| 鞍骨城主郭 2006.12.31 |
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| ●鞍骨城は、旧埴科郡の山城の中で最大のものです。本郭は、西辺20m、南辺17m、北辺9.7mの不整方形。西方に16×9mの脇郭、22×12mの副郭、さらにその西に幅9.4×長さ18mの大郭、その西に幅8m×長さ70mの狭長な郭があり、堀切を隔てて平坦部が続きます。本郭の南方に井戸の段郭があり、その下にまた井戸のある8.9m四方の郭があります。その南方に箕状の段郭が階段式に4つ連立しています。本郭の北東には土塁があり、外側は石積みになっています。南面に比べて北面は険しく傾斜が急です。このため南面が大手とされたようです。この城は、清野氏の要害であったことは間違いありませんが、永正年中(1504-1520)清野山城守勝照の築城説については明証がないようです。 ここは、険しい山城なので清野氏の住居だったわけではないようです。館は、清野の大村の古峰神社にあり、本城からの方角から、「禽(とり)の倉屋敷」と呼ばれたと伝えられています。 ●清野村誌によると、「村の北の方、字中沖にあり。往古本村領主清野氏数代之に居す。年月不詳。清野某海津に移り、該地に倉庫を建つ。此時より禽の倉屋敷と称す。天文、弘治中、清野山城守武田氏に敗られ、越後に逃走するに及び武田氏の有となり、天正十年三月武田勝頼滅び、織田信長の臣森長可の有となり、六月信長弑せされ長可西上するに至り、七月上杉景勝の所有となり、某幕下清野左衛門尉宗頼、該地に移り居住すと言う。管窺武鑑に七月四郡(埴科・更級・水内・高井)上杉景勝の有となり、清野左衛門尉を、猿ケ馬場の隣地、竜王城に移とあり。一時此処に居せしか不詳。後真田氏領分の時に至り寛永中焼亡す。後真田氏の臣高久某此域に居住し、邸地に天満宮を観請す。弘化二乙己四月村民清野氏の碑を建つ。」ということです。 |
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| ●戦国時代、各地で盛んに山城が築かれます。山城は戦乱の時代において戦争の基地として、また防御のための施設として生まれました。 郭と呼ばれる空間が一ヶ所から数ヶ所連なり、最後の砦となる主郭はとりわけ大きく平坦で、時には建物もあったようです。郭と郭の間 や麓から郭までの斜面には何本もの空堀や土塁(土手状の囲い)が設けられ、敵の侵入を許さない構造になっています。こうした戦いのた めの施設である山城には日常の生活施設はなく、通常は城の麓に居住地が置かれました。 (日本民俗資料館記載資料より抜粋) |
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