| 妻女山(赤坂山)より八幡原から松代、鞍骨城を望む 2006.12.31 |
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| ■第四次川中島合戦 ●春日城を発った上杉謙信は、牟礼宿で善光寺に向かう兵糧軍3000と別れ布野(長野市朝日布野)で千曲川を渡り、福島宿(須坂市福島)、飯山通りを川田宿へと南下。大室と加賀井を結ぶ重要交通路、可候(そろべく)峠(写真・寺尾城の後方)、鋤崎(すきざき)峠を越え、東条から西条へと進軍。 その時、直江山城守が、まだ武田信玄のいない海津城を攻めることを進言するも、「弱兵の城を攻めるは、卑怯未練の働き、臆病者のする業」と取り合わず、無視して進軍。関谷川(蛭川)を越え、多田越え(竹山城と法泉寺の間)し、清野に入り、妻女山に布陣する。 一の手は、直江山城守が赤坂の下。二の手は、甘粕近江守が清野出埼を陣として月夜平まで。三の手は、宇佐見駿河守が岩野十二川原に。四の手は、柿崎和泉守が土口笹崎に。五の手は、村上入道義清が務める。 上杉謙信本陣は、ここ妻女山(斎場山)に構えた。謙信は、信玄が茶臼山に布陣し、横田、小森、東福寺、水沢まで固め、善光寺からの補給路を断つも全く動ぜず。やがて信玄は、広瀬の渡しから全軍を海津城に入れ、軍議を開く。 ●武田信玄は、山本勘助の進言により、啄木鳥の戦法を採用。12000の別働隊が、子の半刻(午前1時頃)に海津城を出陣し、西条の入から鏡台山を通って坂城の日名へ抜ける唐木堂越の道を登り、右手森の平から大嵐の峰(大嵐山977.5m)を通り、 山を超えて妻女山(斎場山)の脇より謙信本陣に夜討ちをかける。(史実であれば、忍び松明での夜行軍は、さぞ辛苦の連続だったろうと思われます)武田信玄8000は、寅の上刻に八幡原へと出陣する。 しかし、武田の戦法を見破った謙信は、月の入りを待って、丑の中刻(午前3時頃)静かに妻女山を下り、未明に濃霧の中、千曲川の雨宮の渡し(狗ケ瀬)、あるいは十二ケ瀬を渡り八幡原へ進撃。 武田軍別働隊は、辛苦の行軍をして、やっとの思いで妻女山へと進撃するももぬけの殻。あわてて山を下りるも、今や遅しと東福寺で待ちかまえていた甘粕1000人と激戦になる。 早朝、上杉謙信が八幡原の信玄を急襲し合戦となる。初めは上杉の優勢。やがて甘粕軍を敗った別働隊が到着し、午後は信玄が優勢。謙信は、善光寺への退却を余儀なくされる。 信濃は武田に制圧される。 この戦で武田信玄の弟信繁が戦死。参謀・山本勘助は、猛然と敵に襲いかかり戦死。 ■クリント・イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」のモデル、日本軍司令官として闘った栗林忠道(ただみち)中将の生家は象山の向こうの西条に、墓は豊栄の「明徳寺(曹洞宗)」にあります。 この寺はまた、第四次川中島合戦の折りに妻女山攻撃別働隊で活躍した高坂弾正の墓があることで知られています。武田が甲州に上杉の妻女山布陣を知らせた狼煙山は、本来は高テキ山・舞鶴山といいます。 ■大室古墳群(金井山城の向こう側の大室谷を中心として奇妙山から伸びる3つの尾根上と2つの谷に分布) ●大室古墳群は、国史跡指定地で日本最大の積石塚古墳群です。大室谷を中心として約2.5キロ平方の範囲に、5世紀から7世紀に造られた大小約500基の古墳があります。 全国でも40基ほどしか知られていない三角屋根の「合掌形石室」があり、ここには25基が分布しています。他に「積石塚(全体の70-80パーセント)」「土石混合墳」「横穴式石室」などがあります。 2002年7月7日に大室古墳館がオープン(無料・駐車場あり)。そこから杉林に囲まれた山道を進むと、長野市内を一望できる「眺望ゾーン」に着きます。大星山頂付近には、大室古墳群唯―の前方後円墳(全長56m)があります。 この辺り一帯には、馬を生産していた高句麗の渡来人の集団が住んでいたのではないかといわれています。 |
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■MORI MORI KIDS ■MORI MORI KIDS Nature Photograph GalleryI ■CAPINO CAPINO(C) in Tokyo Japan since 08.04.2003 |