鞍骨城主郭から鏡台山を望む 2006.12.31
●武田の別働隊は、写真の右の尾根へ西条の入(尾根の向こう側)から坂城の日名へ延びる唐木堂越を登り、戸神山を巻き、さらに大嵐山を巻いて、御姫山を越え、左手前の尾根から、ここ鞍骨城南面の道を辿り、天城山を越えて堂平へ下り、もぬけの殻の陣馬平へ攻め込んだといいます。右奥に霞む山が鏡台山。間の谷は、倉科の里。
海津城から妻女山までは、およそ8km。そのうち山中が約6km。たいした距離ではありません。普段山も登らないような年輩の歴史家が無理だと決めつけたようですが、昔は小学生でも鏡台山まで登り、運動会までしたのですから、通れない経路と時間では決してありません。また、隊を分けて戸神山から倉科へ下り、生萱・土口から妻女山を攻めたと思われます。
●戦国時代の馬は、大河ドラマのようにサラブレッドではありません。もともと日本には馬はおらず、中国や朝鮮半島から渡来人によってもたらされたもの。体高130cmぐらいのかなり小型の馬でした。当然、重い鎧をつけた武士が騎乗して大軍で敵に突っ込むなんてことができるはずはありません。あれはテレビや映画の作り事です。
かといって騎馬戦が無かったと決めつけるのも早計だと思います。戦国時代の馬は、道産子や木曽馬を見ると分かるように脚は太く、速くは走れないけれども農耕馬や荷物の運搬には適していました。つまり山越えもお手の物だったわけです。また、左右の脚が同時に交互に出る「側対歩」という走り方を教えたとか。近年注目されている人の「なんば走り」です。
上下動が少なく弓矢をいりやすいのだとか。しかし長く走れないのが欠点。普段は、「斜対歩」や「常歩(なみあし)」だったのでしょう。競馬馬のように「襲歩(ギャロップ)」を使ったとは到底思えませんし。どうやって戦ったかは、モンゴルの騎馬軍団などを見ると参考になるかも知れません。
●その昔に聞いた話では、大嵐山の西条側の中腹には松代藩の氷室があり、毎年6月1日暁に城へ氷を献上したということです。西条の西楽寺・霊屋脇から山道を登ったところにその跡があるようですが、現在の状態は不明です。

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