の森将軍塚古墳が見えます。まさにここ大穴郷は、「王家の谷」のようです。ここ長坂を、土口の人達は、「清野坂・清野道」ともいいます。★雨宮の渡し

●北方、岩野と千曲川、善光寺平の眺め。対岸は、小森と東福寺。★昔の千曲川
 
●古墳の上からは東方に御陵願平(龍眼平・両眼平)が見えます。江戸末期-明治初期の字図では、転化して笹崎の御陵安平と記されています。

●古墳を振り返ったところ。東側から見えるのは前方部。
 
●ここからほぼ平らな道が200mほど続きます。前方上は御陵願平。

●急坂を高さ40mほど登ると突然平地が開けます

●振り返って御陵願平(龍眼平・両眼平)。昔は桑畑でした。ここに往古、會津比賣神社があったともいわれています。中央で二段に分かれています。

●御陵願平といわれる所以は、南にそびえる天城山頂にある坂山古墳と、この先の斎場山古墳を、ここから拝んだからともいわれています。ほとんど解明されていない信濃国の前身の科野国の全容が、学術調査により分かるといいですね。
 
●左手に小さな塚を七基見ながら、さらに100mほど歩くと左手に小高い丸い丘が見えてきます。これが斎場山(本来の妻女山)です(私有地)。標高は513mで、山頂には斎場山古墳があり、招魂社のある妻女山(赤坂山)より102mも高く見晴らしは抜群です★妻女山古墳と第四次川中島合戦について

●10:47 古墳は古い時代に盗掘されています。ここに上杉謙信が床几を据えて、海津城をはじめ武田方の動静を望見したと伝えられていて、地元では古くから「床几塚・謙信台・龍眼塚」などと呼ばれています。夜になると薬師堂まで下りて休んだといわれています
 
●北側は川中島が一望の下に見渡せます。謙信の旭山城、葛山城、大峰山城はもちろん、信玄の茶臼山砦、塩崎城、竹山城、尼厳(あまかざり)城、海津城、そして八幡原(はちまんぱら)も丸見えです。★飯縄山望遠・川中島について

●斎場山山頂から見た360度のパノラマ。★必見
■「国土地理院の数値地図25000(地図画像)『松代』」をカシミール3Dにて、写真の次男が制作。

●東側の眺め。現在は樹木で遮られていますが、無ければ海津城、尼厳城、八幡原だけでなく、千曲川三つの重要な渡し、雨宮の渡し、猫(猫島)の渡し、広瀬の渡しも丸見えです。すぐ眼下右手には十二ヶ瀬も見えます。通称「滝」と呼ばれる人工的な堰がありますが、度重なる水害で崩れ、昔より目立たなくなりました。
 
●南には天城山(てしろやま)。ここと結ぶ尾根は、天城山手前はヤセ尾根ですが、西方中腹には堂平という緩い傾斜地があります。また千人が窪(千が窪)といわれる場所は、江戸時代の古地図には陣場平下の清野側の窪地とされています★パノラマ918k

●坂山古墳のある天城山と眼下には中腹に平地や窪地が。養蚕が盛んだった昭和30年代までは桑畑だったため、地形がよく分かったのですが…。
 
●距離100mほど下ると、年末に登った「鞍骨城(くらぼねじょう)」に至る「あんずの里ハイキングコース」です。陣馬平は、この右手約10分のところです。天城山(てしろやま)と呼ばれる所以は、麓の土口から見上げると、まるで天空の城のように見えたからだと思います。それは土口の奥、あるいは倉科の生萱の奥へ実際に行って見上げてみると分かります。手城とも書きます。

●この妻女山古墳から、私達が辿ってきた西方に下る長尾根(長坂)と呼ばれる尾根上には、30〜40mの間に径6メートル前後、高さ1.2〜1.6メートルの円墳が七基並んでいます。俗に「旗塚」といいますが、実際は戦国時代に上杉謙信が旗を埋めた塚ではなく、古墳時代の県主、郡司を祀った斎場祭壇ではないかといわれています。

●左「陣馬平(じんばだいら)」と右奥に清野氏の要害鞍骨城の支城・天城砦のあったといわれる天城山。大勢の兵を置いたといわれる陣馬平と天城山の間の中腹には堂平と呼ばれるかなり広い平坦な場所があります。また蟹沢(がんざわ)という水場があり、子供の頃よく沢ガニを捕まえに行きました。陣用水だったと思われます。また、堂平には埴科古墳群のひとつ「堂平古墳群」があります。

●息子が撮影した天城山。★岩野村管轄沿革

●天城山(694.6m)から斎場山・川中島方面、北の方向を見たところ。妻女山(戦国当時の赤坂山)は、ここからは見えないことが分かります。海津城は、ずっと右手、茶臼山は左手になります。青い筋は、千曲川。
■「国土地理院の数値地図25000(地図画像)『松代』」をカシミール3Dにて制作。

●10:56 「あんずの里ハイキングコース」の看板のある分岐の長坂峠。往古には東風越(こちごえ)と呼ばれたところです。右奥に霞む天城山。左の台地状の山が「陣馬平」。真ん中左の小ピークが大正時代に546mの標準点がおかれ、外部の人に妻女山と地図を誤読されたところ。後年消去されました。石標はありません。
 
●左が妻女山(赤坂山)へ下りる道。右が天城山への道。後方は斎場山。斎場山は円墳のあるこの山だけですし、妻女山が斎場山を起源とするかぎり、本来の妻女山は、斎場山のことです。麓の会津比売神社には、妻女権現の木札があり、妻女山の命名と関係があると思われます。

●ノケダン(野毛壇)。この辺りも広くはありませんが窪地があり、兵が隠れられそうです。養蚕の盛んな頃は、この辺りも桑畑でした。但し、落葉松の植林が盛んになる戦前は、桑畑と茅葺き屋根を作る茅の山でした。
 
●妻女山(赤坂山)へ下ります。去年は50センチ以上の積雪がありました。

●初夏以降は、この辺りはスズメバチが営巣します。私も以前、オオスズメバチに襲われました。夏秋は要注意! 猪・熊も出ます。
 
●この辺りも高度経済成長前は桑畑でした。谷へ下りると「上杉謙信槍尻の泉」への近道です。

●妻女山(赤坂山)招魂社の駐車場。ここは、昔は細い山道を中心に両側は尾根の傾斜地でした。訪れる人はほとんどここまでしか来ません。この先(下ってきた処)は熊も猪も出ます。マムシにも注意。車で来て、観光気分でここから先へは決して行かないようにしてください。トレッキングの支度で。
 
●左の平地は、この林道倉科坂線を造ったときにでた土砂で造成されたものです。昔はありませんでした。鞍骨城へは、この林道を辿り、途中から鞍骨城登山口から鉄塔下か、倉科坂を登って二本松峠へ。左へ尾根を辿ります。地形図としっかりした支度が必要です。

●11:10 妻女山(赤坂山)招魂社。松代藩(藩主真田幸民)が、1868(明治元)年の戊辰戦争で明治政府軍として、幕軍と戦ったときの戦没者を祭った社で明治2年建立です。瓦には真田の六文戦の紋が記されています。その功績を受けて、松代藩からは、多くの人が新政府に重用されました。表参道は、清野小学校の右側から始まります。麓には古い手水鉢がありますが、藪の中。復活して欲しいものです。★妻女山の改称問題についての考察
 
●志ら雲うんぬんと読めますが、句碑でしょう明治六年の建立です。。★招魂社の祭り
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