鞍骨城から鏡台山を望む 2006.12.31
●武田の別働隊は、写真の左の尾根へ西条の入から坂城の日名へ延びる尾根道を登り、写真左に見える戸神山から大嵐の峰を巻いて、左手前の尾根を、ここ鞍骨城へ至る道を辿り、
天城山を越えて堂平へ下り、無人の陣馬平へ攻め込んだと思われます。
数々の俳句にも詠まれて有名な姨捨山(おばすてやま)から見た月で知られる鏡台山(1241m)。近年は登る人も少ないようですが、清野小学校開校百年誌には、昭和5年卒業のひとの話として、
清野小学校から妻女山、鞍骨城を経由し鏡台山へキャンプに行ったことが書かれています。米、味噌、野菜、缶詰、飯ごう、着替えを入れた重いリュックを背負って、夏ですから薮をカマで
はらいながら登ったということです。昔の子供は逞しい。父も同じような経験をしたようです。鏡台山は、埴科郡のどこからも登れる山として昔は親しまれていたそうです。
驚くのは、夕食の後、ドドドドーン!という轟音と共に浅間山が大噴火したというのです。生涯忘れえない想い出となったことでしょう。ここ鞍骨城から鏡台山までは、3時間半から4時間かかるということです。
●また、更に驚くべきことに、大正9年5月27日には、埴科郡の尋常小学校5年以上の児童が、鏡台山頂(北峰1267m)に集まり合同運動会を開催したというのです。合同体操に始まり、綱引、鉢巻取、襷(たすき)取、
棒倒しなどを行ったということです。今時の子供なら登るだけでも精一杯でしょう。七回ほど開催されたそうですが、雨天により登山途中で中止になったりで、大正12年より廃止されたということです。
そう考えると、更に山には長けていた武田の軍勢が、地元の地理に詳しい高坂弾正の先導でこの山を深夜に移動するのもあり得たことかもしれないと思えてきます。
なにより鏡台山が、昔より埴科郡の中心にあり、重要な交通路が通じていたということ。
武田に味方した信州勢が、先導して道案内をすることは、容易いことであったと推察できることです。
●私見ですが、12000の軍勢が全て同じコースを辿ったのではなく、鏡台山の尾根に乗ってから、隊を分けたのではないかと考えます。ある隊は、尾根づたいに。ある隊は倉科に下りて二本松峠、或いは鷲尾城経由で。
ある隊は唐崎城の尾根から、または土口の谷から笹崎、陣馬平へと攻め込んだのではないでしょうか。狭い鞍骨の尾根を12000もの軍が進むのは、長い隊列になってしまいあまりに無駄が多く不合理ですから。
上杉軍も妻女山(斎場山)を中心として各所(陣馬平・長尾根・赤坂山等)に布陣していたわけですから。そこをそれぞれが攻めると考えた方が自然ではないでしょうか。
しかし、いずれにしても妻女山に武田の別働隊が到着したときには蛻の殻(もぬけのから)、既に上杉軍は山を下りて雨宮の渡しや狗ケ瀬、十二ケ瀬を渡り、無傷で武田信玄8000の軍と対峙していたわけです。

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