清野氏と戦国時代 2006.12.31
清野氏について

 清野氏が信濃国の記録に残されているのは、室町時代に入ってからで、十五世紀の半ば永享の乱の前後から十六世紀の終り、上杉景勝が豊臣秀吉の命により、越後から会津に移るまでの百五十年余りの間と思われる。
 埴科郡誌によると、清和天皇の皇子貞純親王五代の後裔(こうえい)仲宗は京都の院の庁に仕え、殿上人として栄えていたが、白河上皇の関する事件で、仲宗は讃岐へ、子の惟清、顕清はそれぞれ伊豆、信濃に流された。顕清の弟盛清は惟清の養子となり、顕清の子の為国は信濃国村上郷に住み、為国の子惟国が清野に住み清野氏と称したという。
●1438年(永享十)鎌倉公方足利持氏が滅び、その子永寿王は信濃に逃れ佐久の大井持光に頼った。兄の春王、安王は常陸国に至り、茂木城の結城氏朝をたより父持氏の遺業の回復を求めた。氏朝は両人を居城に迎え入れたので、安王は御教書を関東の諸将に送って助けを求めた。一方永寿王の求めに応じた持光は、家臣の芦田氏、清野氏を六歳の永寿王につけて結城城に送り届けた。
 これにより関東の将士はまた二つに分かれ、関東管領の職についた上杉憲実は伊豆にいたが、幕命によって鎌倉に入り、弟の清方と上杉持朝に命じて結城城攻撃に当らせ、自らも兵を率いて鎌倉を発した。
 憲実は信濃守護小笠原正透に陣中奉行を命じた。正透はこれにより信濃国中の諸士を三十番に分かち、陣中の取締りや矢倉の番をさせた。この中に、屋代、雨宮、生仁、関屋、寺尾、西条氏等があった。こうして正透らの攻撃により結城城は落城した。1441年(嘉吉元)のことであった。清野氏は永寿王を送り届けると、清野へ帰ったようであるが、その後の行動については詳らかでない。その頃の足利尊氏以来の年初恒例の射場始めの射手選びとか、諏訪社の流鏑馬や御射山頭役などに屋代氏、村上氏などが見えるが清野氏の名は見あたらない。
●1467年(応仁元)清野正衡は入道して徳寿軒といい鞍骨城を築き、後1510年(永正年間)頃同城の鬼門除けに離山神祉を創建したという。
●1488年(長享二)清野氏(正衡の頃か)諏訪社の下社秋宮宝殿造営の郷と定められている。
●1495年(明応四)清野伊勢守長続(伊勢守国基か)の頃、英多庄(松代、東条、西条、豊栄)を支配していたことが記されている。十六世紀のはじめ(国俊の頃か)節香徳忠和尚を請し森村に禅透院を建てた。
●1540年(天文九)武田信虎は信濃国を攻略しようと始めて佐久郡に攻め入り、小県郡海野棟綱を攻めた。海野氏は敗れて棟綱と子の幸隆は上野国に逃れ、関東管領上杉憲政に頼った。憲政は武田氏の勢力を佐久地方から排除し、海野氏を故地に還してやるために兵三千を率いて佐久に攻め入った。村上義清はこれを聞くと直ちに諏訪頼重と武田晴信に急報し救援を求めた。諏訪頼重はさっそく兵を率いて小県郡に入り上杉陣に対した。しかし義清、晴信は頼重を助けようとしないので、頼重は単独に憲政と講和しそれぞれ領国に帰った。暗信は頼重が単独講和したことを怒り、諏訪郡に入り頼重を攻め減し、続いて伊那、筑摩方面を攻めてこれを征服した。
 上野国に逃れていた真田幸隆は、上杉憲政が鎌倉に帰ってしまったので、敵対関係にある村上義清のことを考え、攻めて武田晴信に服し、その助けを借りて宗家海野氏に代って小県郡支配を実現しようとはかった。
●1548年(天文十七)2月晴信は幸隆の頼みもあって、村上義清を攻略しょうと大門峠から小県郡に出兵した。大門峠の戦いに清野国俊は義清の軍に加わっていたが敗退した。また勝照に命じて小笠原長時の深志城奪回を助けるため、島立城を攻撃させたが、これも功を奏しなかった。その後義清は晴信の軍を塩田平に迎え勇戦して武田勢を退けた。世にいう上田原の戦である。その後もしばしば戦いがあったが、●1550年(天文十九)晴信は義清を討ったために小県郡の戸石城攻撃にかかった。
 これより先、晴信は北埴の清野、寺尾氏らをさそって味方につけ、善光寺方面から地蔵峠を経て村上義清に援軍の来るのを阻止しようとした。清野氏らはそれに服したので、晴信は清野氏に命じて、雨宮氏や坂城近辺の諸士にも武田方に出仕するようすすめたが、これらの人たちはこれを拒んだ。晴信は戸右城攻撃を続行したが、戸石城の守りは固く容易に攻め落とすことができず、多くの将士を失って敗退した、「晴信の戸石崩れ」というのはこのときの敗軍をいうのである。
 勝利を得た村上義清は、敗走する武田軍を追って佐久郡に進み、佐久地方の武田勢に攻勢を加えたが、やがて晴信が村上義清の居城攻撃に向かうとの報に、義清は自分の居城葛尾城に帰った。
●海野氏の一族真田幸隆は、翌日1551年戸石城を急襲してこれを陥れた。戸石城は小県郡方面におけるきわめて重要な所であり、義清の居城葛尾城にとっても、攻防上の要地であった。これが武田方の手に落ちたことほ、葛尾城の防衛に大きな痛手であった。
●1553年(天文二十二)
 筑摩、安曇を平定した武田晴信は、1553年(天文二十二)正月から、村上義清攻略の準備を進め、信濃各地の諸将に密かにその意図を伝えた。屋代城主屋代政国は塩崎氏らと晴信に従う旨を伝えた。その他にも武田方に従うものが続出した。清野勝照の弟信清、子の清重と武田氏に服し、信清は西条に移り西条治部と称し、信玄から更級郡の原、今里の地を宛行われた。
 村上義清攻撃の態勢をとった武田勢は、筑摩郡の西条、坂北方面から葛尾城を目ざし、一方先に武田氏に服属を示した屋代、清野、塩崎氏らによる北方からの圧力を受け、形態の不利を見て葛尾城を放棄し、高井郡の高梨政頼を介して越後の長尾景虎に救援を求めた。
●1553年(天文二十二)景虎及び義清、高梨政頼の兵は、武田勢を追って更級郡に入り、義清の旧領を奪回し、更に義清は小県郡の塩田城に入って、勢力の挽回を計り、再挙を行おうとした。
 これを知った武田晴信は、綿密な計画のもとに、塩田城の周辺の城を攻略し同城を孤立させた。義清は如何とも致し難く城を抜け出して所在をくらませた。
 その後塩田城を脱出した村上義清は、高梨政頼の斡旋により、越後国春日山城の長尾景虎の許に至り、失地回復の援助を請うた。海津城将須田満親、清野勝照らは義清と行動を共にした。
 晴信は更に北信濃全域を掌中に収めようと、上杉方防衛の最前線の要地である水内郡の葛山城を急襲し、同城を陥れ、更に進撃して、長沼城を攻め落とし飯山城に迫った。
 長尾景虎は晴信が信越国境近くにまで進んだことから、国の防衛を、義清の頼みに応えるため、信濃国に入り善光寺平を経て、埴科郡の南端鼠の辺まで武田勢を撃退した。
●晴信は再度北信経略をはかり、1555年(天文二十四)善光寺平に出陣した。このため村上義清、高梨政頼は長尾景虎に信濃国に出兵して、晴信の軍を討ち払うことを懇請した。景虎は兵を率いて善光寺平に出陣して、善光寺横山城に陣をとり、一方武田勢は、犀川南の更級郡大塚に陣して相対峙したまま、小競り合いはあったものの、春から秋まで膠着状態が続いた。
 このとき駿河の今川義元が両者の問を斡旋し、和睦を計ってくれたのを幸として、同年10月半ば両者は和睦して互に兵を引いた。この時の和睦の条件は詳らかでないが、武田方は旭山城を破却し、犀川をもって武田、長尾の領界とし、互に侵すことのないことなどであったようである。
●武田晴信は景虎と和睦はしたものの、北信濃全域を掌中に納めようとの意図を、断念したものではなかった。1557年(弘治三)2月晴信は、景虎方の最前線の要地である葛山城を、急襲してこれを陥れた。景虎はこの報を聞いて出兵しょうとしたが、信濃国境の雪にはばまれ、雪の消えるのを待って三月の末、北信濃に向かい水内郡、高井郡の武田方の守兵を追い散らして、善光寺平に入った。旭山城に本陣を置き、武田勢を一戦しょうとしたが、晴信はこれを避けて南方に退いたので、景虎は旭山城を出て、当時晴信が築城を始めていた香坂城(海津城)を攻め、近辺の村々に火を放ち晴信の出撃を待った。この年の2月の和睦以後も両軍は各所で小競り合いを続けていたが、8月の末ころ両者の軍は上野原において戦った。この上野原については埴科郡の岩野であるという説がある。
●これより先、1552年(天文二十一)景虎は朝廷により弾正少弼に任じられ、従五位下に叙せられたので、朝廷及び将軍家に答礼のため上洛を予定していたので、晴信勢を小県郡へ撃退したのを機に越後へ引き上げた。
●1558年(永禄元)将軍足利義輝は、景虎を上洛させるため、晴信と景虎を和睦させた。翌年4月景虎は長尾政景に春日山城の留守を命じ上洛した。
 景虎上洛の頃信玄(この頃信玄を改む)は、将軍家から信濃国守護に補任されたのを名分として、信濃国を完全に経略しょうと奥信濃に兵を進めた。しかし長尾政景はよく信越国境を守った。同年十月末長尾景虎は京から春日山城に帰った。諸将は皆太刀などを送って帰国を祝した。諸将の中には村上義清以下清野勝照やその他屋代、西条、東条氏らも多く加わっていた。
●1560年(永禄三)、長尾景虎は義渚の求めに応じ信濃国に出兵していたが、3月たまたま能登に争乱があり、急ぎ越中に出陣してそれを鎮めて帰国すると、関東の上杉憲政から出陣の要請があり、翌年関東に出陣し、小田原に北条氏康を攻めたが、氏康は今川、武田勢の援助により、よく防戦したので攻めあぐみ、再挙を期して鎌倉に引返した。
 鎌倉で上杉憲政から譲り受けて上杉氏を称し、関東管領となり、名乗りの一字を得て政虎と改名した。
 さきの景虎の上洛から続いて関東への出陣、そして春日山城への帰国までの二年間は、信玄にとって北信濃経略の絶好の時期であった。武田信玄は北信濃経略を徹底的に遂行する根拠地として海津城の構築を行い、北信濃四郡の統轄者として、海津城代に春日虎綱を任命した。このような状況から清野勝照、清重親子は信玄に服していたものと思われる。
 海津城築城について甲陽軍艦は、天文22年に山本勘助が構築したと記しているが、当時このあたりが武田氏の勢力下にあったことはなく、また、1555年(弘治元)景虎、晴信が長く対陣した際にもこの城を利用した形跡はない。しかるに晴信が、景勝の葛山城を攻勢した際、景虎は先年の和睦の条件を破ったのを怒り、旭山城を攻め、武田勢に反撃を加えた後、晴信領に侵入して香坂城(海津城)を攻め、近辺に火を放ったことは前に記したが、これは晴信が、1556年(弘治二)に城将香奴氏に命じて築城していたものを景虎が攻めたのであろう。
●1564年(永禄七)4月信玄は蘆名盛氏を誘って、越後に攻め入らせ、野尻城を陥れたが、清野刑部左衛門宗頼は蘆名氏と共に参戦した。翌年3月信玄が上州に出陣して輝虎の属城倉賀野城を攻めたときも、宗頼は真田幸隆の輩下に入り参戦した。このように上野国においても甲越の競り合いは繰り返されたが、信玄は北信濃の経略を続け、この頃西条には清水寺を、清野には風雲庵を造建したと伝えられている。
 この頃清野勝照が死亡し森村禅透院に葬られた。このことからこの頃の清野氏の勢力範囲は、雨宮、倉科、森あたりまで及んでいたものと思われる。数年後の1573年(天正元)清野清重死亡。同じく禅透院に葬られた。清重は雨宮神社を再興し、西灸の法泉寺の開基であるといわれる。
●上杉景勝が、武田勝頼の妹を娶ったのが1580年(天正八)であった。それ故景勝は関東政略の拠点とした沼田城を勝頼に譲った。これにより勝頼は、吾妻郡においてかねてから功のあった、真田昌幸の望みにまかせて、沼田城を昌幸に与えた。しかし、同城の旧主酒田平八郎が肯じなかったので、昌幸はこれを討って攻め取った。ついで昌幸は西条治部に命じ、沼田城に在域させ城番普請を励ませた。
●1561年(永禄四)の川中島合戦の後も、越後の上杉氏、甲斐の武田氏、関東の北条氏の間には戦いが繰り返されていた。
●1582年(天正十)武田勝頼の死によって北信濃は武田氏の手から解放されたが、間もなく正親町天皇により、信濃国支配の事が織田信長に任せられた。信長は北信濃四部を森長可に与えた。森長可は三月末北信濃の鎮城海津城へ入り、海津城将小幡昌虎、大室左衛門、西条治部、清野信昌らの旧知行を安堵させた。
 この年の6月織田信長が京都で討死したため、上杉氏を攻めて、越後二本木まで侵攻していた森長可は、急遽兵をかえして、信長の弔合戦のため京へ向かった。それを追って上杉景勝は北信濃に兵を進め、北信濃の諸士に服属を求めそれぞれの本領を安堵させた。
 海津城に入った景勝は、小県の真田昌幸や、筑摩の小笠原貞慶に備えて、陣中にあった村上源吾景国を海津城将とし北信濃四郡を統轄させることにし、埴科の諸士にもそれぞれ配備を行なった。すなわち寺尾城は寺尾伝左衛門に、西条城は西条治部に、東条城は東条左衛門に、大室城は大室弥治郎に、屋代城は屋代秀正に、猿ヶ馬場の竜王城は清野左衛門尉信昌にそれぞれ守らせた。
●1583年(天正十一)7月上野国から佐久郡を経て小県郡に侵入した北条氏直は、小県方面の諸士に服属を求めた。その勢の強大なのを見て、真田昌幸をはじめ祢津、望月氏など氏直に臣属を約した。
 武田氏の旧臣であった春日弾正忠は、先に上杉景勝に属して海津城将として在城していたが、北条氏直の小県侵入によって、武田氏の旧臣の多くがこれに従ったので、真田昌幸と密かに通じ、氏直を川中島方面に引入れ景勝と戦わせ、自身は海津城から氏直に呼応して景勝に叛き、氏直に勝利を導こうとした、しかしこれは事前に発覚して、弾正忠は捕えられ殺された。このとき景勝は氏直の川中島出陣に備えて海津城を出て清野鞍掛山(鞍骨山)の麓赤坂山(妻女山)に陣したとも伝えられている。
 先に記したように、景勝による村上景国の潅津城将任命と同時に、景勝は元高坂弾正忠の介添として、海津城にあった小幡山城守昌虎の海津城副将の任を解いて、代って村上義清の旧臣屋代の屋代左衛門秀正を海津城二の丸に入れて、旧にならって村上景国に協力するよう命じた。
 屋代氏は村上氏の老臣中重きをなしてきた家筋であった。小県郡の真田昌幸に対する攻防の要所である荒砥城の、城将でもあった秀正を海津城二の丸に移したため、同城の城番として、清野、寺尾、西条、大室、保科、綱島、綿内氏らに命じた。このときの清野氏は誰かは詳らかでないが、助次郎長範であったと思われる。長範は清野周防とも称し、会津藩葦名氏の家臣の家に生まれ、清重の養子になったものである。後に猿ケ馬場の留守役を勤めている。
 1580年頃の真田昌幸にとっては、上州で北条氏政と争い、北方では上杉景勝の進攻を阻止しなければならず、苦しい立場にあった。そんな事情を知った家康は、昌幸の立場を利用し、これを味方に引き入れようとはかり、昌幸を勧誘した。昌幸はこれに応じ、家康に服属することになった。
 長らくは対陣を続けていた徳川家康と北条氏政は、織田信雄の勧めによって、氏政に上州沼田を渡し、家康は信州の佐久郡と甲州の一部を領有することで和睦したので、家康は昌幸を助けるために、佐久、小県方面への出陣を昌幸に報じた。
 家康が小県方面への出陣の報は、東北信将士に衝撃を与えた。昌幸は弟の加津野信昌と計り、海津城二の丸にあった屋代秀正に服属を求めた。屋代氏は村上義清の没落と共に宗家村上氏に叛き、武田氏に属し、荒砥城を宛行なわれていた。
●1582年(天正十)武田滅亡後景勝が北信濃を経略すると秀正は他の将士とともに景勝に服した。景勝は秀正に屋代城を与え本領を安堵させた。
 昌幸の誘いに応じた秀正は、上杉、真田の両者が虚空蔵山城を挟んで争っている間に、海津二の丸を抜け出し領地に帰ってしまった。
 秀正の離反を知ると、景勝は北信濃の諸氏の動揺を抑え、一方荒砥城番衆の清野左衛門佐信昌以下に秀正討伐の意を伝えた。かくて秀正は城番衆に攻め立てられ防戦することができないで、1583年(天正十一)四月はじめ一族を率いて逃れ行方をくらませてしまった。
 屋代秀正が景勝に叛いたのを見て、筑摩の小笠原貞慶は竜王城に襲いかかったが、守備をしていた清野長範はよく防ぎ追い返した。
 村上景国が屋代秀正のことにより、海津城将を罷免させられたあと、同城将になった上条義春(宣順)は、海津城にあって北信地方、特に更埴地方の軍政に当たっていた。
 その頃上杉景勝は羽柴秀吉と款を通じ、秀吉は景勝に人質を要求した。そのため景勝は、妹婿である上条義春の子を人質に出すことにした。その代りとして義春の諸役をゆるめ、海津城将としての勤務を免除した。義春の後役として、景勝は越中国に在陣していた須田相模守満親を城将とした。
 清野長範は四千二百石を与えられて、依然として猿ヶ馬場留守衆として勤めていた。前に記したように、織田信雄の勧めによる家康と氏政の和睦に際し、家康は上州沼田領を氏政に渡すことになり、その事を昌幸に告げた。しかしそのとき家康は、沼田を氏政に渡すにおいては、後日その替地をあたえるであろうことを申し送ったのみで、その替地については具体的にしなかった。昌幸は三年前景勝が勝頼に沼田領を譲ったとき、勝煩から沼田城を与えられ、旧城主紹田平八郎を討ちとって得た沼田領を、替地を与えられないまま氏政に渡すことの無念さと、甲斐の一部と佐久郡を得た家康が、小県郡をも奪いはしないかとの危惧からその命を斥け、酒田に矢沢薩摩守綱頼を置いて、武備を固めて万一に備えた。家康は昌幸が命を奉じないのを見て上田城攻撃にかかった。昌幸はかねて秀吉と相通じていた景勝に頼り援助を求めた。景勝は昌幸がかつて一旦自分に服属しながら叛いて氏政に服し、更に家康に従属したのを心ょく思っていなかったが、昌幸の衷心を思い請いを容れた。そして昌幸に酒田、吾妻、小県郡を知行させるとともに、坂木及び庄内(村上庄)の知行を宛行うこと、更に佐久郡甲州両所において一郡及び上州の長野一跡、屋代秀正の跡地を宛行うこととした。
 これより先、昌幸は海津城将須田満親が同城へ入った頃(1585年)、その二子、後の信繁を満親の所へ人質として送り、景勝への取りなしを請うている。それによって景勝の配慮がなされたものと思われる。
 家康が昌幸を攻めようとして、甲州、伊那、佐久の軍勢を率いて小県郡に出陣したのを見て、景勝は高井、水内郡の諸士をはじめ、清野左衛門佐信昌、西条治部少輔ら更埴の士に満親の指導に従うよう命じた。満親は地蔵峠を越えて小県郡曲尾方面にも助勢を送り、昌幸を応援した。
 家康は上田の海士ケ淵城(上田城)を攻めるため軍を神川まで進めたが、昌幸はこれを国分寺に迎え討って退けた。国分寺の戦いに破れた家康は、丸子城の丸子平内、丸子三左衛門を攻めたがここでも大敗した。
 関東では北条氏直が家康に呼応して沼田城を攻めたが、城将矢沢綱頼はよく守って北条勢を撃退した。そこで景勝は越後北部の新発田重家を鎮圧するため出陣していた矢沢頼幸を、沼田に帰し北条勢の攻撃に備えた。このときの北越の戦いには、西条治部少輔、清野信昌や寺尾、綱島、大室ら更埴の諸士が多く参加していた。
●1598年(慶長三)豊臣秀吉は、奥州会津九十三万石の蒲生秀隆を、宇都宮十八万石に移し、続いて上杉景勝をその後がまに据えた。奥州、羽州の一部を旧領佐渡を加えて百三十二万石であった。このとき秀吉は、景勝の国替えについて、侍以下奉公人は一人も残さず奥羽へ召連れて行くこと、但し、検地帳面に登載されている百姓は一切連れて行くことを禁じた。
 このとき景勝の分国であった北信濃四郡には、海津城に須田相模守満親、長沼城に島津淡路守忠直、飯山城に岩井備中守信能、牧島城の芋川越前守親正らが在職していたが、これらの諸将にはそれぞれ新領地に配置を定め、その他の地士たちにも、謙信以来の勲功に報ゆるために、それぞれ高禄を給した。
 このとき海津城将だった須田満親には二万三千石、清野助次郎長範には一万四千石、その他西条氏、寺尾氏、大室氏らも優遇して禄を給せられた。
 かくて北信濃の武士たちは妻子一族を連れて会津に移ったのである。


◆つまり、非常に厳しかったという秀吉の国替えにより、善光寺平から名だたる土豪が家族家来共に全ていなくなったのである。エリートが全ていなくなったと言ってもよい。清野に清野氏なし、寺尾に寺尾氏なしと言われる所以である。そして、それは文化の移譲でもあった。
 江戸時代になり、高遠藩の保科正之が、徳川家光の腹違いの弟と判明し、会津に転封になる。ここでまた信州の血が移譲される。高遠蕎麦は、近年まで高遠にはなく会津にあった。現在は高遠の郷土料理として復活している。
 保科正之に付いて会津へ行った我が一族の祖先がいる。四代後に商人となり、林正光は豪商となり会津藩を支えた。福島県の中でも、会津は特殊な所と認識されている。
 しかし、時が経ち、幕末の戊辰戦争で会津若松城をメリケン砲でボコボコにしたのは、佐久間象山を指導の元に置いた松代藩である。皮肉なことに、白虎隊の戦いは信州人同士の戦いだったとも言えるのである。
 妻女山麓の会津比売神社の祭神、会津比売命の名は、会津に由来する。彼の彼女の祖父は大国主命の息子で、諏訪大社の祭神健御名方命(たけみなかたのみこと)。その息子が埴科更科の産土神といわれる皆神神社の祭神の出速雄命(いずはやおのみこと)。彼女はその娘で、古事記にも出、崇神天皇より任命された科野国造の建五百建命(たけいおたつのみこと)の妻と伝わっている。
 会津とは、崇神天皇10年9月9日、崇神天皇の伯父大彦命(おおひこのみこと)を北陸道へ、その子武淳川別命(たけぬなかわ わけのみこと)を東海道へ遣 わせた。日本海側を進んだ大彦命は越後から東に折れ、太平洋側を進んだ武淳川別命は南奥から西に折れた。二人の出会った所を相津(會津、会津)という。 『日本書紀』
 相津と想定される会津坂下町青津。能登南部からの移住者を想定される弥生時代終末期の男壇遺跡・宮東遺跡があり、亀ヶ森古墳等がある。(会津学研究会サイトより引用)
 信州と会津の間には、古代より非常に深い因縁があるということである。


●1598年(慶長三)豊臣秀吉が死去すると景勝は家康と対立。
●1600年(慶長五)景勝は会津から出兵。東軍に与した伊達政宗や最上義光らと戦うが、9月15日の本戦で三成ら西軍が敗れたため、12月に家康に降伏することを余儀なくされる。
●1601年(慶長六)上洛して家康に謝罪。上杉景勝は、出羽米沢30万石藩主として減移封される。
●1614年(慶長十九)大坂の陣で、徳川方について先鋒として活躍する。
松代城(海津城)の歴史は、こちら。

★出展:清野小学校開校百年誌(誤字など一部校正済み。元は埴科郡誌。●は読みやすいように加筆)  注:当ページの文章の転載、流用、引用を禁じます。

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