地名から読む戦国時代の千曲川河道(第四次川中島合戦当時の千曲川)
●青色は、江戸時代の天明年間までの千曲川の河道といわれるものです。江戸時代のいくつかの図会や史料、地元の伝承や科学的な考察から推測されたものです。それを更に遡って、第四次川中島合戦当時の河道を想像してみようと思います。戦国時代も同じような河道だったと思われます。
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 まず謙信が鞭静粛宿と渡ったと伝わる「雨宮の渡」から。現在は旧河道に沿って用水があり、この少し下流の地名に「古川」というのがあって、千曲川の旧河道と推察できます。現在は沢山川(生仁川)が流れています。その下流の笹崎は、現在は二車線の道路があり難所ではありませんが、江戸時代は山が千曲川に落ち込んでいて、北国街道東脇往還(明治6年に谷街道へ)は笹崎の先端の中腹を巻くように通っていました。
 松代藩の参勤交代の図会や江戸後期に描かれた『川中島謙信陳捕ノ圖』には、笹崎の中腹を巻く街道が描かれています。川縁の崖には、山裾を巻く細い道が描かれています。そこから川は現在よりも北に向かっていました。笹崎の対岸には、もちろん堤防は無く(大正時代に築造)、横田の集落が川縁の自然堤防上にありました。右岸には、水神を祀る「伊勢宮」があり、わが家も一反の広さの畑がありましたが、明治48年の洪水で流失しました。それ以前の河道は、現在より50mほど西にあったということです。
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 川中島は、犀川の扇状地であり、北西の犀口から大きく四本の支流が川中島を流れて千曲川に合流していました。小森に古犀川という地名があり、現在も犀川の支流や茶臼山からの岡田川が流れ込んでいます。古(小)犀川が流れ込んでいた地点には、滝と呼ばれる白波を建てる石積みがあります。これは、松代藩が、弘化四年(1847)の善光寺大地震の災害復旧として嘉永三年(1850)頃、小森村と東福寺村と共同で河に自然石を積み、流れを南流させようとしたものです。古(小)犀川が千曲川に接近してから十二ケ瀬の対岸で再び北へ曲がっていますが、これは千曲川の古い河道です。
 十二ケ瀬(十二河原)は、江戸時代の川中島合戦の軍記物に出てくる地名です。川が分流して網目状になり、たくさんの中州があったことが想像できます。現在も十二という名前の畑が岩野側の河川敷にありますが、褶曲した地形が当時の姿を物語っていると思われます。
 その上流、岩野橋辺りに戌ケ瀬、清野の松代PA辺りに猫ケ瀬がありましたが、いずれも犬や猫が渡れるほど浅い瀬という意味です。堤防がなかった頃は、今よりも好き勝手に川が流れていたのでしょう。千曲川は一級河川としては類を見ないほど水位の上限が激しく、渇水期には子供でも歩いて渡れることもありました。ダンプカーが川を渡っているのを見たこともあります。第四次川中島合戦の頃は、調度渇水期にあたるので、水量は少なかったかもしれません。
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 善光寺大地震から遡ること100年余り、寛保二年(1742)に戌の満水と呼ばれる千曲川水系で2800人余の死者を出した大水害がありました。岩野では160人が亡くなり、わが家の先祖も3人が犠牲になっています。その後松代藩は(第5代藩主真田信安)、幕府より一万両を拝領し、東福寺地籍(赤坂)から関崎までの大規模な瀬直しを行いました。上の地図の、それ以前の河道が青い線で、瀬直し後のものがほぼ現在の河道です。瀬直しにより松代城より700mほど西に川が移されました。笹崎より上流では、塩崎からの雨宮の渡へ南流していた流れが、真西の笹崎に真っ直ぐぶつかるように流れ、岩野を直撃しました。そして、新河道は、ほぼ現在のように変わってしまったと思われます。瀬直しも古い河道を利用して行われたようです。
 さらに旧河道は、清野では長野電鉄に沿うように流れ、松代城脇を流れて北流していました。清野と松代の境には、清野川が流れ込み松代の玄関口「勘太郎橋」がありました。「勘太郎橋」は、延享年間(1744)に建造した棟梁の名を取って命名されましたが、古くは「滑澤橋」といい、『妙法寺記』に「直江山城守は先鋒として赤坂の上(現在の妻女山)より滑澤橋に備え」と記されています。現在は、明治27年(1894)、碓井第四トンネルをつくった岩野の南次郎三郎が郷土の水害防止のため設計した、逆流防止の水門と橋とを兼ねたアーチ形の美しい石橋が現存しています。
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 上の地図で緑色の線がありますが、これも旧河道です。川式(敷)という地名がありますが、これは旧千曲川の跡という意味です。妻女山にぶつかるように流れていました。高速道路ができる少し前まで、山際には蛇池という池があり、千曲川の跡といわれていました。この河道は、天明元年(1781年)に行われた「国役御普請」で消滅。これで谷街道開通したようです。
 川式の堤防際には御榊下(おさかきした)という地名があります。南には御榊上があり、その南には如来堂という地名があります。御榊には寒冷地にはない榊の木ではなくコノテガシワ(児手柏)が植えられていました。ヒノキに似た葉(枝)が、子が掌を立てたような形をしています。
 それは、手を挙げてこちらへ川の水が来ないようにと祈念して植えられたものということです。この木は、戦後リンゴの病気が蔓延した時に伐採されてしまいましたが、同じように祈念して植えられたものが、対岸の岩野橋下流の西島に現在も残っており、樹下には稲荷の祠があります。
 御榊上南の如来堂は、永禄四年(1561年)第四次川中島合戦の折りに、笹崎山(現薬師山)にあった薬師如来道が、武田信玄により焼き討ちされた後に仮の堂宇を建てた場所として、その地名が残る場所です。(笹崎山薬師如来の縁起を参照
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 川式の東の起目というのは、川が移動したことにより起きあがった土地という意味です。正しくは起目沖といいます。雨宮の渡の北にある起返という地名も同様です。川式と起目の境の地中深くからは犀川の白い砂が出てきました。千曲川が妻女山に押しつけられるように流れていたときに、子犀川がここまで流れ込んで土砂を堆積させたという証です。
 結論ですが、江戸時代の天明元年(1781年)まで、河道は妻女山にぶつかるように流れていたということです。
 第四次川中島合戦当時の河道も、ほぼ同様だったと思われます。とすると斎場山は、千曲川を掘とした堅固な山城の様を呈していたということです。清野ではもっと南流していた可能性もあります。いずれにしても、当時の千曲川の流れが戦局に重大な影を落としていたことは間違いないと思われるのです。
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■千曲川の変遷
寛保2年(1742年)8月1日、2日 戌の満水 妻女山(赤坂山)下蛇池は千曲川の旧流の一部だった。
延享4年(1747年)洪水のあと、何本かに分かれて流れていたうちの一つを掘り下げて流れを変えようとした。
宝暦12年(1762)新しく掘り下げた川筋に川は流れたが、それまでの流れ(古川 )にも同時に流れていた。
宝暦13年(1763)になっても、松代道は勘太郎橋を渡って南に大きく湾曲しており、地蔵の木から妻女山をこえて土口に下っていた。
天明元年(1781年)に行われた「国役御普請」これで谷街道開通か。つまり蛇池旧流の消滅。
享和4年(1804年)の千曲川災害満水。
文化4年(1807年)に「国役御普請」「水刎」というものを石を使って30間築いた。
弘化4年(1847年)7月8日 善光寺地震。
嘉永元年(1848年)から嘉永5年 松代藩のお手普請。嘉永年間の小森の史料にも対岸へ集めた石を船で小森の方へ運んだという史料がある。

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